クラシックを題材にした映画「25年目の弦楽四重奏」を見てきました。原題は「A Late Quartet」。ベートーヴェンの後期四重奏曲(第14番)をテーマにした演奏家たちの物語。
この映画、とにかく英語のせりふが聞きやすい。ニューヨークのハイソな人たちが主役なせいか、わかりやすく、きれいな発音、スピードも速くない。汚い言葉は皆無、たとえ、主人公たちがののしりあうときでさえ。客層を考えてのことでしょうか、あるいは、こういう人たちはほんとにこういう英語しか話さないのか、それはわかりませんが、とにかく聞きやすいです。
主人公は創設25年目を迎えた弦楽四重奏団。40代の男女3人と、彼らの父親くらいの年齢のチェリストで構成されていますが、そのチェリスト、ピーター(クリストファー・ウォーケン)がパーキンソン病を発病し、引退を決意。かわりに若い女性チェリストを入れて四重奏団を続けるよう提案します。25年間、家族のような関係だった四重奏団が突然変わるのに動揺する第1ヴァイオリンのダニエル(マーク・イヴァニール)、第2ヴァイオリンのロバート(フィリップ・シーモア・ホフマン)、ヴィオラのジュリエット(キャサリン・キーナー)。特にジュリエットは幼くして両親を亡くし、ピーター夫妻を親のように慕っていたので、ショックは大きい。一方、長い間、第2ヴァイオリンという脇役に不満を持っていたロバートは今後は自分も第1をやりたいので、曲によって第1と第2を交換しようと言い出す。そんなの無理だ、と反発するダニエル。
話が進むにつれて、家族のように仲のいいこの四重奏団員の間には、実は複雑な人間関係があったことがわかってきます(以下、ネタバレ大ありで話を進めます)。
この4人の中で、特に印象に残ったのは、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるロバートです。ホフマンの演技もすばらしいのですが、ロバートがなぜ、第2ヴァイオリンであることに不満を抱き続けたのか、その設定が、なるほどと思えるものです。
プレスシートの解説によると、第2ヴァイオリンは決して第1に比べて劣るものではない、役割が違うだけで、第2の方が優れている場合もある、とのこと。映画の中では、第1のダニエルは完全主義で、常に完璧な演奏をめざし、そのために恋もせず、人間性を犠牲にしている人物として描かれています(ちょっと、ハイフェッツっぽい)。なので、ダニエルはロバートを自分より劣るとみなしている、とロバートは思っています。
しかし、ロバートの本当の不満はこれではありません。この四重奏団は、ピーターとジュリエットとダニエルが先に集まり、そこにロバートがあとから加わったという経緯があります。ロバートは本当は現代音楽など、さまざまなことをやりたかったのですが、ジュリエットと出会い、恋に落ち、ジュリエットが妊娠したので結婚したのでした。生まれた娘アレクサンドラは、現在はヴァイオリニストめざしてダニエルの教えを受けています。
このあたりからだんだんいろいろなことがわかってくるのですが、実はダニエルはジュリエットが好きだったらしい。なのに、あとから来たロバートがジュリエットと恋に落ち、結婚してしまったのです。ダニエルはその後、自分の感情を封印、恋もせずに来てしまいました。一方、ロバートは、ダニエルがジュリエットを好きだったことを知っていて、本当は妻はダニエルが好きだったのに、妊娠したので自分と結婚したのではないか、つまり、自分はプライベートでも第2にすぎないのではないか、という疑いを抱いているのです。
ダニエルは音楽のために情熱を封印し、ロバートはジュリエットのために本当にやりたかったことをいくつもあきらめているわけです。ダニエルはロバートに、きみは第1には向かない、と言いますが、それは、ロバートが何を犠牲にしても自分の音楽をやりたい、という強い自己顕示欲がないという意味なのです。
ジュリエットがダニエルと会ったあと、第1と第2を交互にやるのは無理だと夫を説得したのがきっかけで、ロバートは激怒、ジョギング仲間と不倫してしまい、それがすぐに妻にばれ、一方、ダニエルは教え子であり、ロバートとジュリエットの娘であるアレクサンドラに愛を打ち明けられ、動揺。そのあと、ロバートから「おまえは冷たい完璧主義者だ、もっと情熱を解き放て」といわれ、アレクサンドラの求愛に応えてしまう。なんといっても、かつて愛したジュリエットの娘で、しかも長い間、恋もしないでいたものだから、いい年して若い娘との恋に突っ走ってしまう。当然、ロバートは激怒、という具合に、四重奏団の人間関係はめちゃくちゃになっていきます。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番は、7つの楽章を休みなしで演奏するのだそうです。弦楽器は演奏するうちに弦が伸びて音程が少しずつ狂っていくのですが、普通は楽章の間にチューニングをします。が、この曲はそれができない。しかも狂い方は各自で違うわけですから、少しずつ狂っていく音程をいかに合わせて最後まで弾くかという曲なのだそうです。それは、家族のように長い間一緒にいる人々の関係が少しずつ合わなくなっていくことを象徴しています。
人間関係がぐちゃぐちゃになった四重奏団が、いかにして演奏会に臨むか。結末近くでピーターが語る名チェリスト、パブロ・カザルスの言葉、冒頭に登場するT・S・エリオットの詩「4つの四重奏曲」(ああ、そういう詩がありましたね)、途中、地下鉄の広告に書かれたオグデン・ナッシュの詩「老人」といった言葉の数々が意味深い。かつて一度、ピーターは四重奏団をやめたことがあり、それはヴィオリストだったジュリエットの母の死が理由だったけれど、それはお産による死だったことが明かされ、ここでジュリエットとその母と娘アレクサンドラの因果のようなものが垣間見えます。
一流の演奏家がこんなに公私混同するだろうか、不倫ではないのだから、ダニエルとアレクサンドラの恋は許されるべきでは、と疑問に思ったり、また、プロの演奏家が200万円くらいのヴァイオリンを買うのにもちょっと驚いたりしましたが(誤訳じゃないよね?)、ジュリエットが夫の不倫を知るシーンをはじめ、描写が非常にさりげなく、大人なら雰囲気でわかるような演出、余計な説明をしない演出にも好感が持てます。演奏のシーンの撮り方もなかなかうまい。
ピーターの亡き妻のメゾソプラノ歌手に扮する世界的なメゾソプラノ、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターの歌唱が静かなクライマックスとなっているのもよい。また、ピーターの知り合いの音楽家の役で、ウォーレス・ショーンが出演しています。
そして、最後の演奏会のシーンには、意外な結末が用意されていて、これも感動ものです(ここはヒミツ)。