2017年10月24日火曜日

たわごと

最近、「メイキング・オブ・ブレードランナー」という分厚い本を借りてきて読んでいました。
「ブレードランナー」の続編が今週末から公開ということで、あまり期待はしてませんが、初公開版からファイナル・カットまでを網羅したこの本を読んでみることに。
「ブレードランナー」は初公開時に見て、非常に好きになり、その後、創元推理文庫の「フランケンシュタイン」の解説を書くことになり、あれ、もしかして「ブレードランナー」は「フランケンシュタイン」だったのでは、と思って名画座に再度見に行ったのです。
最初が1982年、次の名画座が1983年だったかな。名画座の方はヴァンゲリスつながりで「炎のランナー」と二本立て。こちらもロードショーですでに見ていて2回目でした。
正直、「フランケンシュタイン」の解説は、「ブレードランナー」について書きたい、というのがかなり大きな目的の1つでしたね。そこで達成感を得てしまったので、その後は「ブレードランナー」について考えることはあまりなかったのは事実。
一方、初公開時、一部のSFファンにしか認められなかった「ブレードランナー」はやがてカルト的人気を得て、ついに1992年にはリドリー・スコットがディレクターズ・カット版を制作、そこで主人公のデッカードがレプリカントだという話になっちまったらしい。
実は私はディレクターズ・カットというやつをあまり信用してないのです。自分自身が最初に出会った映画をだいじにしたいタイプなので、そのあとなんだかんだで作り直したものを見たくないという気持ちが強いのです。なので、このディレクターズ・カットも当時は見なかったし、「ブレードランナー」に関する様々な言説にも無関心でいました。
つまり、私の中では「ブレードランナー」は1982年公開のインターナショナル版がそのまま記憶に残っていて、それ以外のものを受け入れていなかったのです。
しかし、何年か前に某大学で「ブレードランナー」を取り上げることになり、そのとき初めて北米初公開版とディレクターズ・カットを見ました。が、見たけどやっぱりインターナショナル版がいいわ、と思って、わたくし的にはそれで終わりました。
その一方で、制作裏話みたいなのには興味があったのです。
で、今回、制作裏話を知りたくてその本を読んだのですが、興味深いところも多かったけれど、その一方で、ああ、この映画は私とは違うマニアのものになってしまったんだなあ、という感を深くしたのでした。
こういう感覚って、私にはよくあることなのです。まだ日本では知られてない作家をひいきにしていたら、いつのまにか日本で人気が出て、私とは違う世界になってしまうとか。そういう運命なんでしょうね。
デッカードがレプリカントだということはスコットが撮影中に思いついたみたいで、初公開版ではあいまいになっているのですが、ディレクターズ・カットでは一角獣の夢のシーンを入れることで彼はレプリカントになった、とその本の著者は力説しているのですが、一角獣のシーンくらいでそう言われてもねえ。
私の意見を言わせてもらえば、デッカードがレプリカントだったらこの話は全然面白くないんですよ。デッカードが人間だけど、でもレプリカントとどう違うのか、というのが面白いんで、完全にレプリカントだったら、単にレプリカント同士でいろいろやってるだけで、人間対レプリカントの対比がなくなってしまう。いやむしろ、レプリカントだって人間なんだ、という方向の物語のはずなんですがね。だって、「フランケンシュタイン」がそうでしょ。怪物だって人間なんだ、って。
実は私は、脚本家が「フランケンシュタイン」を意識していたけれど、スコットは「フランケンシュタイン」テーマがいやで、デッカードをレプリカントにしたのかなあ、と思っていたのですが、どうもそうでもないらしい。つか、スコットって、最近また「エイリアン」の新シリーズやってるけど、そこで「フランケンシュタイン」テーマをやってるんだって? わたしゃもうこの新シリーズはスルーしてるんですが、そうなの? で、「エイリアン」シリーズと「ブレードランナー」をつなげるって、もろ「フランケンシュタイン」? わからん。
まあ、私としては、デッカードがレプリカントだったら「フランケンシュタイン」ではない、ということだけは強調しておきます。
どっちかっつうと、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」じゃなくて、もっとおおざっぱなフランケンシュタイン・テーマなのかもしれませんね??? いや、わからん(でも、それを確かめに「エイリアン」新シリーズ見る元気もないしなあ)。