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2026年4月5日日曜日

「ザ・ブライド!」

 ボリス・カーロフ主演「フランケンシュタインの花嫁」にヒントを得た映画「ザ・ブライド!」。


怪物の伴侶を作るという話は原作にもあるが、こちらはフランケンシュタインが途中で断念し、それが怪物の復讐につながる、という設定になっていて、女の怪物は登場しない。が、カーロフ版「フランケンシュタイン」の続編「フランケンシュタインの花嫁」ではフランケンシュタインが女の怪物を作ることに成功する。このモチーフはのちにジェニファー・ビールスが女の怪物を演じる「ブライド」、ヘレナ・ボナム・カーターが女の怪物にされるケネス・ブラナー版「フランケンシュタイン」へとつながる。

「ザ・ブライド!」は死んだ原作者メアリ・シェリーが1930年代のアメリカ女性アイダに乗り移り、アイダは階段から転落死、その死体を再生技術を持つ科学者が怪物に頼まれて女の怪物にして生き返らせる。

メアリ・シェリーとアイダの両方を「ハムネット」で主演女優賞総なめにしたジェシー・バックリーが演じていて、「ハムネット」とはまったく違うイメージの演技。

カーロフの「フランケンシュタインの花嫁」では、冒頭でエルザ・ランチェスター演じるメアリが夫で詩人のシェリーとその友人で詩人のバイロンに「フランケンシュタイン」の続きを語るという設定で、ランチェスターは女の怪物も演じているから、バックリーがメアリとアイダを演じるのはまさにここから来ている。

それ以外にも、カーロフ版のディテールがせりふなどにちょこちょこ出てくる。

予告編を見たときは「ジョーカー」+「俺たちに明日はない」だなと思ったが、どちらも「ザ・ブライド」と同じワーナー映画。でも、前半は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画を思わせるシーンがあったりして、アステア&ロジャース映画もカーロフ版もRKO映画だから、その辺へのオマージュもあるようだ。

で、映画そのものなんですが、ロッテントマトの批評家の評価がかなり悪い。この低評価だったら見るのやめるところだが、「フランケンシュタイン」関連だと一応見ておかないと、ってわけで、全然期待しないで行ったら、やっぱりひどかった。

前半はRKO映画へのオマージュなんだけど、途中からメアリが乗り移ったアイダがフェミニズム的怒りをぶちまけ、それをまねした女性たちが同じような行動をするところはもろ「ジョーカー」だし、そのあとはもう、ボニーとクライド、「俺たちに明日はない」で、(以下ネタバレ)クライマックスももろあのシーンのオマージュ。

そもそも、メアリが乗り移って転落死したアイダの死体を科学者と怪物が掘り出して女の怪物を作る、というのも、この2つのできごとの間にまったく関連性がなくてただの偶然というか、ご都合主義の展開なのもなんだかなあ、なのだが、そこは目をつむるとしても、その後の展開がカーロフ版やアステア&ロジャースの映画、「ジョーカー」、「俺たちに明日はない」といった過去の有名映画のオマージュと、バックリーの狂気に振り切ったタガのはずれたツッパリ演技を見るだけなので、作品としては全然面白くない。怪物役のクリスチャン・ベールもバックリーの引き立て役にすぎず、もったいない。

ペネロペ・クルス演じる女性刑事が最後、「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスター入ってるよね、な感じもそれまでの一連の過去作オマージュの続きにすぎず、なんか過去作オマージュばっかりで、この映画のアイデンティティは何よ、と言いたくなる。

あと、この女性刑事の名前、マーナと発音してるのに字幕はずっとミルナなの、なんで? マーナ・ロイのマーナだよね?

というわけで、フランケン愛好家、過去作オマージュ探すの大好き、出演スターのファン、以外にはおすすめできない映画でした。

しかし、ワーナーも「嵐が丘」やこの映画みたいなのばかりって、身売り話でもめるくらい落ち目なのか。

そういや、「嵐が丘」はエメラルド・フェネル監督なのでフェミニズムあるかと思ったら全然なくて、「ザ・ブライド!」はマギー・ギレンホール監督だからやはりフェミニズムあるかと思ったら、一応それっぽいのはあるけど、真剣に取り入れているわけではない。同性愛ネタもいろいろあるが、遊びで入れてるようにしか見えない。

「嵐が丘」も「フランケンシュタイン」も原作者は女性で、どちらも悪魔的だが魅力的でもある男性登場人物(ヒースクリフと怪物)がいて、ゴシックとロマン主義の要素がある、と言う点で共通しているが、「フランケンシュタイン」は19世紀初頭に書かれて読者には受けたのに、「嵐が丘」は19世紀半ばに書かれて読者からは嫌われ、のちに名作として認められたという違いがある。また、「フランケンシュタイン」はホラーになり、「嵐が丘」はラブストーリーになったという違いも。しかし、「嵐が丘」の映画化は成功しないと先月書いたけど、「フランケンシュタイン」もカーロフ版みたいに原作をとことん変えてしまったものの方が成功している。

ベールの怪物は、顔に傷があるだけで全然怖くも醜くもないのは他の怪物俳優と同じだが、カーロフと、そして(フランケンの怪物ではないが)「エレファント・マン」のジョン・ハートだけは、最初は観客に怖くて醜いと思わせ、話が進むにつれて観客が同情し、怖くも醜くもなくなる、という演出と俳優の演技がみごとだった、ということをあらためて思い出した。

追記 映画の冒頭、メアリ・シェリーが、夫のシェリーが詩人のキーツと同性愛だったみたいなことを言っているが、これは、シェリーがキーツの詩をクソミソにけなしてしまったあと、キーツが早死にしたのでけなしたことを深く後悔したシェリーが、キーツを讃える詩を書いた、というのをもとにしている(もちろん、同性愛ではない)。また、メルヴィル、ホーソーンといった19世紀のアメリカ文学作家の名前も出てくるので、英米文学好きだとわかるところもいろいろあるが、でも、これも、だからといってどうよ、の域を出ない。

さらに追記 女性科学者が「バートルビー」をホーソーンだと言って、アイダに「メルヴィルだ」と訂正されるシーンがあるが、これ、もしかして、「ローマの休日」で、引用された詩を王女が「キーツ」と言ったのを新聞記者が「シェリーだ」と訂正したが、実はキーツで、王女が正しかった、というところから来てるのかな。このシーンでは記者は王女だと気づいていなくて、自分の方が教養があると思っていたのだ。

2026年1月23日金曜日

アカデミー賞ノミネート

 ギレルモ・デル・トロの「フランケンシュタイン」がゴールデングローブ賞でもアカデミー賞でも作品賞などにノミネートされているのだが、私から見たらケネス・ブラナー版の劣化ヴァージョンにすぎず、しかもブラナー版をパクっているところも多いのに、なんでこんなに賞レースに出てるの?と思うのだが、どうやら、ネットフリックスが猛プッシュしているらしい。

去年はネトフリ映画はあまり話題になるものがなかったから、これがイチ押しなんだろう。

たいした出来じゃないのに作品賞もなんだが、ブラナー版のパクリが多いのにアカデミー賞脚色賞ノミネートって。技術部門はまあ、理解できるが。

デル・トロ版「フランケンシュタイン」に対する批評はこちら。

さーべる倶楽部: ギレルモ・デル・トロの「フランケンシュタイン」(ネタバレ大有り)

実は去年の暮れに、意識高い系横文字古書店に、ブラナー版のこの本を売ろうと思っていたのだが、これだけでなく他の本もすべて買取拒否されたので(最近わかったのだが、ブックオフみたいなのじゃない昔ながらの古書店も、買取価格の合計が1万円以上じゃないとだめとか、やっぱり買取自体をやらなくなっているのだなと思った)、まだ手元にある。英語のシナリオも載っていて、充実した内容なので、持っていることにした。


アカデミー賞は「罪人たち」と「ワン・バトル・アフター・アナザー」の一騎打ちになりそうで、っていうか、GG賞もドラマ部門は「罪人たち」と思われていたら「ハムネット」になってびっくりな記事があったけど、「ハムネット」はハリウッド映画の本命に対する対抗のイギリス文芸路線枠なのだが、どうも作品評価が賛否両論らしい。映画は見てないが、原作は、私はあまり感心しなかったので、そういうことなのかもしれない。

「罪人たち」と「ワン・バトル~」は甲乙つけがたい作品で、どちらもエンタメ的に優れて面白いだけでなく、作品的にもすばらしい。白人中心で監督がベテランの白人の「ワン・バトル~」の方が有利だろうが、多少のどんでん返しはあるかもしれないので楽しみ。

2025年10月25日土曜日

ギレルモ・デル・トロの「フランケンシュタイン」(ネタバレ大有り)

