2021年3月16日火曜日

白鳥は去りぬ

 1月末に近くの公園に現れた2羽の白鳥、今月6日に見たあと、9日に行くと姿が見えず。大きなカメラを持った人もいないので、白鳥はいなくなったのかと思ったが、白鳥がよく見える場所には数人の人がいて、出てこないかと待っている様子。しかし、閉園時間まで一度も姿を見せず。

そして14日に行くと、もう白鳥が見えた場所には誰もいなかった。

いつかは去っていくことはわかっていても、やはり寂しい。1か月余りの間、写真を撮りに通っていたので。

最後に見た6日に、最後に撮ったのは動画。その動画の最後に近い部分を画像に。


手前の黒いものは目の前にある木の枝。池のほとりに立って、木々の間から撮影。すぐ左が丘になっていて、池のその先が見えない(コロナでなければ野鳥観察舎の窓から見えるのだが)。白鳥はその見えないところへ泳いでいった。

来冬もまた来てくれるといいな。

2021年3月12日金曜日

宇部市の国民宿舎

「シン・エヴァンゲリオン」のラストに宇部新川駅が出てきて、宇部線に乗ったことがあるのですぐにどこだかわかり、いろいろなつかしくなって思い出したり調べたりしていた。

山口県を旅したのはたぶん、1974年の夏だったと思う。

あこがれの尾道(広島県)に行きたいと思い、まずそこを訪れたあと、翌日は山口線で津和野(島根県)へ行く予定だったので、宇部市(山口県)の国民宿舎に泊まった。国民宿舎は民間のホテルや旅館に比べて非常に安かったのだ。ただし、食事はとても粗食。それでもたいていは夏休みは予約はとれないのだが、この宇部市の国民宿舎はすいていて、予約ができた。

なんという名前か忘れていたのだが、ウィキペディアで国民宿舎を調べたら、常盤荘だとわかる。宇部線の常盤駅から1㎞ほどのところにあったが、その後、取り壊され、現在は駐車場になっているらしい。

山陽本線の小郡駅(現・新山口駅)で宇部線に乗り換えて、常盤駅で降りて、そこから歩いたのを覚えている。わりと近くまで来たところで道がわからなくなり、農家の家と思われる家の門から、広い庭の先の方で散水していたおじさんにたずねると、わざわざ仕事をやめて、門のところまできて、道を教えてくれたのだ。

首都圏で生まれ育った私には、なんだかものすごく親切にしてもらえた感じがして、すごく感激した。

家とかまばらにしか建っていないような場所だったので、教えてもらえてほっとした。

常盤荘もとても親しみやすい感じで、気に入ったのだけど、窓に鍵がないのには驚いた。

常盤荘のすぐそばには湖がある、ということは地図で見て知っていたが、宿舎からは湖は見えなかった。翌朝、宿を出発したとき、木々の間から湖が見えた。今度また来たら、湖を見たい、と思ってから半世紀近くがたってしまったのだなあ。

当時は湖があるだけだったと思うが、今はときわ公園として整備され、遊園地や動物園もあるようだ。

ときわ公園のサイトにあった地図です。

右側の駐車場のあたりに常盤荘があったらしい。

常盤荘について調べても、ほとんど何も出てこない。1960年代にできたことと、その後取り壊されて駐車場になったことくらい。写真も見つからないし、利用した人の話も出てこない。

常盤荘で一泊したあと、再び宇部線で小郡駅に戻り、そこから山口線で津和野へ行った。宇部新川駅は小郡方面とは逆方向なので、通っていない。でも、あのあたりでは一番大きな駅のようなので、地図には大きく出ていたから、名前を憶えていたのだ。

小郡という地名を見たのも本当に久しぶりだったが、すぐに「おごおり」と読めたのは、やはり若い頃に知った名前だからだろう。

20世紀末に小郡駅が新山口駅に改名するという話が持ち上がったとき、駅は小郡町にあるので小郡町が改名に反対、しかし、21世紀になると山口市と合併することになり、駅名も新山口駅になったと、ウィキペディアで読んだ。

山口線で津和野へ行ったあと、山陰本線で再び山口県に入り、萩へ行き、長門市の国民宿舎に泊まった。山口線はSLだったかもしれない。観光用じゃなくてSLが平常運転だったような(記憶あいまい)。

長門市の国民宿舎はウィキペディアで調べると2軒あったようだ(どちらも廃業)。たぶん、長門荘という名前の方だったと思う。ここは萩が近いので観光客が多く、あまり落ち着けず、よい印象がないというか、ほとんど何も覚えていない。ここに比べて宇部市の常盤荘がますます好印象になって記憶に残ったのだろう。

