「君の名は。」に先立つ新海誠のアニメ「言の葉の庭」をDVDで見た。
「君の名は。」にはまっているけれど、新海監督の他のアニメはまったく見てなかった。
いろいろ気になってはいたのだが、特にこの「言の葉の庭」と「秒速5センチメートル」が気になっていて、アマゾンで注文。「秒速~」は海外の輸入盤を注文したら、どうやらパソコンでしか再生できないようだ。
とりあえず、「言の葉の庭」を見る。
「君の名は。」の習作のような中編で、いろいろかぶるところがある。
絵がとにかく美しい。
が、「君の名は。」に比べるとマニア向けの絵や内容で、これを一般に受けるようにしたのが「君の名は。」なのだということが非常によくわかる。
たとえば主人公たちに嫌味を言う人物というのは両方に登場するのだが、「言の葉の庭」の方が徹底的にいやなやつなのに対し、「君の名は。」ではいやみを言う生徒に対して「かわいそう」といった反論をする生徒がいるのだ。
キャラデザも一般受けするようになっているのが「君の名は。」。
と、いろいろ面白く、考えさせられるところも多い作品だったが、疑問に思うところもあった。
主人公は15歳の高校生。6月の雨の日、学校に行きたくなくて新宿御苑らしき公園へ行く。
そこで27歳の女性に出会い、靴職人になりたいことなどを話して親しくなる。
女性は職場でいじめにあい、心を病んで休職中のようだ。
で、(ここからネタバレ)、実は女性は少年が通う高校の古文の教師で、生徒からいじめにあって休職中だったことがわかる。
映画では、教師は少年が自分の学校の生徒であることは知っていたが、少年は知らなかった、ということになっている。
うーん、少年は15歳なので、高校の1年生、で、6月に古文の教師に庭園で会ったとしても、彼女の授業に出ていなければ彼女を知らなくても不思議ではないような気がする。
一方、教師の方も、自分の教え子でなければ、高校に入ったばかりの彼を知らなくてもそれは当然ではないのか。
教師がいじめで休職状態というのは他の生徒にはよく知られていたらしい。彼女は人気教師でもあったようだ。
でも、高校に入ってまだ3か月程度の少年がこのことを知らなくてもそんなにおかしくない気がするし、教師の方も少年を知らなくてもおかしくない。
クライマックスは、教師が少年を知っていたのに彼を利用して自分が救われようとしたと、少年が教師を責めるのだが、ここがちょっとあざといかな、と思ってしまう。
なんか全体に、「聲の形」を連想する作品だった。
少年の母親とか、女性教師とか、「聲の形」に出てきた女性キャラに似ている。
あざとい、と書いたけれど、全体的には非常によい作品で、2人の微妙な関係も心に響く。15歳ではなく16歳なら、この設定でももっと納得がいくと思うのだが。
女性教師ユキノは「君の名は。」のユキちゃん先生として再登場する。が、ユキちゃん先生にはユキノのような陰影がない。
2017年6月7日水曜日
2017年6月5日月曜日
梅雨入り間近?
