「パラサイト 半地下の家族」を最初に見たのは11月はじめの試写室。
超満員の試写室になんとか入り込み、最後列のさらに後の補助椅子で見たが、ただでさえ小さいスクリーンを一番遠くから見るのでは細かいところがよく見えず、特にロングショットだとほんとに見えなくて、これは映画館で見ないとだめだ、と思った。
それから3か月以上たった今日、TOHOシネマズららぽーと船橋の最大スクリーンで再び「パラサイト」を見る。ここは本来はドルビーアトモスのスクリーンで、IMAXのような大きなスクリーンが魅力。TOHOのアトモススクリーンではここが最高とファンの間で話題の場所で、私もここで見たくてわざわざ来ることが何度もあった。
「パラサイト」はエンドロールを見るとアトモスもあるようだが、ここではアトモスではなく音声は通常。しかし、TCXのスクリーンで見る「パラサイト」はすばらしかった。試写で見たとき、よく見えずにイライラした、半地下の家族と地下の夫婦が豪邸の居間でスマホを取り合い、そこに犬たちがわらわらと出てくるロングショット、大きなスクリーンだとよく見える。それ以外にも豪邸の装飾とか、夜の雨の中を走るシーンとか、試写で見づらかったところがほんとによく見えた。
広い客席はほぼ満席で、もともとヒットはしていたのだが、アカデミー賞作品賞受賞後の大ヒットを目の当たりにした。
TOHO船橋の最大箱の入口。
試写でもらったプレスシート(プログラムとは表紙が違う)と、帰りにIKEAに寄ってもらったカタログ(あちこちにたくさん積んであった)。
というわけで、やっと本物の「パラサイト」が見られた!という感じなのだが、去年、試写で先に見せてもらえたこと自体はとてもよかった。というのも、2回目なので、クライマックスが前回よりも非常によくわかったのだ。登場人物の行動の理由がしっかりわかるように演出・撮影されていて、その緻密さに舌を巻いた。
最初に見たときは前半はこれからどういう展開になるのかわからず、そのあと、地下に元家政婦の夫が隠れていたことが発覚したあたりからは、その後の展開が読めてしまったのだが、今回は前半がちょっと長く感じた。そして、後半はもう展開がわかった上で見ると、細かい部分の演出がよくわかる。
半地下の家族と地下の夫婦は、実は同類である。どちらもカステラの商売に失敗した。ただ、半地下の父親は商売に失敗し、今は失業中だが、借金はない。父は運転手の経歴があり、母は家政婦になれるだけの家事の実力があり、息子と娘も大学に受からないが才能はある。彼らはゼロから出発して富豪の家に入り込む(この入り込み方があまりにもうまく行き過ぎなのは否めないが)。ところが地下にいる元家政婦の夫は半地下の父親と同じくカステラの商売に失敗したが、彼は莫大な借金を背負ってしまい、命をねらわれている。
地下に夫をかくまう元家政婦はもともと豪邸を建てた建築家の家政婦だったので、この夫婦は元は中流だろう。また、半地下の家族も、母親はハンマー投げのメダリストで、息子や娘も大学をめざしていることから、もともとは中流だったと思われる。また、高台に住む富豪は新興の金持ちのようなので、やはり中流から成功した金持ちと思われる。つまり、ここに登場する3つの家族はいずれも中流だったが、それが富裕層、貧困層、最貧困層に分かれたことになる。
半地下の家族と地下の夫婦が出会ったとき、彼らには協力という選択肢があった。半地下の家族は基本的に善人であり、だから母親は元家政婦を中に入れてやるし、父親はクビになった前任の運転手を気遣う。元家政婦が事情を話し、夫を地下に住まわせて食事を与えてほしいと頼んだとき、半地下の家族がそれを受け入れれば、彼らは協力できた。彼ら6人が富豪のお金で暮らすことは可能だっただろう。しかし、半地下の家族は夫婦を拒否し、夫婦が反撃に出る。
大雨によって半地下が水浸しになり、貧しい人々が体育館に避難した翌日、豪邸では何もなかったかのように息子の誕生日パーティが行われる。その過程で半地下の父親の怒りが増していくのがソン・ガンホの表情で表現される。一方、母親は地下の夫婦を気遣い、娘に食べ物を持っていくように言う。娘は豪邸の妻に用事を言い渡されて、持っていかないのだが、かわりに息子が大きな石を持って地下へ行く。
息子は地下の夫婦を殺すつもりなのだが、彼はなぜそうしようと思うのか?
