テッド・チャンの原作短編を長編映画にするならきっと大幅な改変や付け足しがあるだろうと思っていたが、意外に原作どおりの感触。
宇宙人を中心とするメインの部分はやはり大幅に変えられていて、原作だとルッキング・グラス(スルー・ザ・ルッキング・グラス=鏡の国のアリスを連想)を通して宇宙人とコミュニケーションをはかるのだけど、結局、意思疎通できないまま宇宙人はいなくなってしまう、というところを、宇宙人と人間がだんだんコミュニケートできるようになるが、ある言葉のせいで世界各国が宇宙人を攻撃しようとする、という内容に変わっている。
意外に原作どおりと思ったのは、主人公の言語学者ルイーズが宇宙人と言葉のやりとりをしているうちに自分の未来を見るようになるところ。
ここが原作の重要なせりふがしっかり入っていて、なかなかに感動的。
大幅に変えた宇宙人のところは既視感があるし、宇宙人に攻撃的になる人間とか国とかの描写がちょっと乱暴というか、描写不足なので唐突な感もある。ただ、そこで未来が見えるルイーズの存在をうまく組み合わせたところはうまい。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は最初に見た「灼熱の魂」が非常によかったのだが、その一方で、話の展開にある種のあざとさを感じ、それが原因で手放しの絶賛はできなかった。
そのあと、「プリズナーズ」を見たら、こちらはあざとさ全開で、やっぱりこの人はあざとさの人なのか、とがっかりしたのが正直なところ。昨年の「ボーダーライン」は「プリズナーズ」よりはだいぶよかったが、それでもこの人のあざとい感じがどうしても気になった。
しかし、今回はそのあざとさをまったく感じなかったのである。
たぶん、脚本のせいなのだろう。
「灼熱の魂」は舞台劇の映画化だから、展開のあざとさは原作のものなのだ。
そして、その後の2作も、あざとさは脚本由来にちがいない。特に「プリズナーズ」はまったくそうだと言える。
これまでに見た3本の映画はどれもストーリー自体にあざとさが入り込んでしまうものだったが、あざとさはヴィルヌーヴ本来のものではなかったのだろう。
そういうところが気にならなかったので(「灼熱の魂」は最後のところがちょっと気になっただけなので、全体としてはあまり気にならなかったが)、今回はヴィルヌーヴの映像感覚や演出を素直に見ることができた。横の線を強調した冒頭とラストの部屋の描写とかすごい。
その冒頭とラストに流れる音楽が「シャッター・アイランド」でも使われた既成曲で、夫と妻と娘にやがて起こる悲劇という共通点があるので、どうしても「シャッター・アイランド」を連想してしまう。
タイムパラドックスと男女のラブストーリーという点では、「君の名は。」を少し連想するところがある。
男女のラブストーリーをもっと前面に出す方法もあっただろうし、その方が受けたかもしれないが、この映画ではラブストーリーはひたすら抑制され、表に出さないようにされていて、最後になってルイーズの未来に向かうラブストーリーであることがわかるようになっている。
未来を見たルイーズは愛も、愛の結晶も永遠にではないことを知っているが、それでもその愛を生きることにする。
一方、宇宙人を攻撃することに決めた中国の将軍をルイーズが説得するシーンはある種のタイムパラドックスで、観客は流れで納得させられてしまうが(この辺もうまい)、この説得シーンも三葉の町長説得をなんとなく連想させるものだ。もちろん、偶然だろうけど。
ヴィルヌーヴの次作「ブレードランナー」続編の予告編をやっていたが、この人は脚本しだいなところがあるかもしれない。「ブレードランナー」はデイヴィッド・ピープルズの脚本が優れていたが、リドリー・スコットは脚本の気に入らないところをディレクターズカットでカットしたりしている。私はやはりピープルズの脚本の方がよいと思っているのだが、今度はどんな脚本で、ヴィルヌーヴはどう料理するのだろうか。