天気予報を見ると、あさってあたりから梅雨入りしそうな気配。
紫陽花が咲いています@谷中。
前にもアップした近所の公園のポピー。もう花はだいぶ終わりに近い。
ソバの花にとまる2羽の蝶。
夏の訪れを告げるトンボ。
アオサギが2羽、飛んでいく。鳥はめっきり少なくなった。
紫陽花が咲いています@谷中。
前にもアップした近所の公園のポピー。もう花はだいぶ終わりに近い。
ソバの花にとまる2羽の蝶。
夏の訪れを告げるトンボ。
アオサギが2羽、飛んでいく。鳥はめっきり少なくなった。
2017年5月31日水曜日
「君の名は。」17回目
3月から「君の名は。」ばかり見に行っていて、他の映画がおろそかになっているが、5月中旬のあと、しばらく見に行っていなかった。
が、池袋シネマ・ロサがまだ上映していて、今週は夕方4時台なので、行ってみた。
平日の夕方4時台にしては入っている。
若者からシニアまでいろいろな客層。
この前行ったときと同じ最前列の席にしたのだけど、2列目の斜め後ろにシニアっぽい人がいた。
前に行ったときも斜め後ろに同じような年恰好の人がいたのだけど。
けっこうシニアのリピーターがいそうな感じは以前からしていた。
さて、この映画、実は非常に細かく緻密に論理的に構成されていて、いろいろなモチーフを指摘しても、結局、それは新海誠の意図を説明することにしかならないと気づいた。
新海が意識的には考えていなかったが、無意識的に実現した芸術的な要素を批評家が見つけるというのが非常にむずかしい映画なのだ。
観客は感性で理解し、感動するが、映画自体は新海の緻密な論理で出来上がっている。だから、何を指摘してもそれは新海の意図でしかない。
ある意味、批評の無力を感じさせる映画だ。
で、作者のつまらない意図なんかどうでもいい、と、気鋭の研究者が書いた論考が書き手の願望でしかないトンデモだったりしたわけだけど(これについての批判記事に最近、突然、80近いアクセスが)、この映画は本当に新海が隅々まで支配している映画だなあと痛感した。
批評家だの研究者だのが勝手に自分の願望全開したって、エビデンスが何もない。エビデンスで批評すれば、新海の意図を代弁するだけ。
でも、この映画のすごいところは、そういう緻密な論理ではなく、感性で観客を感動させたこと。
いろいろと深い作品だとあらためて思う。
さて、せっかく池袋に行くんだから、昔よく服を買った東口の地下街のショッピングセンターに行きたい、と思ったら、場所がわからなくなっていた。
食品売り場の北側にあることがわかり、行ってみたけれど、昔とはだいぶ違っていた。
池袋はとにかく人がトロイのでせっかちな私はイライラするばかり。
自動改札をスイカだかパスモだかで出る客もトロイんでもう、イライラ。
うーん、昔は池袋、好きだった時期もあったんだけどな。
キンカ堂と、サンシャインのあたりが好きだっただけなんだろう。
が、池袋シネマ・ロサがまだ上映していて、今週は夕方4時台なので、行ってみた。
平日の夕方4時台にしては入っている。
若者からシニアまでいろいろな客層。
この前行ったときと同じ最前列の席にしたのだけど、2列目の斜め後ろにシニアっぽい人がいた。
前に行ったときも斜め後ろに同じような年恰好の人がいたのだけど。
けっこうシニアのリピーターがいそうな感じは以前からしていた。
さて、この映画、実は非常に細かく緻密に論理的に構成されていて、いろいろなモチーフを指摘しても、結局、それは新海誠の意図を説明することにしかならないと気づいた。
新海が意識的には考えていなかったが、無意識的に実現した芸術的な要素を批評家が見つけるというのが非常にむずかしい映画なのだ。
観客は感性で理解し、感動するが、映画自体は新海の緻密な論理で出来上がっている。だから、何を指摘してもそれは新海の意図でしかない。
ある意味、批評の無力を感じさせる映画だ。
で、作者のつまらない意図なんかどうでもいい、と、気鋭の研究者が書いた論考が書き手の願望でしかないトンデモだったりしたわけだけど(これについての批判記事に最近、突然、80近いアクセスが)、この映画は本当に新海が隅々まで支配している映画だなあと痛感した。
批評家だの研究者だのが勝手に自分の願望全開したって、エビデンスが何もない。エビデンスで批評すれば、新海の意図を代弁するだけ。
でも、この映画のすごいところは、そういう緻密な論理ではなく、感性で観客を感動させたこと。
いろいろと深い作品だとあらためて思う。
さて、せっかく池袋に行くんだから、昔よく服を買った東口の地下街のショッピングセンターに行きたい、と思ったら、場所がわからなくなっていた。
食品売り場の北側にあることがわかり、行ってみたけれど、昔とはだいぶ違っていた。
