2021年3月31日水曜日

「ワンダーウーマン1984」

見てから3か月が経過し、見たばかりの頃のような熱はなくなってしまったし、だいぶ忘れてもきたので、書こうか書くまいか迷っていたが、ちょうど3か月たったこともあるし、一応、覚書として書いておこう。

すでに指摘されているように、この映画にはリチャード・ドナー監督の「スーパーマン」へのオマージュがある。特に1984年が舞台の冒頭のシーン、ワンダーウーマンことダイアナが次々と人を助けていくシーンは「スーパーマン」を思い出させる。

それだけでなく、映画全体が1970年代から80年代の映画のような映像になっているのだ。

IMAXで見たのだが、IMAXカメラで撮られたのは本編の冒頭と最後、プロローグとエピローグに相当するシークエンスで、ここはIMAXのスクリーンいっぱいに映像が広がり、今流のくっきりしたデジタルっぽい映像が繰り広げられる。

が、その間のシーンはIMAXカメラでは撮られていない、スコープサイズの映像(IMAXだと上下に黒みが出る)。そして、その映像の質感はアナログ時代のもので、デジタルやCGのくっきり映像を見慣れた人から見ると、どこかくすんだ感じに見えるだろう。(エンドクレジットの間にはさまれるおまけのシーンも通常撮影。)

わあ、リチャード・ドナーの「スーパーマン」だ、70年代から80年代のファッションとか雰囲気がなつかしい! と感動する年齢の私から見ると、このスコープサイズの映像はなんともなつかしいものなのだが、IMAXの割り増し料金を払って、くっきり映像が見たかった観客は損したと思うかもしれない。

思えば「マンク」も1930年代の雰囲気のモノクロ映像で、今のモノクロ映画のすっきりくっきりとは違う。「ROMA」のような今のモノクロ映像に慣れていると、「マンク」のモノクロはぼけた感じに見える。

それは同じDCコミックスとワーナーのコラボ映画「ジョーカー」もそうで、これも70年代から80年代の雰囲気の、しかもざらついた映像になっていたから、ドルビーシネマでくっきり映像を期待した人は裏切られたらしい(私は通常上映で見た)。

「ワンダーウーマン1984」は海外では配信で見た人も多いらしいが、配信ではIMAXと通常の撮影のシーンの違いすらわからないだろう。

そんなわけで、一部をIMAXカメラで撮影しながら、大部分は70年代から80年代の映画のような映像、というのは、マイナスの効果になるリスクがあった。

それもあってか、Internet Movie Data Baseではこの映画に10点満点中1点しかつけない人が多い。配信で見たのでつまらなく感じたのか、あるいはフェミニズム的なところが嫌われたのか、それはわからないが、あまりに1点ばかりなので、逆に「10点中7点くらいの出来だが、ほかの人のつける点がひどいから10点つける」とばかりに10点つけている人もけっこういた。

「ワンダーウーマン1984」はもちろん、前作には及ばない出来だが、見るべきところは多い。脚本がだめだ、という指摘は間違ってはいないが、全体としては筋が通っている。冒頭の、ずるをして勝とうとする少女時代のダイアナが叱られるシーンも、悪役のマックスが息子への愛だけは真実であることがわかるシーンも、クライマックスの伏線となっている。

そして何より、この映画の中心にいるのはもう一人の悪役バーバラであり、彼女の変化が注目に値する。

マックスとバーバラという男女2人の悪役、というと、ティム・バートンの「バットマン・リターンズ」を思い出すが、「ワンダーウーマン1984」は「バットマン・リターンズ」へのオマージュでもある。マックスはペンギン、バーバラはキャットウーマンに相当する。ペンギンもキャットウーマンも悲惨な体験がもとで悪役になってしまうのだが、マックスは貧しい移民の息子で、暴力をふるう父に苦しめられたことが映画の終盤で明らかになる。そして、バーバラの変化はまさにキャットウーマンをなぞっている。