 ギレルモ・デル・トロがネットフリックスで作った「フランケンシュタイン」が配信前2週間劇場公開。上映館が少ないせいか、この劇場にしてはかなり混んでいた。


公開前の情報だと、ケネス・ブラナー版と同じように始まり、でも、そのあとはだいぶ原作を変えているようだった。トロント映画祭で見た一般観客には評判がいいが、大手メディアの評論家はきびしく、100点満点中60点くらい。一般観客のコメントには、「ブラナー版の劣化ヴァージョン」とか「CGの狼が~」とか批判的な意見もあった。

ブラナー版は、それまで原作を大きく変えていた映画と違い、「メアリ・シェリーのフランケンシュタイン」という原題が示すように、原作に忠実な映画化。細部に変えたところはいくつかあるものの、それまでの映画では登場しなかった北極点をめざすウォルトン船長から始まり、原作のテーマやモチーフを尊重した作品だった。ただし、クライマックスはボリス・カーロフの「フランケンシュタインの花嫁」へのオマージュ。

事前の情報で、フランケンシュタインがスイス人からイギリス人に、ウォルトンに相当する船長がイギリス人からデンマーク人に変えられ、フランケンシュタインの婚約者エリザベスが弟ウィリアムの婚約者になっていて、このウィリアムも原作では幼い少年なのに映画では大人になっている、フランケンシュタインの親友クラーヴァルは登場しない、無実の罪で死刑になるジュスティーヌも登場しない、などはわかっていた。


デル・トロへのインタビューが公開直前にヤフーニュースに出たが、そこで彼は過去の有名な「フランケンシュタイン」の映画化作品の名前を次々とあげているのに、なぜか、ケネス・ブラナー版には言及していなかった。どう見てもブラナー版に近いところから始まる映画なのに、なぜ、と思ったが、映画を見始めてすぐにわかった。

映画は北極点をめざす船長のエピソードで始まり、船長に助けられたフランケンシュタインの回想になるのだが、ブラナー版が原作を変えた部分をそのままいただいているのである。

ブラナー版ではフランケンシュタインの父は医者で、妻はお産で死ぬ。しかし、原作の時代では身分の高い人は医者にはならない。そして、原作では妻は病死で、お産で死ぬのではない。

デル・トロはこの部分をそのまま自作にも使い、父は外科医で、妻はウィリアムを産んで死ぬ。デル・トロ版は時代が1850年代と、原作より半世紀くらいあとになっているが、それでも身分の高い人物が医者というのはまだの時代だろう。ただ、半世紀くらいあとに設定したことで、科学は原作よりも少し進んでいる。

また、ブラナー版では父と母は夫婦円満であり、妻の命を救えなかったことが父親と、そして主人公の心に深い傷を残すが、デル・トロ版では両親は政略結婚で不仲、特に父親は冷酷で名誉欲が強く、主人公は母を慕うが、その一方で、成長すると父親のような人物になってしまう。

というわけで、邪悪な父親に似てしまったフランケンシュタイン、という設定なのだが、この家庭の事情というのが別になくてもいいんじゃね、というような内容。ブラナー版の母の喪失から生命創造を思う方が自然に見える。

原作ではフランケンシュタインもウォルトン船長も若さゆえの野心を抱いていて、ブラナー版もそれを踏襲している。特にウォルトンを演じたエイダン・クインはよかった。

ところがデル・トロ版では船長は初老、フランケンシュタインも怪物を作る頃にはもう中年という感じで、若者の野心というテーマは消えてしまっている。原作では野心で身を滅ぼしたフランケンシュタインが北極点到達の野心にとりつかれるウォルトンをいさめるために自分の話をする。ブラナー版ではここはきっちり描かれているが、デル・トロ版も一応、そういうのは出てくるけれど、デル・トロはそういう原作のテーマみたいなのには興味がないようで、この辺は原作にあるので一応入れておきましたという域を出ない。

怪物を作る過程がデル・トロ版は非常に長く、そこにけっこうグロな描写があり、ブラナー版みたいに裸で右往左往するシーンまであるのだが(ここはブラナーへのオマージュか?)、怪物が誕生したあと、フランケンシュタインは怪物の世話をしている。ここが原作や過去の映画化とは違うところで、主人公が若くないからできたことだろう。


以下、ネタバレ大有りになります。

2024年4月23日火曜日

地元の書店で

 出版40周年、そして記念すべき30刷りとなった創元「フランケンシュタイン」でございます。

ただいま、創元70周年フェアというのを一部の書店でやっておりまして、そのフェアの1冊になっているのですが、フェアをやっている書店が少ない。

都心の有名書店でもちょこっとしかスペースとってなかったり。公式サイトにフェア実施中となっている書店なのにフェアやってなかったり。

で、公式でフェア実施中の書店の中に、自宅から徒歩15分余りの地元の書店がありまして。

ほんとにやってるのかどうかわからないけど、歩いていけるなら行ってみよう、と行ったら、やってました。

町の小さな普通の書店ですが、雑誌と漫画本ばかりというわけでもない書店だったので、意識高いのかもしれない。

都心の駅ナカの書店で、フェアやってるけど棚に1冊立ってるだけみたいなところもあるのに、この書店では3冊ずつ平積みになっていました(でも売れてなさそう)。

というわけで、地域貢献も兼ねて、地元で購入。


下のカバーはこの書店独自のものではないですが、レシートを記念にはさんで。

ところで、万引き誤認逮捕事件の某H堂が、フードコートでいなり寿司を女性に渡した男性が悪いというXのツイート2つに「いいね」して炎上し、そのあと、「いいね」を消したのですが、その点について突撃したのが中日スポーツ。答えは、「誤って」ということでしたが、ピンポイントでこの2つにだけ「いいね」していて「誤って」はないだろう、と世間では言われていますが、ここで重要なのは、こんなバカなことしたために、せっかくマスコミが名前を出さないでいてくれたのに、名前が出てしまったことです。

こういうことがあると株価が下がるので、株をやっている人は戦々恐々。

しかし、この事件、もしも「翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて」の公開直前だったら、映画公開中止になったかもだな。

もともとこの企画、第1作が東宝に断られて東映がやったという経緯があって、石橋を叩いても渡らない東宝、「オッペンハイマー」配給も見送った東宝がやらないのは十分理解できるとして、東映だからどうなったかな?というのはある。

公開時、ガクトが「公開中止になるかもしれないから早く見た方がいい」と言っていたけど、それはディズニーのパロディ映像があるからで(パロディなので法的問題はない)、ガクト流のジョークだったのだけど、H堂のことを考えると、実在する企業を映画で大々的に使うリスクというものについて、少し考えてしまったのでした。

それを考えると、やっぱり第3作はないかもだな。

2024年2月9日金曜日

「瞳をとじて」&「カラーパープル」

 3時間近い「瞳をとじて」と2時間半近い「カラーパープル」を流山おおたかの森でハシゴ。

2本の映画の間は15分しかないので、まず、「瞳をとじて」を見る前に、ローソンストア100で買った200円弁当でお昼。ごはんとウィンナ5本その下にスパゲッティが少し入っています。


「瞳をとじて」については、ネタバレありで書くので、最後に。


「瞳をとじて」が終わってから「カラーパープル」が始まるまでのわずかな時間に、前日に買って持ってきていた菓子パンをロビーで食べます。

「カラーパープル」はプレミアでの上映。このシネコンのプレミアはとても好きで、映像もいいし、音響もいい。ただ、見たい映画をここでなかなかやってくれない。久々のプレミアでした。



中に入るとソファのあるロビーがあり、シャンデリアがついていますが、ここでくつろいでいる人を見たことはありません。くつろぐほどの時間がないのだけど。スクリーンのある部屋もなかなか豪華で、椅子もゆったりで、とても好きなスクリーンです。


「カラーパープル」は舞台のミュージカルの映画化ですが、スピルバーグの映画化とわりと同じストーリー展開なので、やっぱりスピルバーグの方が演出うまかったなあ、と思ってしまいます。クレジットではアリス・ウォーカーの小説のミュージカル化となっていて、スピルバーグとウォーカーの両方がプロデューサーに加わっています。

というところで、先に見た「瞳をとじて」について。

ヴィクトル・エリセの久々の監督作で、3時間近くあり、話の方は淡々として、あまり盛り上がりがないにもかかわらず、飽きずに見てしまいました。

冒頭、1947年が舞台のシーン。病で余命いくばくもない老人がある男に、中国にいる娘を探してほしいと頼みます。が、実はこれは映画の1シーンで、男を演じた主演俳優が撮影途中で失踪。これが1990年のことで、おそらく死んだのだろうと周囲は思っている。

それから22年後の2012年、主演俳優の失踪で撮影中止となったその映画の監督がこの未解決事件を扱ったテレビ番組に出演することになり、監督と俳優の関係が明らかになり、そして、監督が俳優の娘に会ったり、自身の人生を振り返ったりする、という物語。