池袋はとにかく人がトロイのでせっかちな私はイライラするばかり。
自動改札をスイカだかパスモだかで出る客もトロイんでもう、イライラ。
うーん、昔は池袋、好きだった時期もあったんだけどな。
キンカ堂と、サンシャインのあたりが好きだっただけなんだろう。
2017年5月29日月曜日
ポピー
しばらく行っていなかった近所の公園へ行くと、ポピーが花盛り。
今月は携帯(ガラケー)とタブレットの2年縛りが終わる月で、両方コース変更すれば月に4千円くらい節約になるかな、と思っていたのだが、調べてみると、安いコースに替えても2千円くらいしか安くならず、その分使いづらくなりそうなので変更しないことにした。
ショップも徒歩圏内にないというか、隣の駅の近くで、自宅から歩くと20分前後かかる場所。
うーん、都心にいたときはショップが至るところにあったのにな。
今月は携帯(ガラケー)とタブレットの2年縛りが終わる月で、両方コース変更すれば月に4千円くらい節約になるかな、と思っていたのだが、調べてみると、安いコースに替えても2千円くらいしか安くならず、その分使いづらくなりそうなので変更しないことにした。
ショップも徒歩圏内にないというか、隣の駅の近くで、自宅から歩くと20分前後かかる場所。
うーん、都心にいたときはショップが至るところにあったのにな。
2017年5月24日水曜日
「メッセージ」(ネタバレあり)
テッド・チャンの原作短編を長編映画にするならきっと大幅な改変や付け足しがあるだろうと思っていたが、意外に原作どおりの感触。
宇宙人を中心とするメインの部分はやはり大幅に変えられていて、原作だとルッキング・グラス(スルー・ザ・ルッキング・グラス=鏡の国のアリスを連想)を通して宇宙人とコミュニケーションをはかるのだけど、結局、意思疎通できないまま宇宙人はいなくなってしまう、というところを、宇宙人と人間がだんだんコミュニケートできるようになるが、ある言葉のせいで世界各国が宇宙人を攻撃しようとする、という内容に変わっている。
意外に原作どおりと思ったのは、主人公の言語学者ルイーズが宇宙人と言葉のやりとりをしているうちに自分の未来を見るようになるところ。
ここが原作の重要なせりふがしっかり入っていて、なかなかに感動的。
大幅に変えた宇宙人のところは既視感があるし、宇宙人に攻撃的になる人間とか国とかの描写がちょっと乱暴というか、描写不足なので唐突な感もある。ただ、そこで未来が見えるルイーズの存在をうまく組み合わせたところはうまい。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は最初に見た「灼熱の魂」が非常によかったのだが、その一方で、話の展開にある種のあざとさを感じ、それが原因で手放しの絶賛はできなかった。
そのあと、「プリズナーズ」を見たら、こちらはあざとさ全開で、やっぱりこの人はあざとさの人なのか、とがっかりしたのが正直なところ。昨年の「ボーダーライン」は「プリズナーズ」よりはだいぶよかったが、それでもこの人のあざとい感じがどうしても気になった。
しかし、今回はそのあざとさをまったく感じなかったのである。
たぶん、脚本のせいなのだろう。
「灼熱の魂」は舞台劇の映画化だから、展開のあざとさは原作のものなのだ。
そして、その後の2作も、あざとさは脚本由来にちがいない。特に「プリズナーズ」はまったくそうだと言える。
これまでに見た3本の映画はどれもストーリー自体にあざとさが入り込んでしまうものだったが、あざとさはヴィルヌーヴ本来のものではなかったのだろう。
そういうところが気にならなかったので(「灼熱の魂」は最後のところがちょっと気になっただけなので、全体としてはあまり気にならなかったが)、今回はヴィルヌーヴの映像感覚や演出を素直に見ることができた。横の線を強調した冒頭とラストの部屋の描写とかすごい。
その冒頭とラストに流れる音楽が「シャッター・アイランド」でも使われた既成曲で、夫と妻と娘にやがて起こる悲劇という共通点があるので、どうしても「シャッター・アイランド」を連想してしまう。
タイムパラドックスと男女のラブストーリーという点では、「君の名は。」を少し連想するところがある。
男女のラブストーリーをもっと前面に出す方法もあっただろうし、その方が受けたかもしれないが、この映画ではラブストーリーはひたすら抑制され、表に出さないようにされていて、最後になってルイーズの未来に向かうラブストーリーであることがわかるようになっている。
未来を見たルイーズは愛も、愛の結晶も永遠にではないことを知っているが、それでもその愛を生きることにする。
