あまり期待していなかったが、意外によかった2本の映画をご紹介。結末に触れないとなぜよかったかを書けないので、ネタバレありです。
試写状を見たときはピンと来なかったが、RottenTomatoesの評価が高いので見に行ったマイケル・ファスベンダー主演「FRANK フランク」。ファスベンダーが大きな被り物のお面をずっとかぶっている映画らしい、としかわからなかったけれど、開けてみたら、これがなかなかに優れた映画だった。
主人公はイングランドのしがない会社員ジョン(ドーナル・グリーソン)。彼は音楽界で成功することを夢見てキーボードで作曲をする日々。ある日、海岸でバンドのキーボード奏者が自殺未遂をはかった現場を目撃し、居合わせたバンド・リーダーからその日の夜の演奏でキーボードを担当してくれるよう頼まれる。
そのバンドは無名なのだけれど、メンバーは奇妙な人ばかり。大きな被り物のお面をかぶったボーカルのフランク(ファスベンダー)、彼を守る女性クララ(マギー・ギレンホール)、やたら突っかかってくるフランス人、そしてリーダーもかなり変。
フランクはお風呂に入るときも食事のときもお面を脱がず、素顔はわからないが、人間としてはなかなか面白く、しかも優れた作曲家であることがわかる。
メンバーはアイルランドの田舎の家でレコーディングをするが、ジョンはフランクのすばらしい曲やバンドの仲間たちを世界に紹介しようとネットで映像を流す。やがてテキサスの音楽祭から声がかかり、ジョンはフランクを売り出す絶好のチャンスだと思うが、仲間たちは有名になることには乗り気ではない。有名になりたいという野心を持つジョンは仲間を説き伏せ、テキサスへ行くが、という物語。
とにかくぶっ飛んでいるエピソードの連続で、時々くすっと笑ってしまうようなシーンもあり、おかしなバンド・メンバーたちの奇妙奇天烈な行動や、顔を見せないフランクの人間味ある行動も面白いのだが、途中、自殺してしまうメンバーもいたり、けんかもあったりと、けっこうダークな部分がある。そして後半、テキサスへ行くと、そのダークな部分が前面に出てくる。ジョンはフランクの才能に感動し、彼を有名にしたいと野心でいっぱいだが、このバンドのメンバーたちはみな、心を病んでいたり傷ついていたりする人たちで、そういう野心とは無縁でいないといけない。野心で人前に出たりすると彼らは壊れてしまうのだ。それがわからないジョンは、結局、メンバーを、そしてフランクを傷つけてしまう。
youtubeの再生回数が数十万回あったからといって、彼らは人気者だったわけではなかったとわかるシーンの残酷さ。お面を失い、どこかに去ってしまったフランクをジョンが探しあてたときに知る、フランクの本当の姿。心を病んだフランクの苦悩がすばらしい曲を生んだと勝手に思うジョンの勘違い。
奇妙奇天烈で、楽しくもおかしいシーンの連続なのに、そこには哀しく残酷な真理が隠れている。丸顔の被り物のお面と、その中にあるファスベンダーの苦悩の表情の対比がまさにそれだ。ジョンのような野心のある平凡な人間には、それはなかなか見えないもので、ジョンのように善意から人を傷つけてしまうことがあるということを痛切に感じた。
「フランク」はアイルランドの監督レニー・アブラハムソンの作品だが、もう1本はノルウェーの監督エーリク・ポッペの映画「おやすみなさいを言いたくて」。
原題はA Thousand Times Good Nightで、邦題と似た意味だけれど、このヤワな邦題がまったく似合わないシリアスな内容だった。
主人公は報道写真家の女性レベッカ(ジュリエット・ビノシュ)。アイルランドの海辺の家には海洋生物学者の夫と2人の娘がいるが、レベッカはコンゴやアフガニスタンなどの紛争地に取材に出かけ、たまにしか帰ってこない。家族はレベッカの身が心配で不安な毎日だが、彼女は紛争の現場を見ると血が騒ぐという、典型的なこの手の報道カメラマン(「サルバドル」のように)。
監督自身が紛争地の報道写真家だったそうで、主人公を女性にすることで仕事と家族の問題を鮮明にしようとしたようだ。