俳優と監督は若い頃、海軍で知り合い、以後、親友となり、同じ女性を愛したこともあった。撮影中止となった映画は監督の2作目だったが、このあと監督は映画を作ることをやめ、小説を書いたり翻訳をしたりしている。

で、その監督が俳優の娘に会ったり、未完の映画のフィルムを保管していた男と会ったり、偶然見つけた献辞入りの自著がきっかけで昔の恋人に会ったり、自宅の近所に住む若い夫婦との交流があったり、といった具合で映画は進んでいく。

このあたり、とても淡々としていて、ドラマチックなところもなく、何か筋書きが見えてくるわけでもなく、いったいこの話、どこへ行くのだろうという感じなのだけど、なぜか、飽きずに見てしまう。

そして結末近くになって(以下ネタバレ)テレビ放送がきっかけで、高齢者施設にいる記憶喪失の男が失踪した俳優だとわかる。しかし、俳優は監督と会っても何も思い出さない。娘が会いに来るが、やはりだめ。そこで監督は閉館したばかりの映画館を借りて、俳優が主演した未完の映画のラストを見せる。老人が中国から来た娘と会うシーンで、娘は父親を覚えていないが、しかし、というラスト。

映画中映画のラストはかなりメロドラマチックで、あまり洗練されたものとは思えないが、本編の方はこのあと、俳優が瞳をとじるという簡潔なシーンで終わる。

俳優の娘を演じているのは「ミツバチのささやき」のアナ・トレントで、役名もアナ。その彼女が高齢者施設で老いた父と対面するシーン、そして最後の映画館での上映が「ミツバチのささやき」を想起させる。

私が「ミツバチのささやき」という映画を知ったのは、1983年、「フランケンシュタイン」の解説を書くために下調べをしていたときだ。「フランケンシュタイン」の映画化についての英語の論文にこの映画の紹介があった。スペイン映画で、英語タイトルは「ミツバチの巣」とかいうものだったと思う。

この映画は日本未公開で、当時はまだインターネットもなかったからそれ以上調べることもできず、なので、解説には書かなかった。しかし、解説を書いた本が出て数年後に、「ミツバチのささやき」というタイトルで映画が公開された。この映画が日本でたいそう人気のある映画になったのは周知のとおり。

ヴィクトル・エリセにとって、「瞳をとじて」は「ミツバチのささやき」への回帰があったのだろう。映画監督をやめてしまった映画の中の監督が、22年前の未完の映画に回帰するように。

そして、「瞳をとじて」は2023年の作品だけれど、私が「フランケンシュタイン」の解説を書いていたのがちょうど40年前の1983年。そして、この映画が日本公開されたのが、「フランケンシュタイン」出版(1984年2月)からちょうど40年後の2024年2月であることに、深い感慨を覚えずにはいられない。

追記 エリセにとっては、「瞳をとじて」(2023)は、「ミツバチのささやき」(1973)から50年後の作品となる。

追記2 奇しくも「瞳をとじて」が公開された2月9日、創元推理文庫「フランケンシュタイン」30刷りが決まったようです。40周年で30刷り、よいね。

2018年12月16日日曜日

これはヒドい、ヒドすぎる「メアリーの総て」

メアリー・シェリーの伝記映画「メアリーの総て」を見に、わざわざさいたま新都心まで遠征。
まあ、ロッテントマトの評価は批評家も観客も低かったので、期待してなかったが、まさかこれほどヒドい映画とは。
見なきゃよかった。
見て損したとか、時間返せとか、もうそういうレベル超えてる。見なかったことにしたい、忘れたい映画。
さいたま新都心のMOVIXさいたまは「妖怪ウォッチ」や「ドラゴンボール」や「ボヘミアン・ラプソディ」や「ファンタビ」2を見る人でごった返していて、飲食物売り場もグッズ売り場も長蛇の列。スクリーンのある入口のところも列ができている。
ここは今年の春に「空海」字幕版で2回来たきりだけど、「空海」も土日だったけれどこんなに混んでなかった。さいたま新都心自体が混雑していて、年末だなあと思う。
「メアリーの総て」はすいていました。

で、始まってすぐにもういやな予感が。
メアリーの継母が毒母に描かれている。
メアリーの実母は出産で亡くなっていて、その後、父ゴドウィンが娘に母親をと思って再婚したのだが、メアリーと継母はそりが悪かったらしい。ただ、継母は別に悪い人ではなかったようなのだが、この映画では継母をまず毒母に描く。
そして、シェリーと恋に落ちたメアリーの前にシェリーの妻が現れ、彼女もなんか悪役っぽく描かれる。
父ゴドウィンもなんか感じ悪いおっさんで、シェリーとバイロンも薄汚い兄ちゃんに描かれている。
メアリーとは仲がよかった継母の連れ子クレアもなんだかなあ。
唯一、好意的に描かれているのが、「ボヘミアン・ラプソディ」でロジャーを演じたベン・ハーディが扮するポリドリ。「吸血鬼」の作者でバイロンの主治医だが、なんだかすごーくいい人に描かれている。
大部分の登場人物が悪役で、メアリーとクレアとポリドリが被害者みたいな映画。
なに、この、人物のパターン化。人間ってそんな単純なものじゃないし、「フランケンシュタイン」という小説もそうした人間の複雑さを描いているのに、なにこのバカ映画。

この種の伝記映画は史実どおりではなく、ドラマチックにするために脚色されているのは当然だけど、この映画はなんで史実を変えてこういう脚色したのが意味不明。
たとえば、「Merry Christmas!」みたいに、ディケンズを主人公にした完全なフィクションもあるわけだけど、このディケンズの映画もそれほど面白くはなかったけれど、こういうふうにフィクションにしました、という方向性は納得できる。あと、英文学の要素とかロンドンの描写とか、一応納得できるもの。
ところが「メアリーの総て」は英文学的要素も当時のイギリス中産階級の描写も全然だめ。作った人たちは勉強してないのか?
ゴドウィンやシェリーが借金まみれだったのは事実だけど、彼らは中産階級なわけで、貧しい労働者階級とは違うのだが、映画だと、これは貧しい労働者階級なの? でも本当の労働者階級とは違うし、なんなのこれ、と思ってしまう。
まあ、予算がないから貴族なのに貧乏くさいバイロンとかになってしまうのか。

で、何が許せないかって、メアリーが「フランケンシュタイン」を書くきっかけとなったジュネーヴのエピソードからあとが嘘ばっかりなのこと。
この辺りはとても有名なので、こういうふうに変えてしまうことにどんな意味があるのかと思う。
たとえば、シェリーの妻が自殺するのはこのエピソードの半年くらいあとなのに、シェリーたちがジュネーヴにいたときに妻が自殺したことになっている。
このエピソードについてはメアリーが1831年版の序文に書いているので、その序文に書かれたことと完全に違うことは原作を読んだ人にはわかるし、このエピソード自体が「ゴシック」や「幻の城」といった映画になっているので、なんであえて変えてしまうのか理解不能。
そして、「フランケンシュタイン」の執筆や出版のあたりもとにかくメアリーが被害者ということを強調するために変えていて、おまけにメアリーはシェリーと一時別れたみたいになっている。実際は、シェリーの妻が自殺したあと、2人は結婚していて、「フランケンシュタイン」出版(1818年)のときはすでにシェリー夫人になっているのだが、映画ではまだ結婚していないことになっている。
まあとにかく、メアリーとクレアと、「吸血鬼」をバイロンの名前で出されたポリドリを被害者にして、それを怪物と重ねるみたいな方に持っていこうとしているのだが、あまりにも恣意的でげんなりする。
メアリーという人物もかなり支離滅裂な造形で、演じるエル・ファニングがヒステリー女にしか見えず、無理にフェミニズムに持って行こうとして空回り。
ああ、あと、メアリーは最初の子供はすぐに死んでしまうけど、「フランケンシュタイン」を書き始めたときは次の子供が生まれてたんですが、それは無視ですか、そうですか。
つか、この映画見ると、まるでメアリーとシェリーは仲悪かったみたいだけど、そんなことなかったはずなんですがね。映画にみたいに別れてもいないし。