バーバラは最初、眼鏡をかけた冴えない女性として登場する。スミソニアン博物館の同僚となったワンダーウーマンことダイアナとは正反対のタイプだが、ホームレスの男性に温かい食事を差し入れるやさしい女性であり、話をするのが楽しい、明るい性格だ。

そんな彼女とダイアナが博物館にあった石を調べると、そこには、誰でも1つだけ願いが叶う、とある。

バーバラは夜道で酔っ払いにからまれ、性被害を受けそうになったところをダイアナに助けられる。ダイアナのような強く美しい女性になりたい、とバーバラは思い、その願いが叶ってしまう。眼鏡をはずし、おしゃれをするバーバラは、同僚の男性から「きれいになったね」と言われるが、これは現代ならセクハラだろう。が、映画の舞台となった1984年にはセクハラとは思われていなかったことで、バーバラも悪い気はしていないようだが、これはセクハラなんだ、ということは映画は暗に示していると思う。

一方、ダイアナは前作で死んでしまった恋人をずっと思い続けていて、彼がよみがえってくれたら、と願うと、恋人が別の男の肉体で現れる。しかし、ダイアナもバーバラも、願いが叶うことで大事なものを失っている。ダイアナは超能力が衰え、バーバラは性格が変わっていく。

おしゃれになったバーバラは、最初は、昔の映画によく出てきた「おバカな金髪女」そのものである。だが、彼女はダイアナのように強くなりたいと願い、体を鍛え、怪力を手に入れて、再びからんできた酔っ払いをぼこぼこにする。当時のフェミニズムは男性社会を激しく非難し、女性は強くなるべし、と考えていた。バーバラが自分を襲う男に怒りを燃やし、強くなろうとするのは、あの時代のフェミニズムを想起させる。そんな彼女に、ダイアナは、「あなたはやさしい女性だったのに」と苦言を呈すが、バーバラは「やさしく善良な女性」、「おバカな金髪女」、「男をやっつける強い女性」と変化していく。これらはどれも映画などに描かれるステレオタイプの女性だが、この異なる3つのステレオタイプが矛盾なく1人の女性の変化となっているのは、クリステン・ウィグの演技力の賜物だろう。

「やさしい女性」も「おバカな金髪女」も女性のステレオタイプだが、女性は強くなるべし、という考え方も、強くなるにも限界がある、強くなれない人はどうする、といった問題から、今では強くあるべしとはあまり言われないと思う。「きれいになったね」がセクハラだというのと同じく、当時の女性観が批判的に盛り込まれていると言える。

もう一人の悪役マックスが石を手に入れ、それで人々の願いを叶えることで世界征服を企むが、それを阻止するためには叶ったものを手放さなければいけなくなる。ダイアナは前作で死んだ恋人がよみがえるが、彼を再び失わなければならず、苦悩するが、この映画が力を入れているのは恋人を失わなければならないダイアナよりも、強い力を失いたくないバーバラの方だ。力に対する渇望は、男の悪役マックスにもあるが(力を渇望する男が主人公の映画は無数にある)、力を失いたくないバーバラは悪い意味での男性化を果たしている。

1980年代を舞台にしているという点で、この映画は「ジョーカー」と似た面がある。不遇な人が怒りから悪役になる、というパターンで、悪役も同情すべきところがある、という設定だ。1990年代頃からアメリカ映画の悪役は「ダークナイト」のジョーカーのように、最初から悪そのものであるように描かれることが多くなったが、「ジョーカー」と「ワンダーウーマン1984」は「バットマン・リターンズ」のように、悪役にも同情の余地があるという設定を採用している。ただ、どちらの映画も同情の余地がティム・バートンのようには切実な描写になっておらず、このあたりが中途半端な感じになっていることは否めない。「ジョーカー」では貧しい人々は富裕層に怒りを燃やしていたが、現実ではトランプのような金持ちに投票してしまうわけで、世の中がいろいろと複雑になってきていて、映画が追い付けない感じはある。