翌日は日本海の島の遊覧船に乗ったりしたあと、山陰本線で下関へ行った。子供の頃からあこがれていた秋吉台と秋芳洞へは、下関からバスで行った。津和野や萩もよかったけれど、ここの鍾乳洞や、石灰岩が墓石のように並ぶ丘の風景はすばらしかった。

下関では奮発してシティホテルに泊まったが、窓から見える関門海峡の夜景がみごとで、ずっと眺めていたのを思い出す。

当時は飛行機や新幹線は高くて、夜行の寝台車をよく利用していた。寝台車の方が安かったのだ。このときも、行きと帰りは夜行列車だったと思う。東京・大阪間を結ぶ銀河という寝台急行がとても安くて、夏休みでもわりと予約がとれたので、よく利用していた。寝台特急のブルートレインは夏休みは予約は無理だったが、それ以外の時期はわりと大丈夫だったので、3月上旬にそれで九州旅行に行ったりしていた。

映画のおかげで思いがけず、なつかしい思い出がよみがえった。

2021年3月11日木曜日

「シン・エヴァンゲリオン」(ネタバレ大有り)

もう少しあとに行こうと思っていたのだけれど、このところがっかりすることが次々と起こり、気が滅入っていたので、気分転換に映画館へ行くことにした。

ちょうどTOHOシネマズが無料回なので、久々、ららぽーと船橋の大きなスクリーンで見ることにした。


実は「エヴァンゲリオン」は少年少女が巨大ロボットに乗って戦うらしい、ということしか知らなかった。でも、「エンド・ゲーム」も「鬼滅の刃」も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も予備知識ほとんどなく見に行って楽しめたし感動もしたので、大丈夫だろうと考えていた。

しかし、上の3作は初心者がとりあえず知っていた方がいい最低限の設定や人物を簡単にまとめたサイトがあったので、それでよかったのだが、「エヴァンゲリオン」はそれがない。

初心者が簡単に学べるサイトがない。あるのはネタバレありの詳しい解説ばかり。ちらちらっと読んでみたけどマニアックで、初心者向けではない。

でもまあ、予約しちゃったので、とにかく行きました。

主人公シンジが父親に言われてエヴァンゲリオンに乗ってがんばったけど、彼が原因で災厄が起こり、シンジは周囲の人間も社会もすべて拒否している、ということだけはわかった。

それ以外の細かいことはやっぱり初心者ではわからないのですが、気になったのは、新海誠のアニメとかぶるモチーフがやたら目についたこと。

悪役であるシンジの父親がなぜこういうことをしているのかというと、というところがまんま「星を追う子ども」。この映画と、「雲のむこう、約束の場所」とかぶるモチーフやシーンが気になる。でも、このあたりは、新海誠が庵野秀明をまねた可能性もあるな、と思っていると、まんま「君の名は。」みたいなのが出てくる。

空をつかもうとする手、引き戸を閉めるシーン、そして、クライマックスのシンジと父親の対決シーンに描かれる父の身の上話、さらにはサラリーマンになった瀧みたいに見えるシンジが外の世界へと駆けていくラスト。

瀧の声を演じた神木隆之介が声の出演をしているので、これは意図的なのか。

父の身の上話のところは「君の名は。」の妻の死がきっかけで家を出てしまう三葉の父のエピソードみたいで、ただ、父親の描写は「シン・エヴァ」の方が深い。三葉の父は妻の死で神主を続ける気がなくなり、家を出て政治家になるのだが、この父親の描写はわりと浅い。それに対し、シンジの父は子どもの頃から一人でいるのが好きだったけれど、妻となる女性と知り合って人生が変わるが、妻を失うことで初めて孤独を知り、そこから悪い方へ行ってしまう。知識を与えてくれる本と、思い通りに音が出るピアノを愛した、とか、いろいろ深い人物描写なのだ。

死んでしまった妻=主人公の母がキーポイントなのも「君の名は。」と似ているけれど、この母親に関するシークエンスの描写も「シン・エヴァ」の方が映像的に迫力があり、深いものを感じる。

ラスト、シンジが愛し合っていたアスカではなくマリと一緒になる、ということについて、ネットで賛否両論があったので、これは見る前から知っていた。ネットでは、シンジとマリが結婚すると言われていたが、実際に見てみると、私は少し違う考えを持った。

マリは「イスカリオテのマリア」と呼ばれていて、これは「イスカリオテのユダ」から来ているのだが、これについて調べたところ、マリはシンジの両親の同級生なんだそうだ。そして、マリはシンジの父を裏切ったので、「イスカリオテのマリア」なのだと。

