女性のせりふをやたらと「だわ」とか「わよ」とか訳すのはへたな翻訳なのだそうです。
あー、そーですか、私はへたな翻訳者なんですね、だから仕事がないんですね、わかりましたよ。
と怒っている……なんてこたーありません。私くらいの年になると、そういうことには達観してるものです。
1年くらい前、ある読書会で、20年以上前の翻訳ミステリーの読書会をしたとき、翻訳が「だわ」とか「わよ」とかが多いという批判が出ました。どうも、最近というか、最近じゃないのかもしれないけど、女性のせりふをこういうふうに強調した訳はだめな訳、というのが、文芸翻訳の世界では常識になっているみたいですね。
しかし、文芸翻訳の王道を歩いたことがなく、ひたすらわが道を行く私は、そんな「常識」になんぞ負けたくはありません! なので、私は、この翻訳は、女性ばかり大勢登場する作品を、こうした色をつけることで、人物を個性豊にしている、また、この作品は演劇の手法で描かれているから、演劇的な強調はむしろ効果的である、と主張しました。幸い、私の主張に賛同してくれる人がいて、その場では、これはやはり名訳であるという結論になりました(私が押し切った感はあるが)。
しかし、実際のところ、世間はやはり、現実の女性は「だわ」とか「わよ」とかあまり言わない、だから翻訳でもそういう表現は使うべきではない、という風潮のようです。実際、私がけんかしたある出版社では、私が男女の主人公が計8人も登場するロマンス小説を、1人1人違った口調で翻訳し、そのため、「だわ」や「わよ」はもちろん、俺とかぼくとかわたしとかあたしとか、1人1人を誇張した訳にしたのですが、その出版社は外部の編集者に全面リライトさせ、その結果、男は全員「俺」、女は全員「わたし」、口調も全部同じ、という、個性も何もない翻訳になっていました。当然、私はその翻訳の出版を拒否(別の人が新たに翻訳して出版)。以後、文芸翻訳の仕事は来ていません(もう9年前の話だ)。
その頃、故・山岡洋一氏が、最近の翻訳は男も女も同じような口調でしゃべると、文芸翻訳を批判していましたが、たぶん、それは、私が反発した翻訳の常識のことを言っていたんだろうと、勝手に思っていました。
その読書会では、私の言い方があまりにも強烈だったせいか、反論もなく、私の主張が一応、通ってしまったのですが、それでも、現在では、かつてのような、演劇的に人物を強調する訳し方が、今の読者には違和感を感じさせるということはわかりました。勝手にリライトして、8人の男女の区別をつかなくさせた出版社は、実は、今の読者にとってはいいことをしたのかもしれません。
その後、私が文芸翻訳にアプローチすること自体をやめてしまい、翻訳そのものをあきらめてしまったのは、現在の読者の翻訳の感覚と、私の感覚が完全に異なってしまったと感じたからです。実際、私にとっては名訳である翻訳が、今の人には名訳ではないらしいと感じることが増えてきました。
今年度は大学の講義で「グレート・ギャツビー」を扱ったので、久しぶりに野崎孝訳を再読しました。野崎孝は私の好きな翻訳者の1人で、「ライ麦畑でつかまえて」とか、本当に好きなのですが、現在では「ライ麦畑」の口語は古くなってしまっているというのは理解できます。また、「ギャツビー」の翻訳を今、読み返すと、意味不明な訳文があって、ここは改訳すべきだな、と思いますが、その一方で、この野崎節は最高だ、と思うところも多いのです。
今、野崎節、と書きましたが、こういう、翻訳者の個性みたいなのが、現在の文芸翻訳ではあまり好まれないようです。それほどの個性のある翻訳者が今はいない、というのもあるし、日本語に対する感覚自体が変わったのだとも感じますが、まあ、こういうことを考えると、自分はやっぱり古い人間だな、やっぱり、古い人間が訳すと、今の人には古いんだろうな、と思わざるを得ないのです。まあ、私の好きなものは命をかけて守りますけどね。生きてるうちはね。未来のことはわかりません。