今週は試写で「グッバイ、ゴダール」と「判決 ふたつの希望」を見て、そして金曜の初日に「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」を見た。
「ハン・ソロ」は初日プレゼントとかで大判のポストカード2枚の入ったポリ袋を渡される。が、絵がださすぎて使う気にも飾る気にもなれない。
どんどんつまらなくなる印象のディズニーの「スター・ウォーズ」だけれど、「ハン・ソロ」はついにアメリカの批評家にも見捨てられ、評判かなり悪そうだったので、見なくてもいいかと思っていたが、やはり公開されると見に行ってしまう。
個人的には「フォースの覚醒」に狂喜乱舞したあと、「ローグ・ワン」でがっかり、「最後のジェダイ」でもっとがっかりだったが、今回の「ハン・ソロ」はもうがっかりを通り越して、最初から期待もせずに見ていた。実際、「ハン・ソロ」に比べたら「ローグ・ワン」や「最後のジェダイ」は一応批評的なことを書こうという気にさせただけよかったのだと思う。
「スター・ウォーズ」の主役たちはみな、大義のためにがんばっているが、ハン・ソロだけはそもそも大義のためにがんばる気のない、ちょっとワルなところもあるやつだったが、若き日のハン・ソロはそういうキャラが全然生かされてなく、なんとなく巻き込まれてチューイに出会ったり、ランドに出会ったりして、なんか最後に来て大義みたいなものが出てきて、ああ、シリーズ化する気なのかなあ、という結末になる。
「ローグ・ワン」は主人公たちが誰もその後の物語に出てこないので、全員死んだのだろうと予想されていたが、「ハン・ソロ」ではソロとチューイとランドは死ぬはずがないので、その辺の緊張感がまるでないのである。
個人的には、久々に見たポール・ベタニーがずいぶん老けていたので驚いた。「ロック・ユー!」や「ビューティフル・マインド」からだいぶ年月が流れたのだと気づいた。
「グッバイ、ゴダール」はゴダールの妻だった女優のアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝の映画化で、五月革命に傾倒するゴダールと、彼につきあいきれなくなるアンヌが描かれる。監督は「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウスで、コメディとして作ろうとしているのだろうけれど、あまり成功していない。
「判決 ふたつの希望」はアカデミー賞外国語映画賞ノミネートのレバノン映画。ハリウッドで修業した監督の作品らしく、娯楽映画としても面白くできている。
自動車整備工のレバノン人のキリスト教徒トニーと、パレスチナ人の現場監督ヤーセルの2人が対立、ののしりあいから傷害事件にまで発展し、裁判になる。
トニーは極右キリスト教系団体によるパレスチナ人へのヘイトスピーチに強く影響を受けていて、ヤーセルにいやがらせをしたあげく、「シャロン(イスラエルの元国防相)に抹殺されていればよかった」という、決して許されないヘイトスピーチをして、ヤーセルに殴られ、ろっ骨を折ったあげく、仕事で無理をして倒れた彼を助けようとした身重の妻は早産してしまう。
ヤーセルの方はトニーにいやがらせされたときに彼をののしってしまい、そのことで謝罪を求められるが、なかなか謝罪せず、やっとのことで謝罪に出向いたときにあのヘイトの言葉を言われ、かっとなって殴ってしまったのだ。
トニーもヤーセルもある種の被害者意識を持っていて、トニーはパレスチナ人ばかりが優遇されているという不満からヘイトに走り(妻や父親はまともな人間で、彼を諌めるのだが聞かない)、ヤーセルはパレスチナ難民として迫害を受けた過去から被害者意識を持っている。このあたり、現在の日本のヘイトに走る人々やそうでなくても被害者意識の強い人々とつながる部分を感じて興味深かった。
違うのは、この映画ではヘイトスピーチをヘイトクライムだと言って、トニーのヘイトクライムとヤーセルの傷害事件のどちらがより悪いかという議論になっているところだ。日本では暴力は絶対いけないと言う一方で、言葉によるヘイトは野放しになっている。
トニーにはキリスト教系極右団体と関係があった弁護士がつき、ヤーセルにはヘイトクライムを許さない女性弁護士がつく。実は2人の弁護士は父娘だったと途中でわかるのだが、トニーの家も妻と父親は穏健なリベラルなのにトニーはヘイターという具合に、家族の中に正反対の立場の人々がいるという設定が面白い。おそらく、レバノンという国にいろいろな立場の人が存在することの寓意になっているのだろう。
実はトニーもヤーセルも自分が悪いことをしたのはわかっている。トニーがヤーセルに求めたのは謝罪だけだったが、ヤーセルは自分に非があるとわかっていても素直に謝罪できない。パレスチナ人の自分の方がずっと大きな迫害を受けてきたと思っているからだが、やがて、トニーにも幼い頃に経験した過酷な事件があったことがわかる。それは40年前のレバノン内戦だった。
ヤーセルの仕事に対するこだわりが自分と同じだと知って、裁判中に思わず顔を上げるシーン、ヤーセルの車のエンジンがかからないのを見て、職業意識からなおしてやるシーンといった細かいシーンの積み重ねで、2人の距離がしだいに縮まっていくのを描き、トニーの過酷な体験を知ったヤーセルの表情と2人が和解するためにとった彼の行動、最後の判決のあとに2人がかわすまなざしといった的確な表現が感動を呼ぶ。面白い娯楽映画であると同時に、レバノンと中東の歴史、そして被害者意識とヘイトというより普遍的なことも考えさせる映画だ。