メアリー・シェリーが登場する映画はこれまでにもいくつかあって、上にあげたジュネーヴのエピソードを描いた2作のほかでは、ボリス・カーロフの「フランケンシュタイン」の続編「フランケンシュタインの花嫁」の冒頭でエルザ・ランチェスター扮するメアリーがシェリーとバイロンに続きを語るという手法。ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」では冒頭、メアリーに扮したエマ・トンプソンのナレーションがある。
「メアリーの総て」はこれまでと違って伝記映画なのだけれど、メアリーやその周辺の人たちがこんなふうにつまらなく、薄っぺらく描かれるのはひたすら苦痛だった。
彼ら彼女らはこの映画を作った人たちよりはるかに偉大なのだ、と思う。
作った人たちは、彼ら彼女らに対する敬意、文学の世界に対する敬意を欠いている。
彼ら彼女らの人生を薄っぺらに通俗的に作り変え、文学の神髄をかいま見せることさえしていない。
本当にヒドい映画で、この文章を書き終えたら、私の中ではなかったことにしよう。
それにしても、こんな映画に☆4つもつけている評論家たちは(ひどいこと書きそうなので以下略)。

あと、まあ、これは邦題の問題なんだけど、メアリーが「フランケンシュタイン」を出版するまでしか描いていないのに「メアリーの総て」ってどうよ。1818年の出版のあとの方がずっと長い人生で、その中では夫の死、子供の死、父親の死、シェリーの父との確執、シェリーの友人たちとの確執など、「フランケンシュタイン」出版以後の方がいろいろ大変だったんだけどね。
まあ、イギリス小説研究者は触らない方がいい映画。

新潮文庫と光文社文庫の「フランケンシュタイン」は今年4月に増刷したばかりなのにまた増刷してこの映画の帯をつけたらしいのだが、全国で14館しか上映してないので、上映されている地域の書店でしか帯つき文庫は置いてないようだ。私が解説を書いた創元は夏にかなりの部数を増刷してゲームキャラ帯をつけてフェアをやったので、映画の帯をつけるための増刷はしていないんだけど、映画があれじゃ、帯つかなくてよかったとしみじみ思った。ゲームキャラ帯で十分でございます。

2018年12月4日火曜日

1980年代外国映画ベストテン(追記あり)

キネマ旬報の1980年代外国映画ベストテンの特集号が届きました。
表紙のビジュアルを見て、何の映画かわかりませんでしたが、「ブレードランナー」でした。
まさか「ブレードランナー」が」1位とは。それも2位に10票差をつけての1位。
まあ、私も一応、1票を投じておりますが、実は入れるかどうか最後まで迷った1本。
この年代ベストテンでは、どうしても入れたい大好きな作品は別として、それ以外はなるべくほかの人が入れなさそうなのを入れたい、というのが基本路線でして、「ブレードランナー」はほかの人が入れるに決まっている作品。私から見ると、世間で言われるほどの大傑作かな、という気持ちはあり、好きだけど、ほかの人が入れるなら別の作品に、という思いは最後までありました。
でも、結局入れたのは、やっぱり創元推理文庫の「フランケンシュタイン」の解説が34年たった現在までも読者に気に入ってもらえるのは最後に「ブレードランナー」について長々と書いたからだろうと思うのです。公開からまだ2年しかたっておらず、当時は一部の人にしか受けていなかった映画。それを私が公の場所で論じたので、発行当時から読んだ人は「ブレードランナー」について書いてあるのがいいと言ってくださいました。
そんな私にとって記念すべき映画を入れないわけにはいかないと、迷った末、入れたので、2位と10票差になったわけですね。
で、2位以下を見ると、ビジュアルが出ている映画には私が投票した映画は1本もない。今の映画ジャーナリズムの人々と私の好みが完全に違っているようだ。70年代ベストテンはここまで違っていなかった。
選評の方に入れたかった作品を列記していますが、「ダントン」のところは本当は「ファニーとアレクサンデル」を入れたかったけれど「ダントン」なんて誰も入れないだろうと思っていたらほかに1人いてびっくり。「インドへの道」、「サルバドル」、「リトル・マーメイド」も私だけ。「インドへも道」は70年代で上位に入った「ライアンの娘」より出来はいいんですけどね。思い出してもらえなかったのか。物故した監督についてのコラムにもデイヴィッド・リーンの名前がない。
当時1位だった「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(私のオールタイム・ベストワン)があんまり上の方じゃないも意外。エクステンデッド・エディションが話題にならないわけだ。
1票しか入っていない作品がリストに多数列挙されているけれど、こうした形でもタイトルが出ることに私はこだわって投票したのです。
というわけで、興味深いベストテンでありました。

メアリー・シェリーの伝記映画「メアリーの総て」が今月15日公開とのことで、アメリカのロッテントマトでは評価は低いのですが、一応、見に行くつもり、と思って上映館を調べたら、すごく少ない。シネスイッチ銀座はイマイチ好きな映画館ではないので、MOVIXさいたまかな。
映画に合せていくつかの出版社が「フランケンシュタイン」や他の小説の翻訳に帯をつけたようですが、創元はゲームのキャラ帯がまだついているので、映画の帯はつけないようです。実はキャラ帯でかなりの部数を増刷してるので、当分増刷はないでしょう。帯をつけるところは増刷したか、在庫が多いところと思われます。

12月5日追記
「ブレードランナー」に投票しようか迷った大きな理由に、この映画にはいくつものヴァージョンがある、ということがあった。
初公開時の北米公開版、日本で公開されたインターナショナル版、ディレクターズ・カット版、そしてファイナル・カット版。このうち、北米公開版とインターナショナル版はほぼ同じ、ディレクターズ・カット版とファイナル・カット版はほぼ同じということで、新旧2つのヴァージョンと考えてもいいが、この2つのヴァージョンのどちらを支持するかが、今回の投票では明確でないのだ。
私は初公開版を支持しているが、投票した人がどちらを支持しているのかわからない(両方支持の人もいるだろうけれど)。もしかしたら、投票した多くの人は90年代以降の新ヴァージョンを支持しているのかもしれない。
だとしたら、1位になった「ブレードランナー」は私が支持していないヴァージョンで、その支持していないヴァージョンに私の1票が入ってしまったことになる。
それを避けるために投票しない方がよかったのか?
けっこう悩む。
この映画が今受けてるのは、新ヴァージョンのおかげなのかもしれない。
初公開版だけだったら、ここまで受けてないのかもしれない。(私自身は、新ヴァージョンが出てからこの映画に対する愛が減ったと言わざるを得ない。)
それなら、私は投票すべきでなかった、と思う。
ちなみに、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」は日本公開版、完全版、エクステンデッド・エディションでそれほど大きくは変わっていないようだ(エクステンデッドのみまだ見てない)。
「ブレードランナー」の場合、新旧のヴァージョンで内容が大きく変わってしまっているところが気になるのである。私から見ると、別作品と言えるくらい変わっている。
「フランケンシュタイン」に似ているのは初公開版の方で、それは新版で削除されたナレーションによく現れている。新版になると、「フランケンシュタイン」色は薄くなるのだ。

2018年9月14日金曜日

センチメンタル・ノヴェルという文学用語を初めて知った。

英文学研究の世界から離れてすでに30年以上たってしまい、ある意味、自分が浦島太郎状態なのは認識していたのですが、昨日、近くの県立図書館で洋書を2冊借り、ふちねこハロウィン目当てのベローチェでドリンク2杯でねばって序文を読んでいたのですが、「若草物語」で有名なルイザ・メイ・オルコットの処女小説の序文に「センチメンタル・ノヴェル」という文学用語(?)が出てきて、ん?と思ったのでした。
そこであげられている作家や作品は、18世紀後半の代表的なイギリス小説、リチャードソンの「パミラ」、フィールディングの「トム・ジョウンズ」、スターンの「トリストラム・シャンディ」、19世紀前半のオースティンの「高慢と偏見」、ディケンズの「オリヴァー・ツイスト」、シャーロット・ブロンテの「ジェイン・エア」などなど。
一応、イギリス小説研究家だった私には理解不能。
感傷的な小説、ということでは、確かに「パミラ」はそうだと思いますが、「トム・ジョウンズ」とか「トリストラム・シャンディ」とか「高慢と偏見」とか、どこが感傷的?
オルコットがこれらの小説の影響を受けた、ということと、当時、「パミラ」の亜流のような小説が、特にアメリカで流行していたらしい、ということはわかりましたが、このセンチメンタル・ノヴェルに対するジャンルとしてゴシック小説があがっていて、ウォルポールの「オトラント城」、ラドクリフの「ユドルフォの怪」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」などの名前が出ている。
なーんか、私のイギリス小説観、間違っていたんでしょうか?
この序文の著者が言うセンチメンタル・ノヴェルって、イギリス小説史では近代小説(ノヴェル)とかリアリズム小説とかノヴェル・オヴ・マナーズ(それ以前にあった劇コメディ・オヴ・マナーズの小説版という意味で、オースティンが代表的な作家)と呼ばれていて、それに対してリアリズムよりも怪奇やロマンを追及するのがゴシック小説でありロマン主義小説であって、センチメンタル・ノヴェルズの方に入っている「ジェイン・エア」もゴシック小説・ロマン主義小説に分類するもんだと思ってましたが。
理解不能。こりゃ調べねば、とちょっとばかりググって、出てきたのをちらちらっと読んでみたところ、理解不能の理由が判明。
これは実は、19世紀のアメリカの作家、メルヴィル、ソロー、マーク・トウェインが「パミラ」などに代表される読者の感情に訴える小説をさして言った言葉だったのです。
この言葉は女性が主役の家庭小説のこともさしていたそうで、要するに、19世紀のアメリカでそういうのが流行っていたという背景から生まれた言葉だったようです。
だからジョージ・エリオットなんかもセンチメンタル・ノヴェルに入っちゃうんだそうで、うわあ、すごいおおざっぱな分類だなあ、と、イギリス小説研究に足突っ込んでいた私は驚愕。
まあ、要するに、メルヴィル、ソロー、マーク・トウェインといったアメリカ文学者たちが、俺たちは人間の感情に訴えるイギリス小説とは違うんだぜ、という気持ちで言ったのかな、と。
イギリス小説側からすると、イギリス小説は近代小説でリアリズム、メルヴィルなどのアメリカ小説は古い伝統をひきずったロマンス、とか言っちゃってるんですけどね。イギリスから見るかアメリカから見るかの違いか、なるほど。
このセンチメンタル・ノヴェルという言葉は、ウィキペディア英語版では、きちんと定義されてない言葉として注意がされてますから、文学用語としてはそれほどきちんとしたものではないのかもしれません。ちなみに、日本では「甘い小説」「感傷的な小説」というふうに、お涙頂戴の出来の悪い小説のことを指すと理解しているようです。
人間の感情に訴える、ということに関していえば、イギリスの近代小説はそれまでの人間心理など描かない散文物語に対して、新しい散文物語として登場し、そこに人間心理が盛り込まれ、それが読者の心を動かしてヒット、というふうにして発展してきたので、それをセンチメンタル・ノヴェルと言ってしまうのは文学史の無視もはなはだしいと思うのですがね。

