例のオ氏による「専業主婦のセレブバイト」の件、いろいろな方向に波紋を呼んでいるようだ。
オ氏が経験した地域格差の問題と、女性の仕事の問題がごっちゃになっているので、なんかいろんな方向に発展し、あさっての方向にまで広がっている感じ。
女性の仕事、「セレブバイト」の件は、オ氏の認識が完全に間違っているとしか言いようがないのだけれど、多くの人に興味を持たれるのは、派遣とか働く女性の格差の問題があったり、その一方で、「セレブバイト」と呼ばれてもしかたない願望を描く恵まれた男女(女性とは限らない)が少なくないからだろう。
こちらの件に関しては、オ氏の発言は単にきっかけになっただけで、オ氏が勘違いしているかどうかとはもう関係なくなっている。
地域格差のことで、成功した北海道出身者が怨嗟の感情を示すのを見たのは、オ氏が3人目で、他の2人は東大院生だったから、オ氏のようないい年した大学教授が東大院生と同じようなことを言っているのに驚いた。氏の心はいまだに北大助手のままなのだろう。
もっとも、2人の元東大院生(今はもっと出世してる)は室蘭や釧路の出身で、北海道では田舎とは言えず、稚内のオ氏の方がトラウマが大きいのはわかる気がする。また、他の2人は学部から東大に進学したが、オ氏は北大であり、その後は長万部の大学だから、東大の学部から東京にずっといられる(1人はアメリカの名門大学の院に留学)2人と同じにはできない。
そう思うと、オ氏のように世界に向かってトラウマを発信してしまう人がめずらしいだけで、心の中にまだトラウマを持っている人はたくさんいるのかもしれない。
一方、オ氏の発言がきっかけになって広がった「専業主婦のセレブバイト」の件。
こちらはジェンダーやフェミニズムの問題になるので、地域格差よりも飛びつきやすい。地域格差の方が題材として地味だからね~。
こっちはもう、オ氏の発言とは切り離して考えないといけないのだが、この「セレブバイトと派遣法」という記事が参考になる。
セレブバイトと派遣法: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) (cocolog-nifty.com)
こういう派遣の実態を、オ氏のように「専業主婦のセレブバイト」と表現してしまうことは非常に問題だと思う。通訳にしろ、翻訳にしろ、高いレベルのスキルが必要なのに「主婦のセレブバイト」とされ、「生きがいのためにただでもやりたい人」がけっこういて、そのために報酬がどんどん下がって、それで食ってる人(男女とも)が食えなくなるという事態が発生しているのだ(特に翻訳)。
この「生きがいのためにただでもやりたい人」が、前記事の「お金はいらないから大学の非常勤講師がしたい」と言う専業主婦たちで、この記事内のツイッターにはその後、同じような「セレブバイトを希望する男女」の話がいくつもリツイートされている。
会社を退職したら大学で教えたい、高校を退職したら大学で教えたい、という男性陣もいるようだ。
現実的に言うと、今、大学は国公立は65歳定年、私立は70歳定年が多いから、65歳で退職した人は5年しかもたないので雇いにくい。
昔は東大を定年退職すると、東大名誉教授として、私大でひっぱりだこだった。東大は60歳定年であり、私大、特に無名私大は東大名誉教授がいると箔がついた。
しかし、そんな日々はいつかは終わる。東大名誉教授がいても学生は集まらない。そのうち東大も65歳定年になった。
大学で教えるのはまず大学院を出るのが普通だが、1990年代から在野の人を大学が採用するようになった。作家、評論家のようなマスコミで活躍する人、そして、大企業で経験を積んだ理系研究者や経営の実務経験者だ。
特に大企業出身者は研究費を企業からとってこれる人だと大学は大助かり。
90年代はとにかくこういう在野の人をどんどん採用し、その後もこういうふうにして大学教員になる人が増えた。非常勤講師もそこに含まれる。
だから、社会で長らく仕事をしていた人が、自分も大学で教えられるかもしれない、と考えるのは一応、根拠があるのだ(でも、たいていの人には無理)。
今は大学院を出ても非常勤講師すらない人も多い。非常勤講師さえも狭き門である。ましてや専任ともなると、企業からお金をとってこれるとか、その人の名前があると大学が得するとかいう付加価値がいる。
ただ、可能性としては90年代からあるわけで、それが世の中にも知れているから、専業主婦や会社員や高校教師が大学で教えられるかも、と思うわけである。
小中高校の教師の場合、教育法で採用されている人は結構いる。これは昔からあって、現場で教えた経験がないと教育法は教えられないからだ。
そういう背景が一応あるのに、そういう希望を抱く人をバカにするのもなんだかなあと思う。特にカルチャーセンターの講師をバカにしたような発言の人がいたが、カルチャーセンターは生徒数を維持して教室を続けるのは誰でもできることではない。むしろ大学よりもはるかに本人の講座維持能力が問われる。