2020年2月28日金曜日

「マーティン・スコセッシ」の日本語表記

マーティン・スコセッシの映画を最初に見たのは「アリスの恋」だった。
ほのぼのアメリカ映画という感じで、同じ年の「ハリーとトント」と一緒に記憶に残った。
どちらも好きな映画だった。
当時、スコセッシはスコルセーゼとかスコシーズとか表記されていた。
「マーティン・スコセッシ:映画という洗礼」には、リアルタイムの映画評がそのまま掲載されていて、スコセッシがスコシーズだったのがわかる。
日本で最初に公開された「アリスの恋」の映画評ではスコシーズ、その前の作品で、日本公開はあとになる「明日に処刑を…」はスコシーズ、「ミーン・ストリート」はスコシージ。「アリスの恋」に続く「タクシー・ドライバー」ではスコーシージ。そして「ニューヨーク・ニューヨーク」ではスコシージと、ここまではスコシーズまたはスコシージで、そのあとの「レイジング・ブル」からスコセッシになる(スコルセーゼはどこで見たのだろう。「スクリーン」かな)。
最初に見たスコセッシが「アリスの恋」で、しかも確か試写会で見たと思うので、日本で最初にスコセッシを見たひとりだと思うが、次に見た「タクシー・ドライバー」で、わあ、こういう監督だったのだ、と思った。
この頃に「アリスの恋」以前の「明日に処刑を…」と「ミーン・ストリート」が公開されたのだが、これは見ていない。当時、私は映画を少し離れて英文学に入れ込んでいた。だから「ニューヨーク・ニューヨーク」も気になっていたが、見逃している。「ラスト・ワルツ」も見ていない。
英文学に希望が持てなくなった頃の「レイジング・ブル」からはすべて見ている。
「フランケンシュタイン」の解説がきっかけでキネマ旬報から原稿依頼があったとき、編集者からもらったのが「キング・オブ・コメディ」が表紙のキネ旬だった。
スコセッシについて書くことはあまりなかったが、実は「シャッターアイランド」の映画評も書いていた。

というわけで、「シャッターアイランド」の映画評をここに再録しちゃおう(ネタバレあり)。

「シャッターアイランド」
 マーティン・スコセッシの新作「シャッターアイランド」は不思議な映像で始まる。時は一九五四年、精神を病んだ囚人ばかりを収容するシャッターアイランドに向かうフェリーの中で、気分が悪くて嘔吐していた連邦保安官のテディは、そこで初めてパートナーのチャックと出会う。二人はシャッターアイランドの鍵のかかった病室から忽然と姿を消した女性患者の捜索のために島へ向かうところだ。このシーンの映像は古いハリウッド映画のようにどこか作り物めいている。ところが、二人が島に着くと、カメラは急に俯瞰となり、病棟へ向かう彼らを空から追いかける。まるでキューブリックの「シャイニング」のオープニングシーンのようだ。
 「シャイニング」を思わせる映像はそのあとも続く。床に転がる子供たちの死体がそうだ。テディの夢の中に現れる妻の姿、その水と火の幻想的な映像は不気味なまでに美しく、こうした映像を得意とする映画作家たち、特にホラーやスリラーの作家たちの作品が頭をよぎる。スコセッシはこの映画がホラーかスリラーであることを隠していない。もっとも、「恐怖の岬」のリメイク「ケープ・フィアー」同様、スコセッシのホラーはあまり怖くないのだが、そのかわり、ドラマとしては見応えがある。幻想的な映像と謎めいた展開の果てにあるのは謎解きを超えた人間のドラマである。
 「ミスティック・リバー」で名高いデニス・ルヘインの原作小説は、結末の謎解きの部分を袋とじにしたことで話題になった。こういう売り方は理詰めの謎解きを売りにする本格推理小説では前例のあることで、袋とじの部分を開かなければ返金に応じます、といった売り方をした本も過去にはあった。「シャッターアイランド」は鍵のかかった密室から女性患者が消えるという典型的な密室ものの本格推理小説の設定から始まっている。しかも、手がかりになるのは数字に関するメモ。しかし、ルヘインの語りはしだいに本格から離れ、別の方向へ向かっていく。
 テディは第二次大戦でナチ強制収容所を解放したとき、捕虜のドイツ人を皆殺しにしてしまったという過去の記憶に悩み、また、放火で死んだ妻の幻影につきまとわれている。彼がこの事件の担当を願い出たのは、実は、妻を殺した放火犯がここにいるという情報を得たからだ。ところがしばらくすると、彼は放火犯に復讐するつもりはなく、本当の目的は、共産主義勢力と対抗するために政府主導で行なわれている人体実験を暴くためだと言う。
 時代は一九五四年。米ソ冷戦の時代であり、マッカーシズムが吹き荒れた時代だ。そういう時代ならいかにもありそうな陰謀だが、冷戦終結後の現代から見れば荒唐無稽な話である。このあたりから原作の読者も、あれ、もしかしたら、と思い始め、袋とじを開いたらやっぱりそうだった、となる。十年ほど前にアカデミー賞を受賞したある映画が記憶にあれば、なおさらからくりは見えてしまうだろう。
 原作同様、映画も観客に謎解きで挑戦という売り方をしている。映像に手がかりがあるから謎解きをしてください、ということが本編の前に語られる。だが、謎解きだけでこの映画を楽しもうとすると、期待を裏切られるかもしれない。
 結論から言うと、この映画は謎解きを楽しむ映画ではないのである。それはルヘインの原作も同じなのだが、スコセッシは原作にかろうじてあった本格推理のスタイルをそもそものはじめから捨てている。手がかりの数字のメモは数を減らされ、その謎解きも小説ほどじっくりとは描かれない。そして何より、「シャイニング」を思わせる空撮や、ホラーにふさわしい美しくも不気味な映像の数々が、この映画を限りなく本格推理から遠いものにしている。
 一九五四年という時代設定は非常に重要だ。第二次大戦で心的外傷を負った人々が多数存在し、冷戦時代の不安がさらに人の心に悪影響を及ぼす。精神を病む患者が増えても、当時の精神医療は未発達で、アイスピックのような道具を使った前頭葉切裁術(ロボトミー)が行なわれていた時代だ。「カッコーの巣の上で」や「女優フランシス」など、ロボトミーのもたらす悲劇を描いた映画は少なくないが、その後遺症もさまざまで、これを受けた患者による殺人事件も起きている。
 ひとっとびに結末まで行ってしまうと、テディは最後に妄想から目覚める。妄想に陥った彼は凶暴になり、多くの人を傷つけていたこともわかる。彼が妄想に陥ったのは、妻の異常に気づいていながらその現実から目をそむけ、その結果、取り返しのつかない悲劇が起こってしまったからだということもわかる。
 しかし、テディのような立場になったとき、彼とは違う行動をとれると自信を持って言える人がどれだけいるだろうか。「ミスティック・リバー」の発端と同じように、この世には避けられない悲劇が存在する。妄想よりも現実に生きる方が幸せだと誰が言えるだろう。現実を知ることが解決にならないのに、そのまま正気でいることはむずかしい。
 映画は原作の結末をほんの少し変えている。「モンスターとして生きるか、善人として死ぬか」という台詞は原作にはない。才気あふれる壮年期に「タクシードライバー」を作った監督が、年を経て、妄想に生きる男に正気の言葉を与えたのだと思うと、感慨深いものがある。