キネマ旬報の最新号を見たが、いろいろ疑問に思うことがあった。
スピルバーグの「フェイブルマンズ」をやたら高く評価している文章は、ラストのジョン・フォードのエピソードの意味を理解してないように感じるし、この映画は父と母を悪く描きたくないというスピルバーグの気持ちからか、人間描写などがこれまでの彼の傑作群に比べて浅い。映画としても前年の「ウエスト・サイド・ストーリー」より劣る。スピルバーグが監督賞候補になったこと自体が疑問だし、これで取ってほしくなかったから「エブエブ」でよかった。
「生きる LIVING」についても、イギリスで「紳士になる」ということの意味が理解されていない気がする。
確かにこれは、私のように19世紀のイギリス文学文化をやってないとわからないのだろうし、かつてのキネ旬ではそういう解説が私に求められていたが、今は全然需要がない。私よりも詳しい人が他の媒体で書いているだろうから、それでいいのかもしれないが。
イギリスというか、イングランドで「紳士になる」ということがどういう意味かは、チャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」を読むとよくわかる。イギリスには貴族、紳士、労働者という3つの階級があり、「大いなる遺産」は労働者階級の青年が紳士階級をめざす話。
「生きる LIVING」の主人公ウィリアムズは、母がスコットランド出身ということはわかるが、父のことは出てこない。おそらくイングランドの労働者階級だったのだろう。19世紀末の生まれと思われるウィリアムズは、たぶん、父は工員などのブルーカラーで、紳士になりたいと思ったということは、ホワイトカラーになりたいと思ったということだ。
彼の勤める役所では、一番偉い人は貴族で、同僚は男性は紳士階級のようである。レストランの副店長になるといって転職したが、ウェイトレスをしている若い女性は労働者階級のようだ。
ウィリアムズが紳士になりたいと思って紳士になったことについて、ノブレス・オブリージュを持ち出している人がいるのだが、ノブレス・オブリージュは貴族の理想であって、紳士階級にはあてはまらない。ただ、上の階級である紳士になれたウィリアムズは、ブルーカラーにはできないことをやって世の中の役に立とうという志はあっただろう。しかし、早くに妻を失い、役所の中で埋もれていくうちに志を失い、死人のようになってしまったのだろう。
ウィリアムズの歌うスコットランド民謡には妻への思いがこめられている、というのはまったく同感だ。母の故郷であるスコットランドの歌だが、この歌は母と妻の両方への思いがこめられた歌だろう。彼にとって、愛する女性は母と妻の2人だけだったに違いない。
ウィリアムズが山高帽を盗まれてソフト帽をかぶるのは非常に重要なエピソードだ。
山高帽はイギリス発祥の帽子で、英語ではボーラーハットという。ウィキペディアによれば、1850年に貴族のために作られた帽子だが、上流階級(貴族)がかぶるシルクハットと労働者階級がかぶるソフト帽の中間、つまり、紳士階級のかぶる帽子になったのである。
だから、通勤する役人たちが山高帽をかぶっているのは、彼らが紳士階級であることを表している。
ウィリアム自身、山高帽にステッキというイギリス紳士の典型的な姿。
それがボーンマスで出会った作家のすすめで労働者階級のかぶるソフト帽をかぶる。
子どもの遊び場を作ってほしいと陳情に来た女性たちは、映画ではレイディーズ(レイディは本来は貴族の女性)と呼ばれるが、彼女たちはアパートに住む労働者階級だ。
ブルーカラーからホワイトカラーになり、紳士になったウィリアムズだが、労働者階級のソフト帽をかぶり、労働者階級の若い女性と話をすることで、かつて自分が所属していた階級の人たちのために立ち上がる決心をする。
そうだ、これこそが、黒澤の「生きる」と違うところであり、日系人という、イングランドの紳士階級に所属しなかったイシグロ(今はナイトの称号を持つ貴族だが)だから描けたことなのだ。
前の記事でこの映画を低く評価したけれど、この一点で、イシグロのアカデミー賞ノミネートは納得できた。
追記 かつて自分が所属していた階級の人たちのために立ち上がるって、「七人の侍」の三船敏郎だ!