20代の監督の初長編映画がアカデミー賞作品賞などにノミネート、助演男優賞など3つのオスカーを勝ち取った「セッション」を見てきた。
ひとことでいうと、パワハラ、セクハラ、アカハラ盛りだくさんの音楽映画、である。
主人公は名門音大の1年生ニーマン。鬼教師として有名なフレッチャー教授の率いる優秀なジャズバンドにドラマーとして参加することが許される。
フレッチャーのやり方は、とにかく学生を罵倒し、限界まで追いつめて高い能力を引き出すこと。
怒鳴るわ、物を投げるわ、ビンタするわ、差別用語で相手をののしるわ、プライベートなことまで言って相手を罵倒するわ、とにかくパワハラ、セクハラ、アカハラのオンパレード。この種のハラスメントを知るには絶好の映画。
音大では教授が絶対的なパワー(権力)を持っていて、学生は従うしかないから、まずこれはパワハラ。そしてアカデミズムの世界だからアカハラ。そして、バンドのメンバーは男ばかりなのだが、セクハラに相当する差別用語もたくさん言っている。メンバーに女性がいたら即セクハラ。
この音大は女子学生もいるのだが、なぜかこのバンドは男ばかりで、フレッチャーのシゴキに耐えて演奏を競い合う男性メンバーたちを見ていると、これは体育会系の世界だな、とすぐに思った。高校野球とか、ああいった学生のスポーツの世界は男だけのホモソーシャルな世界で、なおかつ、フレッチャーのようなシゴキをする指導者がいて、シゴキの仕方もそっくりというか、特定の学生をいじめることで全体に緊張感を与えるとか、そういうやり方で強くなる、うまくなる、みたいな世界だ。
いや、これは体育会系だけではない、男だけの世界だけでもない、と思う。
たとえば、去年話題になったスタップ細胞の世界、分子生物学とか、いわゆる実験系の世界もまた、指導者の教授が描いたストーリーに合った実験結果を持ってこないと学生を怒鳴るとかいろいろあるらしい。だから教授のストーリーに合わせた捏造をしてしまうケースも少なくない。小保方晴子もそういう世界で捏造したのだろう、と言われている。
この実験系の世界では若い研究者たちはピペドと呼ばれ、奴隷のように実験を繰り返し、教授の望む結果が出ないと罵倒されるという、パワハラ、アカハラの世界らしいのだ。
もしかして、こういうのは日本だけ?と思うところだが、「セッション」みたいな映画ができるところを見ると、どうやら日本だけではないようだ。「セッション」は監督が高校時代に優秀なジャズバンドでドラマーをしていた経験をもとにしているようで、その高校のバンドはきびしい指導者のもと、全米一と言われるほどのバンドになっていたらしい。しかし、監督にとっては、指導者のシゴキはいまだにトラウマになっているようだ。
そんなわけで、「愛と青春の旅立ち」とか「フルメタル・ジャケット」とかの軍隊ものに似ているのだけど、「愛と青春の旅立ち」ほど感動路線ではなく、かといって「フルメタル・ジャケット」ほど狂気でもない。その中間あたりにあるのが面白い。
「愛と青春の旅立ち」では、鬼軍曹のシゴキに耐えて士官学校を卒業する若者たちにはある種の達成感があるが、「セッション」にはそれはない。フレッチャーは人間的な面も持つが、こと演奏に関しては完全にイッテしまっている。しかし、ニーマンも、他の学生も、こういうシゴキに耐えて一流になりたい、と思う。だから、フレッチャーとニーマンや学生たちの間にはある種の共犯関係が生まれる。
体育会系の世界でも、実験系の世界でも、シゴキや罵倒に耐えた末に何か大きなものをつかむと、シゴキや罵倒もいい思い出になってしまうのだろう。
しかし、実験系で捏造が多発するように、シゴキや罵倒に耐えて大きなものをつかめるのはごく一部。大半は精神を病んだりしてしまうに違いない。指導者にいじめられていた高校野球のキャプテンが自殺したとき、なぜ早くやめなかったのか、と思ったが、こういう世界にいると共犯関係になってしまって、脱出するのがむずかしいのだろう。
ニーマンはフレッチャーのシゴキに耐えてなんとか一流になろうとするが、ある失敗からフレッチャーに見放され、音大をやめることになる。以下ネタバレにつき、色を変えます。
音大をやめたニーマンには平穏な日々が訪れるが、その後、フレッチャーと再会する。フレッチャーは教え子の自殺が原因で大学をクビになり、今はフリーの指揮者になっている。現在指揮をしているバンドがドラマーを必要としているので、参加しないか、と言われ、ニーマンは参加することになる。
そのバンドはメンバーはみな大人で、女性もいるから、フレッチャーはこのバンドでは大学のときのようなパワハラはしていないのかもしれないが、元教え子のニーマンに対しては大学時代と同じイジメをする。というか、フレッチャーは大学をクビになったのはニーマンのせいだと思っていて、彼に恥をかかせようとするのだ。だまされた、とわかったニーマンは反撃に出る。そのあとのクライマックスがすごいのだが、ここでも憎みあうニーマンとフレッチャーの間には奇妙な共犯関係があることがわかる。バンドの主導権を握ることでフレッチャーに対して勝利するニーマンの姿は、いかにもアメリカ映画、ハリウッド映画が好む結末だ。自我の強さと戦う意志の強さが勝利するという結末に爽快感を感じつつも、自我の強さも戦う意志の強さも持ち合わせない人々はどうすればいいのかと思う(私自身は戦う意志が強い人間だが)。結局、強さがすべて、ということなのか、と思うと、考えさせられる。