1月末に天井の落下事故があり、点検のために約1か月休館したあと、今月はじめから一部のスクリーンで営業を開始したTOHOシネマズ日本橋に「ダンボ」を見に行った。
まだ閉鎖中のスクリーンはあるけれど、全体としては以前と同じ感じに見えた。ただ、上映作品が少ないので非常に閑散としていた。「ダンボ」もガラガラ。
まあ、「ダンボ」はティム・バートン監督、マイケル・キートン、ダニー・デヴィート出演という、往年の「バットマン・リターンズ」の監督と主演の2人なので見に行ったようなもので、ほとんど期待はしていなかったが、それでも少しは見どころがあるんじゃないかと思っていたけれど、全然なかった。
冬の「くるみ割り人形」もだけれど、ストーリーや脚本が最悪。それでも「くるみ割り人形」の方がヴィジュアルや音楽でまだ見どころがあったが、「ダンボ」はまったくだめ。
1919年、第一次世界大戦で片腕を失い、妻は病死で2人の子供が残されたサーカスの曲芸師がサーカスに戻って象の世話をすることになる。団長(デヴィート)が新しく買った象は妊娠中で、小象が人気者になることを期待していたが、耳が大きすぎてだめだと判断されてしまう。母象は売主に返されてしまい、その後、小象のダンボが大きな耳で飛べることがわかり、という出だし。
このあと、サーカスと提携してドリームランドというテーマパークを作った男(キートン)が悪役となるのだけれど、とにかくストーリーがよくこれでOK出たなというシロモノで、これじゃいくら工夫しても面白い映画になるわけないだろうと思う。
ヴィジュアル的にも魅力があまりないし、音楽がいいわけでもない。
特に実写のダンボがかわいくない。
リアルな象だからかわいくない、というのもあるが、動きや表情がかわいくないし、なにより、空を飛ぶダンボに爽快感がない。
なんでこんなに飛ぶシーンに爽快感がないのだろう、と思い、リチャード・ドナーの「スーパーマン」とか、サム・ライミの「スパイダーマン」とか、ジェームズ・キャメロンの「アバター」とか、宮崎駿のアニメとか、飛ぶシーンが魅力的だった映画がいくつも頭をよぎり、ティム・バートンの飛ぶシーンの下手さ、魅力のなさに唖然とする。
思えばティム・バートンは空を飛ぶシーンを魅力的に撮ることがなかった人だったなあと気づく。
バットマンがビルのてっぺんに立って下を見下ろすとか、シザーハンズが山の上の城にいるとか、高い場所にいる人を描くことはあったが、その場合でも決して主人公の視線で高いところからまわりを見ることはなかった。彼らは常に遠くから見られていただけだった。
ダンボも、ダンボ自身が空を飛ぶ爽快さとか楽しさを感じるようにはまったく描かれていない。普通なら、ダンボの視線で飛ぶ風景が描かれるのに。
ダンボがかわいくないのも、ダンボに感情移入させないからだ。
ただ、ティム・バートンの映画を思い起こしてみると、バートンは異形の人々に対する共感を強く描いていたが、彼らの中に入ってまわりを見ていたわけではなかった。バートンは基本的に外からしかキャラクターを見ないのだろう。
だから、耳が大きいので異形の存在にされるダンボの気持ちも、母への思いも、形だけしか描かれていないと感じる。でも、「シザーハンズ」や「バットマン・リターンズ」のような優れた作品では、外からしか描かなくても彼らへの共感は大いにかきたてられていた。「ダンボ」にはそれがない。
異形の存在に対するバートンの興味そのものが形骸化してしまったのだろうか。
と、かなりがっかりの「ダンボ」だったけれど、その前に試写で見た「僕たちのラストステージ」はよかった。
戦前に映画で絶大な人気を誇ったスタン・ローレルとオリヴァー・ハーディのコンビがすっかり落ち目になった頃の、1953年のイギリス巡業を描いた作品。
最初は狭いホールでも客は少なかったが、巡業を続けるうちに人気が沸騰、ソールドアウトが相次ぎ、ついにロンドンで広い劇場を満員にして公演ができるようになる。
その間、ローレルとハーディが仲良しコンビではなく、特にハーディはローレルを仕事仲間としか思っていないことなどから、2人の間にいさかいが起こる。2人の妻たちも相手の夫をよく思っていない。しかし、彼らのけんかも周囲にはコントに見えてしまうという見かけと現実の落差。
そんなとき、ハーディが倒れ、医者や妻から引退を勧告されたとき、ローレルとハーディはお互いがなくてはならない存在であることに気づく。
ローレルとハーディは、ローレルが脚本を書き、それを2人で演じるという形だったのだけれど、ローレルにとってはハーディの存在がコントを書く触媒になっていたことがわかる。なんとなくコント55号を思い出したが、ローレルとハーディを演じるスティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーの演技がすばらしく、テンポのよい演出もみごと。