ああ、去年の夏までは、某私大の英語圏文学入門で、こういう話を毎回していて、楽しかったんだけど、あまりにトラブルが多くて、コマ数も極限まで減らされて(やめろという暗示のようなもの)、ついにキレてやめてしまったんだけど、ああいう授業、ほんとはもっとやりたいのに。

借りたもう1冊はミュリエル・スパークの書いたメアリ・シェリーの伝記。没後100周年にイギリス国内だけで小冊子のようにして出版したが、その後だいぶ年月がたってからアメリカでも出版の話が出たとき、すでにアメリカでは海賊版が出回っていることがわかり(おい、アメリカ!)、それなら、と、新たに書き下ろしたとのこと。没後100周年の1951年当時はまだスパークは短編小説しか発表していなかったけれど、この本が出た80年代後半には押しも押されもしないイギリスの作家になっていて、「フランケンシュタイン」とメアリ・シェリーの扱いも非常に大きく変わっていました。51年当時は「フランケン」以外の小説は手に入らなかったのに、80年代には他の小説が普通に手に入るようになったとか。本の前半が伝記、後半が主な作品の批評で、読むのが楽しみです。スパークといえば、映画化されてマギー・スミスがアカデミー賞主演女優賞を受賞した「ミス・ブロディの青春」が有名。

それにしても、この2冊の序文を読んだら、なんてわかりやすい英語なんだ、と感激。
というのは、この夏はオールダス・ハクスリーの長い小説と、ニコラス・シェイクスピアの長い小説(どちらも400ページ近く)を読んでいて、どっちも文章(英語)も内容もむずかしくて、正直、あまり理解できないまま読み終えた感じなのですが、そのあと、あの序文2つを読んだら、突然空が晴れたように感じました。ハクスリーの方は哲学論議がえんえんと続くのでむずかしかったんだけど、ニコラス・シェイクスピア(「テロリストのダンス」の作者)の英語はやっぱりむずかしいわ。内容もこの人の作品の中では一番複雑でありました。

2018年9月12日水曜日

「フランケンシュタイン」出版200周年

なーんかすっかり忘れてましたが、今年はメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」出版200周年だったんですね。
去年の暮れに「ヴィクター・フランケンシュタイン」という映画(日本ではDVD公開)のレビューを書いたときに、来年は、と書いていたので気づいてはいたんですが、すっかり忘れてた。
初版発売日は1818年3月11日だそうです。3・11とは。
これは創元の「フランケンシュタイン」キャラ帯にも描かれているゲームキャラを使って描かれた記念の絵。
 こちらからお借りしました。
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=67678354

イギリスではこんなコインが発売されたようです。

そして、これも以前、紹介したはずですが、メアリ・シェリーの伝記映画(原題Mary Shelley)。日本では「メアリーの総て」の題で12月公開だそうです。

しかし、この映画、Rotten Tomatoesでは40パーセントと、かなり低い評価になっています。配役もケン・ラッセルの「ゴシック」やスペイン映画「幻の城」に比べて魅力がない。正直、映画製作のニュースを知ったときに、あまり期待感を持てなかったのですが、やはり、という感じが(見てみないとわからないけれど)。

「フランケンシュタイン」200周年のイベントが世界中で行われている、とのことですが、正直、全然実感なかったです。検索してもあまり出てこないし。
2016年は例のスイスのジュネーヴのバイロンの別荘で「フランケンシュタイン」とポリドリの「吸血鬼」が生まれた1816年から200周年ということで、一部ではイベントやっていたみたいですが、それも全然知らんかった。
日本でもイベントはやった、やっている、これからやるものがあるようですが、検索で出てきたものはどれも初心者向けかなあ、という感じでした。

そういえば、春に新潮文庫と光文社文庫の「フランケンシュタイン」が増刷されてましたが、200周年需要を見込んでだったのか? 一方、創元は「ドラキュラ」などと合わせてゲームキャラで売るという手法で、考えることが斜め上というか、こういうの好きです。

映画の方ではフランケン200周年で何かやろうとか全然考えてない(思いつきもしない)ところも潔くていいですわ。

2018年9月3日月曜日

ビニ本になっていた。

英文学がらみの映画の試写に行った帰りに秋葉原に寄り、ヨドバシアキバの7階の書店に行ってびっくり。
以前紹介した、ゲームのキャラ帯をつけた創元推理文庫6冊が、ビニ本になっていた!
見本だけ中を見られるようになっていて、あとは漫画本のようにビニ本!
確かに、帯が傷物になったら困るからねえ。
以前アップした写真。

試写で見た映画についてはあたらめて書く予定ですが、プレスを見たらあまりにも残念な文章があって、大手で最近ディケンズ翻訳家になっている人がディケンズをあまりよく知らないのがバレバレな文章で、最近流行の古典新訳に関する忸怩たる思いもあって、なんだか気持ちが落ち込んでしまいました。
が、書店でこの本を手に取って立ち読みしたら、笑いがこらえられないので購入。

アマゾンのレビューを見ると、人間のせいで絶滅したのにふざけてる、という低評価が、なぜか8月中旬くらいからどっと並んでいて、それにいいねがたくさんついているらしいのを見て、なんだかなあ、と思った。
例の「この本、面白いんですか?」で書いた進化論の本と重なる部分もあるというか、生物の99.9%は絶滅するとか、絶滅の原因は、とか、このあたりは生物学の事実なので重なるわけですが、そういう生物の歴史の点から見るべき話だと思うのに、あたかも人類総懺悔を期待しているようなレビューにはうんざりです。子供に読ませたくないなら読ませるな、つか、これ、子供が読む本だろうか? 大人が皮肉やアイロニーを感じて笑って読む本だと思うのだが。
人類のせいで絶滅したっていうのも、当時は、めずらしい生物がいて、人間が入り込むと絶滅するということ自体が、人間にはわからなかったんだけどね。

というわけで、試写のプレスでがっかりして、この本で笑って少しは気分がよくなったと思ったら、アマゾンのレビューでまた気分が悪くなるという、だめだ、こりゃ。

2018年8月6日月曜日

創元のFGO関連文庫を映画で

前回紹介した、創元推理文庫がスマホのゲームキャラに関連する小説6冊にキャラ帯をつけてフェアにした件、この6冊を映画で、というのを勝手にやってみました。
前記事の写真と同じ順番でご紹介。画像はアマゾンから拝借したDVDまたはBDのジャケット。

「シャーロック・ホームズの冒険」
 原作に忠実なテレビ版、現代版「シャーロック!」、最近の映画の「シャーロック・ホームズ」などが有名ですが、キネ旬の1970年代外国映画ベストテンで私がイチオシしたのがこのビリー・ワイルダー監督のパスティーシュ。小説の「シャーロック・ホームズの冒険」は短編集ですが、映画はオリジナルストーリー。ホームズのゲイ疑惑(ここ、今だとちょっと問題になりそうな描写ですが)、ホームズは本当に女性を愛さないのかという疑問、ホームズより優秀な兄マイクロフトなど、ホームズ好きの間で話題になっていたことを取り入れています。オリジナルはもっと長かったのに短縮させられてしまい、カットされた部分も残っていないのだそうで、ワイルダーにとっては不本意な面もあったようです。当時のキネ旬では巻頭特集となり、表紙はヒロインのジュヌヴィエーヴ・パージュ、シナリオ分析採録も掲載されています。