一方、宇宙人を攻撃することに決めた中国の将軍をルイーズが説得するシーンはある種のタイムパラドックスで、観客は流れで納得させられてしまうが(この辺もうまい)、この説得シーンも三葉の町長説得をなんとなく連想させるものだ。もちろん、偶然だろうけど。
ヴィルヌーヴの次作「ブレードランナー」続編の予告編をやっていたが、この人は脚本しだいなところがあるかもしれない。「ブレードランナー」はデイヴィッド・ピープルズの脚本が優れていたが、リドリー・スコットは脚本の気に入らないところをディレクターズカットでカットしたりしている。私はやはりピープルズの脚本の方がよいと思っているのだが、今度はどんな脚本で、ヴィルヌーヴはどう料理するのだろうか。
宇宙人を中心とするメインの部分はやはり大幅に変えられていて、原作だとルッキング・グラス(スルー・ザ・ルッキング・グラス=鏡の国のアリスを連想)を通して宇宙人とコミュニケーションをはかるのだけど、結局、意思疎通できないまま宇宙人はいなくなってしまう、というところを、宇宙人と人間がだんだんコミュニケートできるようになるが、ある言葉のせいで世界各国が宇宙人を攻撃しようとする、という内容に変わっている。
意外に原作どおりと思ったのは、主人公の言語学者ルイーズが宇宙人と言葉のやりとりをしているうちに自分の未来を見るようになるところ。
ここが原作の重要なせりふがしっかり入っていて、なかなかに感動的。
大幅に変えた宇宙人のところは既視感があるし、宇宙人に攻撃的になる人間とか国とかの描写がちょっと乱暴というか、描写不足なので唐突な感もある。ただ、そこで未来が見えるルイーズの存在をうまく組み合わせたところはうまい。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は最初に見た「灼熱の魂」が非常によかったのだが、その一方で、話の展開にある種のあざとさを感じ、それが原因で手放しの絶賛はできなかった。
そのあと、「プリズナーズ」を見たら、こちらはあざとさ全開で、やっぱりこの人はあざとさの人なのか、とがっかりしたのが正直なところ。昨年の「ボーダーライン」は「プリズナーズ」よりはだいぶよかったが、それでもこの人のあざとい感じがどうしても気になった。
しかし、今回はそのあざとさをまったく感じなかったのである。
たぶん、脚本のせいなのだろう。
「灼熱の魂」は舞台劇の映画化だから、展開のあざとさは原作のものなのだ。
そして、その後の2作も、あざとさは脚本由来にちがいない。特に「プリズナーズ」はまったくそうだと言える。
これまでに見た3本の映画はどれもストーリー自体にあざとさが入り込んでしまうものだったが、あざとさはヴィルヌーヴ本来のものではなかったのだろう。
そういうところが気にならなかったので(「灼熱の魂」は最後のところがちょっと気になっただけなので、全体としてはあまり気にならなかったが)、今回はヴィルヌーヴの映像感覚や演出を素直に見ることができた。横の線を強調した冒頭とラストの部屋の描写とかすごい。
その冒頭とラストに流れる音楽が「シャッター・アイランド」でも使われた既成曲で、夫と妻と娘にやがて起こる悲劇という共通点があるので、どうしても「シャッター・アイランド」を連想してしまう。
タイムパラドックスと男女のラブストーリーという点では、「君の名は。」を少し連想するところがある。
男女のラブストーリーをもっと前面に出す方法もあっただろうし、その方が受けたかもしれないが、この映画ではラブストーリーはひたすら抑制され、表に出さないようにされていて、最後になってルイーズの未来に向かうラブストーリーであることがわかるようになっている。
未来を見たルイーズは愛も、愛の結晶も永遠にではないことを知っているが、それでもその愛を生きることにする。
一方、宇宙人を攻撃することに決めた中国の将軍をルイーズが説得するシーンはある種のタイムパラドックスで、観客は流れで納得させられてしまうが(この辺もうまい)、この説得シーンも三葉の町長説得をなんとなく連想させるものだ。もちろん、偶然だろうけど。
ヴィルヌーヴの次作「ブレードランナー」続編の予告編をやっていたが、この人は脚本しだいなところがあるかもしれない。「ブレードランナー」はデイヴィッド・ピープルズの脚本が優れていたが、リドリー・スコットは脚本の気に入らないところをディレクターズカットでカットしたりしている。私はやはりピープルズの脚本の方がよいと思っているのだが、今度はどんな脚本で、ヴィルヌーヴはどう料理するのだろうか。
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