自分の古い文章を見ると、え、これ、自分が書いたの?とショックだったり、気恥ずかしかったりするのですが、先月28刷が出た創元推理文庫「フランケンシュタイン」の解説を見て、やっぱり隔世の感がありました。書いたのが1983年秋なので、すでに31年半前。当時は英文学の研究論文ばかり書いていたので、解説の文章が明らかに論文調だ。映画評論家になってからはこんな文章は書いていません。
そして、スタンリー・キューブリックの作品4本が公開されるのを機に出た「ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック」に再録された「アイズ・ワイド・シャット」の作品評を見て、またまた何とも言えない気分に。こちらは1999年夏に書いたので、16年前ということになりますが、このときはキューブリックが亡くなってまだ時間がたってなかったので、ある種の追悼的な感傷がある文章になってます。
このムック本はおもに映画館でパンフレットとして売るようで、大きな書店でも置いていないようです。アマゾンでも在庫は少ないよう(でも売れてない)。
執筆者についての紹介が何もないのですが、映画評論家の大先輩が何人もいます。私なんざほんとまさに末席を汚すというか、「アイズ・ワイド・シャット」作品評も急遽ピンチヒッターみたいな感じで私のところに話が来た感じでした(そこにしっかり「バリー・リンドン」を滑り込ませたのは、この映画について書きたいという長年の願望の表れですが、古典文学の映画化だし、それほど場違いではないと思います)。
創元の「フランケンシュタイン」の28刷は、とりあえず買っておいてよかったというか、もう「フランケン」は3つも新訳が出たから創元はいいやってか、書店の店頭に置いてもらえないみたい。アマゾンで注文しても28刷が来るとは限らないしねえ。
で、その31年半前に書いた「フランケンシュタイン」の解説ですが、当時と今ではこの作品の置かれていた状況が非常に変わってきていて、たとえば、この作品がまともに評価されていない、とか、名のみ有名で読まれていない、というのは今では正しいとは言えなくなっています。むしろ、今ではシェリーといえば詩人のパーシー・ビッシュより小説家のメアリの方が有名らしいし、「フランケンシュタイン」自体も大学の授業でとりあげられ、文学史に残る傑作として認知されています(100分で名著、と言われるのだから、名著認定されてるわけでしょう)。
ただ、フランケンが怪物の名前だと思っていた、という人はいまだに多いので、名のみ有名で読まれていないのは今でも本当かもしれません。が、新訳が文庫で3つも出たのだから、それも今後は変わっていくでしょう(創元は31年で28刷とはいっても、売上総数はたぶん、8万部以下)。
でも、私が解説書いた頃は、「フランケンシュタイン」は「オトラント城」などのゴシック小説として、一山いくらで売られてた二流作品扱いだったのです。それにSFの始祖としての高い地位を与えたのがブライアン・オールディスで、「フランケンシュタイン」を最初に名著認定したのはSF界だったと思います(アシモフも「ロボットの時代」序文で言及しています)。
そんなわけで、「フランケンシュタイン」の文学の世界での評価は、解説に書いた頃とは一変している、ということは書いておかねばなりません。
それと、「フランケンシュタイン」と「ブレードランナー」を結びつける、というのも今では普通のことですが、私が解説を書いた当時は非常に画期的だったようで、あちこちから「ブレードランナー」を出したのがいい、と言われました。私自身、最後に「ブレードランナー」について書こうと決めて解説を書いたというか、極端なことを言えば、「ブレードランナー」について書きたくてあの解説を書いたみたいなところがありました。ただ、リドリー・スコットがその後作り変えたディレクターズカットなどを見ると、スコットは「フランケンシュタイン」の要素を減じたいと思っているように感じます。おそらく、「フランケンシュタイン」を意識していたのは脚本家で、スコットはこの脚本家の意向を消す方向でディレクターズカットを作っているように思います(この辺、きちんと検証しておかねばと思っているのですが)。
「屍者の帝国」では、メアリ・シェリーの書いた「フランケンシュタイン」は事実とは異なる、ということになっていて、怪物は醜くなかったとなっています。となると、「本当の怪物」は醜さゆえに迫害されることもなく、それゆえに殺人を犯すこともなく、ただ、伴侶を作ってもらえなかったのでフランケンシュタインの花嫁を殺した、ということになりそうです。「フランケンシュタイン」の原作が今、受けている1つの理由は、怪物が醜い姿で生まれ、創造主に見捨てられ、他の人間たちから迫害されて、ついに殺人鬼になってしまった、というところが読者の同情を誘うからですが、その部分をあえて、メアリ・シェリーの創作だ、と言い切ってしまう「屍者の帝国」は、SFが発見した名著を文学が奪っていき、怪物への同情が読書の主流になっている現在の状況への風刺かもしれません。実際、最近の新訳では怪物への同情を誘うような内容が売りになっているように思います。創元はやはり怪奇小説として売ったので、科学者が思いがけず恐ろしい怪物を生み出してしまった、というのが紹介文になっています(ここも31年前と今の違いと言えます)。
ちなみに、「屍者の帝国」で怪物がNoble Savage 001となっているのは、怪物は文学における高貴な野蛮人の系譜にある、というところから来ています(解説に書いたっけ?)。フライデーが007なのはジェームズ・ボンドが入ってるからで、じゃあ、002から006は?といったら、女性のハダリーが003でしょうね(「サイボーグ009」を見よ)。