アフガニスタンで自爆テロに向かうタリバンの女性を取材した彼女は、取材に深入りしすぎて爆発に巻き込まれ、負傷。娘ともども不安な日々を送っていた夫はついにキレる。レベッカは夫と娘たちの苦しみを知って、紛争地の取材はやめることを決意。家族はアイルランドで平和な日々をすごす。
レベッカの長女ステフはアフリカの問題を研究する会に入っていた。そんなとき、レベッカのところにケニアの難民キャンプでの取材の依頼が来る。そこは紛争地ではなく、まったく安全だと聞いた長女は自分も取材に行きたいと言いだすが、レベッカは断る。それでも行きたがる長女に、夫も行っていいと言いだし、レベッカとステフはケニアへ行く。ところがキャンプで襲撃事件が勃発。娘を安全な場所に避難させたレベッカは、カメラを持って現場へ行ってしまう。母は自分よりも仕事を取ったと、ステフはショックを受ける。
このあと、レベッカは夫と娘たちから総スカンとなり、家を追い出されてしまうのだが、それまでの経過を見ると彼女だけが悪いとも思えず、ちょっと展開が甘いかな、と思うが、そのあとのクライマックスがすばらしい。
レベッカが取材した自爆テロの女性の写真はアメリカ政府の圧力で没にされていたが、その後、出版が決まり、追加の取材の依頼が来る。一方、ステフも母の仕事の大切さがわかってくる。アフリカ研究会の発表会で、ステフがケニアで撮った写真を紹介しながら、現実を世の中に知らせるには写真を撮り続ける人が必要で、それが母なのだ、難民キャンプの子供たちは母を必要としている、と言う。
映画の中盤、娘に、なぜ写真を撮り続けるのかと聞かれ、レベッカが、怒りからだ、と答えるシーンがある。レベッカは写真を撮ることで少しでも世の中に現実を知らせようと努力してきた。だから写真を没にされると怒るし、世間の人が紛争地での悲惨な現実に目を向けないと怒る。
もしも写真という手段がなかったら、彼女は過激派になったかもしれない。タリバンの自爆テロの女性のように。
冒頭のシーンの自爆テロの女性は子供のいる母だった。テロによって世の中が変わると彼女は信じていて、子供よりも死を選ぶのだ。
レベッカの写真が没になったのは、自爆テロを美化していると思われると困る、というエージェントの判断だった。
レベッカ自身は自爆テロをする女性の気持ちも理解し、しかし、テロで人が傷つくことは承認できず、現場では「爆弾よ」と叫ぶ。
家族か仕事かだけでなく、仕事の中でも彼女は相反する2つのものにはさまれている。
(以下、ネタバレにつき、隠します。)
そして、再びアフガニスタンへ取材に出かけたレベッカは、再度タリバンの自爆テロの女性を取材する。その女性は長女ステフと同じくらいの年の少女だった。
カメラを持った彼女はまったく無力になってしまう。「止めなければ、止めなければ」とつぶやくだけで、何もできない。カメラを構えることさえできなくなってしまう。
少女を乗せた車が去っていったとき、レベッカはがっくりとひざをつく。彼女はついに1枚も少女の写真を撮れなかった。
レベッカが泣きながらシャッターを切る、という選択肢もあったと思う。でも、その場合、彼女は写真が世の中を変えるということを信じた、という意味になる。
ついに写真が撮れなかった彼女は、写真の無力を悟ったに違いない。
この種の報道写真を見た人からよく出る疑問に、たとえば餓死する寸前の子供を写した写真について、カメラマンは写真など撮らずにこの子を救うべきではないのか、というのがある。それに対し、写真家は、餓死するのはこの子だけではない、まわりで多数の子供が死んでいる。それを知らせるために写真を撮るのだ、という。
だが、報道写真家出身の監督は、目の前の人を助けられない写真の無力を感じたことがあるのだろう。レベッカが泣きながらシャッターを切るというもう1つの選択肢は、従来の写真家の主張で、目の前の少女は死んでも写真で世の中を変えられるという信念の表れになる。
しかし、ついに写真が撮れなかったレベッカのラストは、写真で世の中が変えられるのか、人が救えるのか、という信念の揺らぎであり、結論を言わずに観客に考えさせる開かれた結末となっている。