で、シンジの母が聖母マリアで、シンジが神の子=キリストで、マリはマグダラのマリアだから、シンジはマリと結婚する、ということになるらしい。

私はむしろ、マリは聖母マリアのような存在で、シンジを子宮のような世界から外の世界へ出す役割を担っていたのではないかと思った。なので、ネットの記事で、マリがシンジの両親の同級生、つまり、親の世代だとわかって、やはりそうか、と思ったのだ。

あるいは、マリは2人のマリアの両面を持っているのかもしれない。

というわけで、いろいろと興味深い映画で楽しめた。

思えば、庵野秀明の「シン・ゴジラ」と新海誠の「君の名は。」はどちらも東日本大震災がきっかけでできた作品だったが、その10年後の3月11日に「シン・エヴァンゲリオン」を見に行ったのも何かの縁かもしれない。

追記

子宮のような世界=エデンの園から外に出す、ということなら、シンジはアダム、マリは蛇に化けたサタンということになる。あるいは、サタンにだまされて知恵の木の実を食べたイヴ(エヴァ)だろうか。イヴならばアダムの妻だけれど、イヴがアダムを連れ出すわけではない。(エデンの園は安全な理想郷なので、あの世界とは違うけれど、閉じた世界という点で子宮のような場所と感じた。また、マリを「胸の大きな女の子」と言っているのが、マリを母親的な女性と感じた理由でもある。)

ラスト、実写で撮られたのは山口県宇部新川駅付近で、工業地帯と瀬戸内海が広がっている。エデンの東の荒涼とした土地とはまた違うイメージ。なぜここかというと、庵野秀明の故郷だからだそうだ。

宇部市は大昔、学生時代に旅行で行って、一泊しました。地元の人がとても親切で、よい思い出になっています。

2021年3月6日土曜日

「寄り添う」と「媚びる」どっちもうっせえわ

 昨日は気になるトピックが2つあった。

1つは文科省が緊急事態宣言延長に先立って大学に出した通知に、「大学は学生に寄り添え」と書いてあって、大学教員や職員の一部が反発するツイートを書いていたこと。

「大学は学生に寄り添っていないというのか」「文科省こそ大学に寄り添え」とか言われてますが、要するに、コロナでの対策を十分に行う予算も何もない大学に対し、金も出さずに、対面授業して学生に寄り添えと言う文科省への反発。

でもまあ、大学関係者ってみんなお上品なので、「うっせえわ」くらい強いこと言えばいいのに、言い方はおだやか。

しっかし、私から見ると、「寄り添う」ってものすごく気持ち悪い。なんか、世間では好意的にとらえられている言葉のようですが、私の感じる「寄り添う」ってこんな絵かな。


小学生くらいまでならいいと思うんですが、中学以上になったら、こういうの、うっせえわ、と思いません?

ある程度成長したら必要なソーシャル・ディスタンスがない。

昔はべたべたする大人はうっせえわと若者は感じたと思うのだが、最近はそうでもないというのは実感でわかる。

で、もう1つは、現代ビジネスという講談社のサイトに出たこの記事ですよ。

「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

著者の鮎川ぱてという人、どういう人なのか調べたけど、よくわからない。ググってもあまり出てこない。肩書は音楽評論家で、5年前から東大の教養課程で非常勤講師をしていて、東大の研究員にもなっている。大学は東大理1に入ったというから、理学部か教養学部を出て駒場の大学院へ進学したのかもしれない、というのはあくまで推測だけど、この駒場の大学院からマスコミに進出する人がけっこういて、例の古市氏とかそう。

この鮎川氏は10年くらい前に「ユリイカ」に記事を書いたというのがググると出てくるので、年齢的にはもう40歳くらいかもしれない。初音ミクのようなボーカロイドを研究しているらしいが、こっち方面は全然わからないので何も言えない。

東大での授業は人気授業らしく、本人は書籍化をもくろんでいるようなので、現代ビジネスで毎回多数のPVを稼げれば、講談社で書籍化も可能?