「オペラ座の怪人」
 古くは「オペラの怪人」、新しくはミュージカルの映画化、それに「エルム街の悪夢」のフレディーが怪人を演じたホラー映画もありましたが、私のお気に入りは映画ではなく、ロンドン25周年公演のDVD(写真はBD)。オリジナルの舞台(劇団四季の最初の公演を見ました)とは違うところもあって、そこはオリジナルの方がよかったのだけれど、やはり舞台はよい。見応えあります。

「フランケンシュタイン」
 いろいろありますけど、やっぱりボリス・カーロフでしょう。原作とはだいぶ違う話になってはいますが、エッセンスは受け継がれています。「フランケンシュタインの花嫁」と合わせて見るのがベスト。

「ジキル博士とハイド氏」
 これもいろいろあるんですが、スペンサー・トレーシー、イングリッド・バーグマン、ラナ・ターナーという豪華な顔ぶれのこの映画がやはりおすすめ。令嬢役をオファーされたバーグマンが汚れ役の女性の方を演じたいと言い、ラナ・ターナーと役を交換したという裏話があり、バーグマンとターナーが従来の役柄とは正反対の役を演じています。上のDVDは1932年のフレドリック・マーチ主演映画(写真左)も収録されていて、こちらの方が傑作らしいですが、私は未見。

「吸血鬼ドラキュラ」
「魔人ドラキュラ」やコッポラの「ドラキュラ」がありますが、 これもやっぱりクリストファー・リーとピーター・カッシングで決まり。

「血とバラ」(「吸血鬼カーミラ」)
アマゾンでは日本版ソフトは出てきませんでした。ソフト化されてない? 出てきたのは英語タイトルのものと、上のイタリア語版。フランス語版は?
「吸血鬼カーミラ」を現代に置き換え、ロジェ・ヴァディムが描く耽美な世界。公開当時「わからない」という意見が多かったようですが、キネ旬に連載されていた石上三登志氏の「ぼくは駅馬車に乗った」での「血とバラ」論が目からうろこです。

というわけで、古い映画ばかりになってしまいましたが、古典には古典で。
ちなみに原作6冊のうち、「オペラ座の怪人」だけがフランス文学で、あとはすべてイギリス文学です。

2018年8月4日土曜日

フランケン29刷

久々に某所のシネコンに行き、「スターリンの葬送狂想曲」を見たあと、ショッピングセンターの書店に寄ったら、創元の「フランケンシュタイン」が増刷になっていた。
スマホのゲームのキャラが創元の怪奇小説の人物がもとになっているとのことで、イラストの帯をつけた本が並べてあった。
「シャーロック・ホームズの冒険」、「オペラ座の怪人」、「フランケンシュタイン」、「ジキル博士とハイド氏」、「吸血鬼ドラキュラ」、「吸血鬼カーミラ」。全部読んでるわ。

創元のフランケンは数年前の100分de名著の放送のときに増刷されたのが最後で、この番組に合わせて出た新潮文庫、角川文庫、その少し前に出ていた光文社文庫はその後もほぼ毎年のように増刷になっていたのに創元はあれ以来ぴたりと増刷がとまり、もう二度と増刷はないのかと思っていた。
それに加え、創元の増刷がなくなったとはいえ、新潮、角川、光文社の3社がほぼ毎年増刷するほど売れてるのか非常に疑問だった。
これについては、大手は社内で少部数の増刷ができるという話を耳にし、少部数での毎年の増刷なら3社合わせて創元1社分になるかもしれないなあ、と思ったが、この辺はよくわからない。
書店に行くと新潮文庫は必ずあり、角川と光文社は時々あり、創元はめったにない(創元の怪奇ものの棚そのものがない)という状態だったけれど、この書店では新潮も角川も光文社もなかったので、スマホゲームのおかげでこの3社も売れてるのかもしれない。

「スターリンの葬送狂想曲」は非常に面白かった。
キネ旬の星取り表を見ると、なんだか他人事みたいな感想ばかりで、失礼ながらうーんと思ってしまったが、私はこれを見ながら、安倍政権が崩壊すると同じような感じになるのではないかとずっと思っていた。今は首相に忖度している人たちがいっせいに反対の行動をするようになり、また首相と一心同体だった人々は追放され、という感じ。
フルシチョフがスティーヴ・ブシェミとか、配役もなかなかよい。ラスト、フルシチョフの斜め後ろにブレジネフがいるんだが、顔を知ってるかどうかで効果が違うような。
キネ旬の別の号の小野耕世氏の紹介文がよかったのだが、小野氏がこだわる西部劇のシーンは実際の映画からとったものではないのでは、という気がする。ジョン・フォードとジョン・ウェインの名が出てくるが、他のシーンではクラーク・ゲーブルやグレース・ケリーの名も出ていて(字幕では俳優や女優にされてしまっているが)、当時のソ連の権力者たちがハリウッド映画をよく見ていたという皮肉か。原作はフランスの劇画で、映画はイギリス映画なのでせりふは英語なのが、旧ソ連だけの話ではなく、普遍的な話に感じられる。

2017年12月16日土曜日

「ヴィクター・フランケンシュタイン」

アマゾンのサイバーマンデーで買ったダニエル・ラドクリフとジェームズ・マカヴォイ主演の「ヴィクター・フランケンシュタイン」のDVDを見た。
この映画のことはだいぶ前から知っていたが、あちらで公開されたらあまりに評判が悪く、これは日本公開はないなと思っていたら、やはりビデオスルーであった。
この映画はメアリ・シェリーの小説が原作ではないし、タイトルにも彼女の名前は出てこない。
ボリス・カーロフ主演の「フランケンシュタイン」が直接の元ネタで、ラドクリフ扮するイゴールというフランケンシュタインの助手はカーロフの映画には出てくるが、シェリーの原作には出てこない。
ただ、カーロフの映画とも相当に違っていて、舞台はロンドン。時代は電球が出てくるので19世紀末だろうか。
ラドクリフ扮するイゴールはサーカスでピエロをしているが、独学で医学を学び、医者のようなこともできる。サーカスを訪れたヴィクター・フランケンシュタイン(マカヴォイ)にその技術を認められ、助手になる。
フランケンシュタインは生命を生み出すことにとりつかれていて、チンパンジーの死体をもとにして動物を作るところまで行っている。
それにイゴールとフランケンシュタインを怪しんでつきまとう刑事や、フランケンシュタインのスポンサーの若い富豪、イゴールのあこがれの女性などがからんでくる。
映像はなかなか雰囲気あってよいんだけど、やっぱり評判悪いだけあって、あまり面白くない。
人造人間を造るところがクライマックスなので、怪物は最後しか出てこないし、2人につきまとう刑事とかうざいだけだし、話も平板。ラドクリフはかわいいので、ファンはぜひ見たいと思うだろうけど、最近クレイジーな役どころの多いマカヴォイはなんだかなあである。
カーロフの映画をもとにしているのは、怪物がちょっとカーロフっぽかったりするところに出ているが、実はカーロフの映画ではフランケンシュタインの名はヘンリーになっていた。この映画ではそれを取り入れて、ヘンリーという名のもう1人のフランケンシュタインがいることになっている(詳しくは映画をご覧あれ)。このヘンリーのことが最後の部分の肝になるはずなのだけど、これもうまく機能してないのだ。
怪物を造るシーンはケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」に似ているし、怪物を造る主人公の思いもブラナー版からとったようなところがある。カーロフ版とブラナー版から少しずつ拝借した作り。でも、そういうところより、せっかくイゴール出したんだからイゴールとフランケンシュタインの絆をもっとうまく描いてほしかった。
ところで、最近、「フランケンシュタイン」とかメアリ・シェリーとか映画の題材によくなっているようなのだけど、2018年が「フランケンシュタイン」出版200周年であることに気づいた。それが関係しているのかどうか?

