ポール・ヴァーホーヴェンの新作「ベネデッタ」をやっと見られた。
17世紀に実在し、レズビアンの罪で裁かれた修道院長ベネデッタの実話を大胆に脚色したフィクション。
出だしはあまり才気が感じられず、新しく入った修道女バルトロメアの性的行為で蛇の幻想を見るあたりは、バルトロメアがエデンの園に侵入した蛇の寓意があからさますぎて、蛇の描写もなんだかなあなベタな表現に、ヴァーホーヴェン、年取ったかなあ、と思ったのだが、その後はどんどんよくなり、やっぱりヴァーホーヴェンはただの悪趣味じゃない、芯のしっかりした骨のある作家!と思ってうれしくなった。
この映画にある聖と俗、キリストの寓意などは過去の彼の作品にも見られたもので、特に「ロボコップ」の主人公がキリストになぞらえているのは有名。が、ヴァーホーヴェンが聖書の寓意を使うときは批判と愛着の相反感情がある。
ヴァーホーヴェンのキリスト教会に対する批判は、修道院に入るのも金しだいというシーンや、ベネデッタを利用しようとする男性聖職者たちの姿に現れている。幼いころから妄想癖があったベネデッタがバルトロメアと同性愛の関係を結びながら、その一方で、自分はキリストの花嫁だとして、体に聖痕ができていき、町の人々からは聖者扱いされる。修道院内部の人々は聖痕は自作自演だと思っているが、彼女たちより上位の立場にいる男性聖職者たちが彼女を利用しようとしているので、何も言えない。唯一、修道院長の娘だけが告発するが、彼女は罪深いとして罰を受ける。
修道院長に娘がいるというのがちょっと疑問だったのだが、娘を産んでから母娘で出家したのだろうか?
このことのために修道院長はその地位を追われ、ベネデッタが修道院長になる(男性聖職者がそれを決める。キリスト教会では女性たちには何の権限もないのだ)。
修道院長をシャーロット・ランプリングが演じているので、ベネデッタと対立するのかと思ったら、娘をいさめてことを荒立てないようにするなど、穏健派の女性として描かれている。
このランプリングの元修道院長はベネデッタとバルトロメアの性行為をのぞき見して、フィレンツエの偉い人に訴えるが、その後、彼と町に戻ったあと、心を変えてベネデッタを支持するようになり、最後はベネデッタのかわりに火に身を投じて焼け死ぬ。
ベネデッタの聖痕は自作自演かもしれないが(彼女を愛するバルトロメアもそう思っている)、元修道院長は最後に男性聖職者たちよりも彼女を支持するようになったのだろう。
ベネデッタが子どもの頃からだいじにしていた聖母マリア像をバルトロメアが下半身を男根にしてしまい、ベネデッタが怒るどころか喜んでそれを使うあたり、彼女の信仰心が完全に変化してしまっていることを示す。
最後も、バルトロメアは現実的に考えているのに、ベネデッタは自分は聖人だと信じ込んでいて、町を救いに行く。はたから見たら自作自演の詐欺師だが、本人は妄想を現実と信じ込んでいるわけで、ヴァーホーヴェンはそんな彼女を決して否定しない。もともと聖人とはそういうものなのかもしれないし、そんな聖者が人々を救ったこともあるのだろう。バルトロメアを含め、すべての宗教者が彼女を信じていないのに(宗教者なのに、あまりにも世俗的な人々)、彼女と、そして彼女を支持する民衆は、それを信じているのである。
肉体を傷つける痛みの表現も「ロボコップ」などに見られたヴァーホーヴェンの特徴の1つで、ヴァーホーヴェン・ファンには納得のテーマと表現の映画だった。