地下に行く前に、彼は豪邸の娘と話をし、彼女と結婚できることを確信する。彼女と結婚して富裕層に入るためには地下の夫婦が邪魔なのだ。
一方、富豪への怒りを胸に秘めた父親は、地下から現れて人を殺傷してまわる夫が倒されたとき、突然怒りが爆発して富豪を刺す。そのきっかけは、富豪が倒れた夫の臭いをかぎ、不快な身振りをしたことだった。
富豪は以前から、半地下の家族の臭いについて語っていたが、倒れた夫が自分の娘を刺殺したにもかかわらず、父親は地下の夫の臭いに反応した富豪に怒りを爆発させる。このとき、父親は地下の夫婦と同じ立場に立っていたのだ。
地下の夫婦に食べ物を持って行かせようとした母親、そして、倒れた地下の夫の臭いに反応した富豪に怒りの刃を向けた父親。彼らは地下の夫婦と連帯できたはずだったのだ。
それに対し、地下の夫婦を殺そうとした息子は最後まで上昇志向である。富豪の娘と結婚するために地下の夫婦を殺そうとした彼は、ラストでは、地下に潜む父親を救うために金持ちになり、豪邸を買いたいと思う。この息子にとってはお金がすべてであり、父や母が感じた地下の夫婦への同情や共感がない。そして、この息子がどう見ても金を稼いで豪邸を買えるようになどならないと、観客は最後に感じるだろう。
地下に逃げた父親は、亡くなった元家政婦に対してリスペクトの気持ちを持っている。父親の方は地下の夫婦と連帯すべきだったと思っているだろう。だが、息子にその気持ちは伝わらない。自分さえ上に上がってしまえばいいという考え方が、たぶん、全世界に広がっている。しかし、上に上がれる人はごく一部である。この映画はそれを表しているように思う。
前回、「1917 命をかけた伝令」を良作だが傑作ではないと書いたが、その後、考えれば考えるほど、「1917」はスタイルだけで中身がない、いや、むしろ、中身が問題がありすぎるのではないか、と思うようになった。
最も気になるのは、主人公のイギリス兵2人が墜落した飛行機のドイツ兵を助けようとして逆に1人が刺されて死んでしまうところと、後半、もう1人のイギリス兵が自分の存在を知らせようとするドイツ兵を殺さず、ただ黙らせようとするところだ。
主役である2人のイギリス兵は戦場であるにもかかわらず、ドイツ兵を殺さない。一方、ドイツ兵は容赦なく主人公たちを殺す、殺そうとする。
イギリス兵はできるだけ人を殺さない善良な人々で、ドイツ兵は容赦ない人殺しなのか。
そんな戦争映画、これまでに見たことがない。戦争は殺すか殺されるかであり、それを映画は真摯に描いていた。
この、イギリス兵は虫も殺さぬ善人で、ドイツ兵は人殺し、という描写がおかしいというか、差別的というか、偽善的というか、第一次世界大戦の頃はナチスじゃないから、ユダヤ系ドイツ人も他のドイツ人と一緒に戦った。第二次大戦みたいにドイツ兵=ナチス=悪みたいなのは通用しない。
サム・メンデスの戦争に対する感覚や常識に疑問を感じる。
後半、瓦礫と化した街の中になぜか自分の子供ではない赤ん坊を抱いている女が住んでいるのだが、これは前に書いたとおり「バリー・リンドン」のパクリとしても、「バリー・リンドン」の方はもっと自然な描写で、赤ん坊は女の子供である。一方、「1917」は自分の子供でないので女は乳が出ない、なので、主人公が持っていたミルクを受け取る。このミルク(仲間が死ぬ前に牛がいる場所で手に入れたもの)を与えるのに何か意味でも持たせているのだろうか。
このほか、真ん中あたりで仲間が死んだ直後、うまい具合に味方の連帯に遭遇、その後別れるが、一夜明けたあとにまた都合よく目的の連帯に遭遇とか、肝心なところでご都合主義が目立つ。確かに撮影や演出の技術は優れているが、正直、脚本賞ノミネートされるような出来のいい脚本とは言えない。というわけで、良作というのも撤回したい気分である。