2017年10月28日土曜日

「ブレードランナー 2049」(ネタバレ大有り)

金曜日の初日に「ブレードランナー 2049」を日本橋のシネコンで見てきた。
2週間前にここで「猿の惑星 聖戦記」をTCXのスクリーンで見て味をしめ、おまけに近場のシネコンでは吹替えメインで字幕はよい時間にやってないので、またもや日本橋へ。
その前に六本木で試写を見たのだけど、2週間前も試写室は別だけど場所は六本木の試写へ行って、なんと映写機壊れて試写中止の憂き目にあったのだが、今回は試写もきちんと見れた(その話はまた別記事で)。
(2週間前の「猿の惑星 聖戦記」の記事は「13日の金曜日は」というタイトルの記事です。)

さて、日本橋で見た「ブレードランナー 2049」(以下「2049」と略記)、予約番号が4092だった。つまり、2049と同じ数字の組み合わせ。
で、もともと期待はしてなかったのだけど、なんか、その斜め下を行く昭和な世界にがくぜん。
のっけから昭和なキッチン。昭和なエアコン室外機のあるビル。昭和な時代のSF映画(「ブレードランナー」以前)の世界にあったような古めかしい未来風景。首都高速でロケした「惑星ソラリス」を思い出させる風景(「2049」の主人公のエア彼女が青い服を着て出てくるシーンで、「惑星ソラリス」の青い服を着た女性がうろうろしているシーンを思い出した)。
そういえば、「ブレードランナー」は1982年だからもろ昭和。東西冷戦真っ最中。ソ連が崩壊するなんて誰も思わなかった時代。
が、その時代の「ブレードランナー」の方が先駆的映像で、今の「2049」の方がレトロってどうよ。

レトロといえば、ハリソン・フォード演じる老いたデッカードが住んでいる建物の内装がもろ昭和。マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラの映像が登場し、デッカードがプレスリーの歌う「愛さずにいられない」を好きな歌だとか言うシーンでは笑いそうになったのをかろうじてこらえた(なに、あのシーン? 同じライアン・ゴズリング主演の「ラ・ラ・ランド」の影響か?)。

あと、ゴズリングの周囲で着信音みたいな音楽が時々鳴るのだけど、これが有名なクラシックの曲、でも思い出せない、と思って帰宅してネットで調べたらプロコフィエフの「ピーターと狼」だった。

前にも書いたけど、私はドゥニ・ヴィルヌーヴは過大評価されていると思ってるので、まあこんなもんだろうと思って見ていたが、「猿の惑星 聖戦記」同様、この「2049」もやたら絶賛されている。そんなに絶賛するようなものかと思うのだが。
映像は「メッセージ」と同じような雰囲気で、映像的には「猿の惑星 聖戦記」の方がすごかった。

以下、ネタバレ大有りで内容について書いていきますので、未見の方は注意してください。





前作の世界から30年後、前作のレプリカントを製造していたタイレル社は倒産し、今は別の会社がレプリカントを製造している。主人公のブレードランナー、Kは新型のレプリカントで、旧型のレプリカントを処分する役まわり。旧型のレプリカントは寿命は人間並みに長いのだが、地下組織となって人間に対抗しようとしている。そんな中、30年前にレプリカントの女性が妊娠して出産していたことがわかる。レプリカント製造が追いつかない今の会社はレプリカントが子供を生めばそれで数が増えるので好都合、というわけで、Kは生まれたレプリカントを探すよう命令される。

まあ、ここでもう、この女性から生まれたレプリカントは誰か、というのが想像つくのですが、これは最後にひとひねりしています。していますが、生まれたレプリカントを探すKの葛藤が全然面白くない。

で、このあたりからいよいよネタバレになっていくのだが、





Kはやがてデッカードに出会い、子供の父親がデッカードだとわかる。で、父親がデッカードなら母親はレイチェルに決まってるわけで、なんかもう、予想がつくところをいちいち引き伸ばしてもったいぶってやってるんだよね(だから長いんだよ)。
で、レイチェルは出産で亡くなっているのだが、結局、タイレル社は生殖できるレプリカントとしてデッカードとレイチェルを作り、2人を結びつけた、というのがわかる。
ハリソン・フォードはデッカード=レプリカント説大反対だったのに、結局、受け入れたのね。
まあ、マニアがもうデッカード=レプリカントになっているから、マニアの需要に合わせるしかないわけだが。

しかし、最初の昭和な世界に戻ると、「2049」は日本語大杉。ソニーの宣伝でかすぎ。ああ、ソニーも昭和の時代に大発展した企業。日本での配給はソニーなんで、最初からソニー、ソニーで、ワーナーじゃない「ブレードランナー」なんてフォックスじゃない「スター・ウォーズ」ですわ。
「ブレードランナー」に登場する日本はいかにもあちらの人が取り入れた日本で、そのエキゾチックなところがよかったんだけど、今回のは日本人が入れた日本みたいでなんだかなあ。

一番がっかりなのは、「2049」には好きになれるキャラが1人もいないということ。「ブレードランナー」の方は好きなキャラばっかりだったのに。
また、女性が単純な悪役か従順な善女っていうのも時代遅れもはななだしい。

とまあ、不満だらけの映画なのだけど、前作が「フランケンシュタイン」で、今作は「フランケンシュタインの花嫁」というつながりはあるな、と思った。両方ともハンプトン・ファンチャーが原案で脚本も書いているが、やっぱり「フランケンシュタイン」はファンチャーだったのか。
で、今作が「フランケンシュタインの花嫁」というのは、原作で、もしも女の怪物を造ったら子供が生まれ、子孫が増えて人間を脅かすかもしれない、とフランケンシュタインが考えたのをこの「2049」が敷衍してるかな、というところ。
「2049」では、デッカードとレイチェルが実は怪物と女の怪物で、子供が生まれ、その子供が救世主になって旧型レプリカントたちが戦いを始める、みたいな暗示が出てくる。
まあ、それはいいんですけど(別に驚くようなアイデアでもない)。

でもねえ、「ブレードランナー」ではルトガー・ハウアーのロイが怪物だったんですよ。原作の同情される怪物。それをいまさら、デッカードが怪物で、レイチェルが女の怪物ってやられて、まあいいんですけど、はあ(ため息)。

ルトガー・ハウアーは続編の話を聞いて、興味ないと言ったそうだけど、初公開版を愛する人にとって、「2049」はディレクターズ・カットの続編だから、こちとらには関係ねえでござんす、ってことで。

2017年10月24日火曜日

たわごと

最近、「メイキング・オブ・ブレードランナー」という分厚い本を借りてきて読んでいました。
「ブレードランナー」の続編が今週末から公開ということで、あまり期待はしてませんが、初公開版からファイナル・カットまでを網羅したこの本を読んでみることに。
「ブレードランナー」は初公開時に見て、非常に好きになり、その後、創元推理文庫の「フランケンシュタイン」の解説を書くことになり、あれ、もしかして「ブレードランナー」は「フランケンシュタイン」だったのでは、と思って名画座に再度見に行ったのです。
最初が1982年、次の名画座が1983年だったかな。名画座の方はヴァンゲリスつながりで「炎のランナー」と二本立て。こちらもロードショーですでに見ていて2回目でした。
正直、「フランケンシュタイン」の解説は、「ブレードランナー」について書きたい、というのがかなり大きな目的の1つでしたね。そこで達成感を得てしまったので、その後は「ブレードランナー」について考えることはあまりなかったのは事実。
一方、初公開時、一部のSFファンにしか認められなかった「ブレードランナー」はやがてカルト的人気を得て、ついに1992年にはリドリー・スコットがディレクターズ・カット版を制作、そこで主人公のデッカードがレプリカントだという話になっちまったらしい。
実は私はディレクターズ・カットというやつをあまり信用してないのです。自分自身が最初に出会った映画をだいじにしたいタイプなので、そのあとなんだかんだで作り直したものを見たくないという気持ちが強いのです。なので、このディレクターズ・カットも当時は見なかったし、「ブレードランナー」に関する様々な言説にも無関心でいました。
つまり、私の中では「ブレードランナー」は1982年公開のインターナショナル版がそのまま記憶に残っていて、それ以外のものを受け入れていなかったのです。
しかし、何年か前に某大学で「ブレードランナー」を取り上げることになり、そのとき初めて北米初公開版とディレクターズ・カットを見ました。が、見たけどやっぱりインターナショナル版がいいわ、と思って、わたくし的にはそれで終わりました。
その一方で、制作裏話みたいなのには興味があったのです。
で、今回、制作裏話を知りたくてその本を読んだのですが、興味深いところも多かったけれど、その一方で、ああ、この映画は私とは違うマニアのものになってしまったんだなあ、という感を深くしたのでした。
こういう感覚って、私にはよくあることなのです。まだ日本では知られてない作家をひいきにしていたら、いつのまにか日本で人気が出て、私とは違う世界になってしまうとか。そういう運命なんでしょうね。
デッカードがレプリカントだということはスコットが撮影中に思いついたみたいで、初公開版ではあいまいになっているのですが、ディレクターズ・カットでは一角獣の夢のシーンを入れることで彼はレプリカントになった、とその本の著者は力説しているのですが、一角獣のシーンくらいでそう言われてもねえ。
私の意見を言わせてもらえば、デッカードがレプリカントだったらこの話は全然面白くないんですよ。デッカードが人間だけど、でもレプリカントとどう違うのか、というのが面白いんで、完全にレプリカントだったら、単にレプリカント同士でいろいろやってるだけで、人間対レプリカントの対比がなくなってしまう。いやむしろ、レプリカントだって人間なんだ、という方向の物語のはずなんですがね。だって、「フランケンシュタイン」がそうでしょ。怪物だって人間なんだ、って。
実は私は、脚本家が「フランケンシュタイン」を意識していたけれど、スコットは「フランケンシュタイン」テーマがいやで、デッカードをレプリカントにしたのかなあ、と思っていたのですが、どうもそうでもないらしい。つか、スコットって、最近また「エイリアン」の新シリーズやってるけど、そこで「フランケンシュタイン」テーマをやってるんだって? わたしゃもうこの新シリーズはスルーしてるんですが、そうなの? で、「エイリアン」シリーズと「ブレードランナー」をつなげるって、もろ「フランケンシュタイン」? わからん。
まあ、私としては、デッカードがレプリカントだったら「フランケンシュタイン」ではない、ということだけは強調しておきます。
どっちかっつうと、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」じゃなくて、もっとおおざっぱなフランケンシュタイン・テーマなのかもしれませんね??? いや、わからん(でも、それを確かめに「エイリアン」新シリーズ見る元気もないしなあ)。