今回は話題の歌「うっせえな」を取り上げて、PVはかなり稼いでいそう。

で、記事の内容なんですが、感想は「別に」。

頭にくることもなかったし、感心することもなかったです。本田由紀・東大教授が「意外性はなかった」と切り捨ててますが、20代の院生が書いたのならもっと好意的に紹介したような気がする。おっさんが若者に「寄り添って」書いた文だからね、あれは。

他の感想も「面白かった」というのと、「この文自体がうっせえわ」というのに二分されてますね。昔の若者も感じていたことで、新しくない、という意見も多数。

面白かったのは、この記事のコメント欄の最初にある東大准教授の意見です。


「記事とは直接関係ないですが「日本の10代人口は約1100万人でセクシャルマイノリティと同じくらいのマイノリティである」という議論は興味深いですね.
通常はマジョリティがいてのマイノリティですが,ここでは年代区分である10代だけを取り出し,それ以外と比較しています.このロジックで行くと80代以上も1178万人なのでマイノリティという事になってしますし,各年代区分すべてがマイノリティと言えてしまいます.
さらに,東京都の人口は1350万人なので人口の10%強のマイノリティ,日本のTiktokユーザも7%程度なのでマイノリティ,佐藤さんなんて200万人くらいしかいないので超マイノリティです.
ここでの主張全体が正しいかどうかについては議論しませんが,同じくらいの人数だから「10代はセクシャルマイノリティと同程度のマイノリティ」といって良いかは慎重に考えるべきではないでしょうか.」(鳥海不二夫)


鮎川氏は東大の講義で若者はセクシャル・マイノリティと同じくらいの数だからマイノリティと言っているそうですが、マイノリティは数ではありません。こういう間違った前提で講義をしていることに危惧を覚えます。

若者はある種のマイノリティですが、それは数のためではありません。「うっせえわ」の曲は女が男に対して言っているんだ、という意見がありましたが、歌詞を見ると確かにそうですね。女なら、若くなくても自分のことと思える歌詞がある。

人類の半分は女性ですが、女性は数が多くてもある種のマイノリティです。それは若者がある種のマイノリティであるのと同じ意味で。

鮎川氏が記事で強調する大人世代と若者世代の断絶と、それに対する若者の「うっせえわ」の叫びは、団塊の世代が若者だったときに言っていた「30歳以上の大人を信じるな」というのと本質的には同じです。いつの時代にもあるものですが、ただ、時代によって状況が違うので、その差はある。

今の若者は本音を言わない、抗議しない、というのはそのとおりで、そこが昔の若者と違うところかもしれない(人によるとは思うけど)。

でも、結局、鮎川氏が何を言いたいのかというと、若者はマイノリティだということを強調することで若者の選民意識を鼓舞しているわけです。

これもまた、昔からあるやり方で、しかも対象は若者に限りません。もう、既視感バリバリなんだけど。

自分はまわりとは違うが、選ばれた人なんだ、という考えはいつの時代も若者に受けます。ファンタジーの世界ではchosen oneと言われて、「スター・ウォーズ」とかアーサー王伝説とか枚挙にいとまがない。

鮎川氏が記事でやっているのは、この若者の選民意識をおっさんである氏が若者に付与してあげているってことです。ここ、ちょっとつらくないですか、大人世代として。

若者はいいんです、選民意識で。だって、マイノリティだから、弱い立場だから、そう思わないと生きていけないから。

でもさ、おっさんがそれをああいう文章で若者に保証してあげるって、

うっせえわ!

「寄り添う」って、もしかして「媚びる」ってことですかね?

2021年3月5日金曜日

なつかしい表紙

 アマゾンでなんとなくいろいろサーチしていたら、なつかしい表紙の画像が。


アマゾンのページはこちら。

1987年の本なのでとっくに絶版ですが、キンドル版があるの?と思ってクリックしてみたら、画像の上の方にタイトルがある原書のキンドル版でした。試し読みもキンドル版の原書で、日本語版はありません。

作者のロバート・シルヴァーバーグは日本ではあまり人気のないSF作家だったので、ハヤカワ文庫や創元推理文庫で出ていたSF小説はすべて絶版。ノンフィクションが1冊だけ現役です。

上の本はヴァレンタインという人物を主人公としたシリーズ物の3作目で、原書ではこのあともシリーズは続いたのだけど、日本では売れずにこれで打ち止め。下巻は画像がありませんでしたが、下巻で解説を書かせてもらいました。

上下巻並べると表紙が1枚の絵になります。上巻の表紙の青年の顔が、当時はデイヴィッド・リンチの「砂の惑星」のカイル・マクラクランに似て見えたのですが、今見るとそうでもないか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴの「砂の惑星」再映画化が待機中ですが、予告編を見ると、リンチの方が華やかだった感じが。評判の悪かったリンチ版だけれど、私は最初から支持していて、好きだったし、やはり評判悪かった主役のカイル・マクラクランもカリスマがあってすばらしいと思っていました(当時のキネ旬に短評を書いています)。

マクラクランは最近、トム・ハーディ主演の「カポネ」で見ましたが、普通のおじさんになっていたなあ。