ラストシーンのあと、黒いスクリーンに現れる白い文字Nomadlandが、No mad landに見えた。狂える土地はない、というような意味に。
タイトルは映画の最初にも同じように出てくるが、このときはノマドランドとしか読めなかった。
ラスト、夫とすごした家を訪れた主人公が、広々とした荒野を眺めるシーンで、「私の人生はこれでよいのだ、狂える土地はない」と彼女が悟ったように感じたからだろう。
中国で生まれ、10代から欧米で生きることになったクロエ・ジャオ監督の、そのノマドのような人生への肯定感だろうか。あるいは、私が深読みしているだけなのか。
企業が撤退し、町全体がなくなってしまった主人公は、キャンピングカーであちこちをめぐりながら重労働をして生きている。西部には彼女のように旅をして生きている高齢のノマドたちが何人もいて、彼らの指導者のような人物もおり、こうした人々と主人公は交流していく。
雪が地面をおおうネヴァダ州に始まり、サボテンがそびえるアリゾナ州、主人公の姉が住む中西部の典型的な街並み。特に姉の住む住宅街が出てきたときは、それまでの荒野との対照で、ああ、普通の人が住む町が出てきた、と思った。そのくらい、ノマドたちの荒野と普通の人々の住む住宅街は違う世界だった。
自分の家に住むようにと言う姉を断り、ノマド仲間の老いた男性がいる彼の息子の家を訪れ、そこでも、息子と同居することになった男性から、ここに住まないかと言われるが、それも断る。
主人公の夫は町を支える企業で働いていたが、企業が撤退するずっと前に亡くなっている。なのに、主人公はその町にとどまっていた。夫の思い出のためだったのだ、と彼女は述懐する。
主人公は今でも結婚指輪をはめていて、ノマド仲間から、指輪は輪っかだからまた戻ってくる、ということを言われる。主人公が生きている時間は、まさにその円環の時間だ。映画はネヴァダ州から始まり、アマゾンの配送センターで働く主人公を映し出し、そして最後もアマゾンとネヴァダ州で終わる。
定住しないノマドは円環の時間を生きている。だから、「さよなら」を言わず、「また会おう」と言う。ぐるぐる回っていればどこかで会えるから。それに対し、安住の地を見つけるのは直線の時間だ。
主人公の姉は彼女に、ノマドは開拓者みたいだと言うが、開拓者も直線の時間を生きている。
「ノマドランド」はいろいろな意味で「ミナリ」と対照的な映画だ。「ミナリ」の移民たちは直線の時間を生きている。安住の地を見つけるために移動し、親の世代が種をまいて、子の世代が収穫をする。彼らには前進あるのみだ。彼らの方が開拓者的である。
「ノマドランド」の円環の時間は、直線的に進む世界の中で、そこだけ時が止まったような不思議な空間を作り出している。ノマドが高齢者ばかりなのも、高齢の人々はもはや若者や中年のように直線的に前進していく存在ではないからだろう。高齢者だからこその円環の時間だともいえる。
主人公は夫との間に子供が生まれなかったようで、赤ん坊の抱き方もよく知らないようだ。子供がいない、ということもまた、直線の時間からの解放になる。
夫との思い出にこだわり、古い車にこだわる主人公が、自分の人生と自分のアイデンティティを振り返り、これでよいのだ、という肯定感を得る。NomadlandすなわちNo mad land。