2017年4月30日日曜日

kindleには創元の「フランケンシュタイン」の解説がないらしい。

1984年に発売されて以来、多くの方に読まれていただいているわたくしめの「フランケンシュタイン」の解説(創元推理文庫)ですが、なんと、アマゾンのkindleには解説が含まれていないのだと。
知らなかった。
この解説の報酬は印税なので、今でも印税はもらっているのですが、電子書籍にもいろいろな種類があるので、kindleは解説がないとは知らなかった。
そういえば、電子書籍の印税、以前は1年間でドトールのコーヒー10杯分くらいあったのだけど、昨年は5杯分くらいになってました。
なんか、kindleは解説がないものが多いらしい。
アマゾンのレビューで知ったのですが、申し訳ないというか、コピーをお送りしたいくらいであります。
創元の紙の本は他社から次々新訳が出た関係で、もう増刷はないのではないかと思います。
そうなると、私の解説もやがては読まれなくなるということです。
ネットではいろいろ賛辞をいただいて、大変力になり、生きていてよかったとさえ思うのですが、時代の流れはそういう方向なのかと。

2016年8月14日日曜日

ミュージカル「フランケンシュタイン」

来年1月に日生劇場でミュージカル「フランケンシュタイン」をやるらしい。
ホリプロ、と書いてあったので、どひゃ、と思ったが、韓国製のミュージカルの日本版らしい。
公式サイトを見たら、ヴィクター・フランケンシュタイン以外は全員、原作とは違う人物。
怪物さえも原作とは違う。
ストーリーも全然違うみたい。科学者が怪物を造って復讐されるというのだけ同じようだ。
イゴールが出てくるけど、これはボリス・カーロフの映画の人物ね。
そういや、フランケンシュタインとイゴールの友情を描くという映画は、あちらでは酷評されてたようだけど、日本には来ないのかな(DVDのみかも)。

そういえば、宝塚のミュージカル「アーサー王伝説」が秋にやるらしいけど、場所がなつかしの文京シビックセンターなので、行こうかな、と思ったが、期間が短くてヅカファンでソールドアウトの可能性もありそう。こちらはフランス製のミュージカルで、内容見ると、やはり、なんだかなあ、な感じ。上の「フランケン」同様、怖いもの見たさな感じになってしまいそうだ。

2016年8月11日木曜日

新/真/神・ゴジラ

ゴジラが好きな人には語りつくそうとしても語りつくせない映画だろうな、と思う「シン・ゴジラ」。ゴジラなんてよく知らない(第1作も見たけどほとんど覚えてない)私でも第2弾を書いてしまう。
やっぱり驚いたのは、最初に登場するゴジラ。目がかわいくて、姿もユーモラス。全然怖くない。まさに新・ゴジラ。
このゴジラは無邪気な赤ん坊のようで、陸地があるから上がってきちゃった、体がでかいから動くとまわりが壊れる、という感じで、悪意も何もない。ほんとに無邪気な赤ん坊。
途中で確変するが、それでも無邪気路線は継続。自衛隊が出動、初の武力攻撃を仕掛けようとするが、老人が踏切を渡っているのを見て、人命尊重から攻撃をあきらめる。ゴジラはいったん海に帰る。
そして再び姿を現すと、今度はまったくかわいくない、無邪気でもない、大人になった怖いゴジラになっている。まさに真・ゴジラ。
そして荒ぶる神ということで、神・ゴジラになるというか、人間がそう感じるということなんだけど。
ゴジラは地震・津波のような災害+原発という存在になっているけれど、自然災害は荒ぶる神だけど、原発は人間が作ったものなので、荒ぶる神ではない。むしろ、フランケンシュタインの怪物。
初代ゴジラも核実験で生まれたので、フランケンシュタインの怪物であったのだが、シン・ゴジラも海底に投棄された核廃棄物を食べて生まれたとなっている。
核エネルギーが荒ぶる神ではあるが。
でも、最初は無邪気な赤ん坊で、確変したあとも自分から悪さするというよりは、巨大生物だから動くだけで被害が出るという感じで、それが自衛隊や、特に米軍の攻撃で怒りを覚え、身を守るために攻撃を開始する、というあたりは完全にフランケンシュタインの怪物なのだ。
それが荒ぶる神に見えるのは、ひたすら、図体がでかいから。
図体のばかでかいフランケンシュタインの怪物。
フランケンシュタインの怪物という、人間に非常に近いものと、原発のような生物ではまったくないものの中間にシン・ゴジラがいる。

この映画を熱く語る左派のツイッターのおかげで見に行ったので、感謝しているが、見てからツイッターを読み直すと、自分の思いを映画の中に見つけて、ひたすらその部分だけ強調して、他の解釈を許さないようにも感じた。
その思いの部分の解釈は正しいが、フィクションとは矛盾や不整合を内包するもので、その方が優れた作品なのだし、「シン・ゴジラ」はまさにそういう映画だと思う。
だから、「がんばろう日本」のようなメッセージを読み取ることは可能だし、それをちょっと書いただけのブログをプロパガンダと呼ぶのはどうかと思う(実際は庵野監督の作品のオタク談義なのに)。
左派の教条主義を見てしまったようで残念。解釈はいいのにね。

2016年4月14日木曜日

「エクス・マキナ」(ネタバレ大有り、読んだら危険)

アカデミー賞脚本賞候補、視覚効果賞受賞の「エクス・マキナ」を見てきた。
これ、SFものに強い人だったらあまり驚かないというか、既視感ありすぎな話なのだが、SFに詳しくない人には予想のつかない展開かもしれないし、そうでなくても事前にネタバレを見ない方が絶対にいい映画なので、映画を見るつもりの人は事前に読まない方がいいと思うが、一応、見て感じたところを書いておこうと思う。以下、さしさわりのない人だけ、読んでください。なお、ネタバレ部分は色を変えます。

2015年9月16日水曜日

「屍者の帝国」試写会

行ってきました、「屍者の帝国」アニメ映画の試写会。
公開が迫っているせいか、補助椅子を出すほどの盛況。
しかし、終わったあと、「わからない」という声が。
でしょうね。これ、原作読んだ人だけを対象にしている感じで、最後の部分なんか、原作知らない人にはさっぱりだと思います。
その一方で、原作もかなり変えていて、レット・バトラーなど、人物もかなり減らされてます(バトラーは出してほしくなかったので、出てこないのはよいのだが)。
ワトソンとフライデーのボーイズ・ラブ的アニメになってるのかな、と思いましたが、そこまではやってないので、消化不良だし。
死んだ親友フライデーをよみがえらせたい、というワトソンの欲望をメインにしているので(原作と違いすぎる)、結果、ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」に近づいています。あの映画のクライマックス、死んだエリザベスをフランケンシュタインが女の怪物としてよみがえらせるシーン(原作にはもちろん、ない)。
ブラナーの「フランケンシュタイン」は最初から、死んだ愛する人をよみがえらせたいという感情が出ていて、この辺が原作と違ってましたが、こういう感情は観客に受けやすいので、映画ではよく使われます。でも、小説ではちょっと手垢がついてる感じがあるので、円城塔が完成させた「屍者の帝国」ではこうしたセンチメンタリズムは徹底的に排除されてます(そして、最後にだけ、ちょっと出てくるから効果的なんだが)。
というわけで、原作ファンのみを相手にしている映画ですが、原作ファンがこれで満足するとは到底思えないのです。