2015年5月10日日曜日

大学でフランケンシュタイン(追記あり)

最近、「フランケンシュタイン」がずいぶん流行っているみたいだな、きっと、大学の授業でもやっているんだろうな、と思ってぐぐってみたら、いろいろな大学のシラバスが出てきました。
中には数年前の私の授業も出てきたが、あれは2年やったあと、やめています。
私の場合は「フランケンシュタイン」と人造人間テーマの映画という内容だったので、「フランケンシュタイン」(これは小説)から始まって、「ブレードランナー」、「ロボコップ」、「シザーハンズ」、「A.I.」、「アイ、ロボット」と映画が続き、最後に小説「わたしを離さないで」でしめるというものでした。
これだと「自分探しのテーマ」、「異端の人間のテーマ」、「生命倫理」、「アシモフのロボット三原則」あたりが全部入るという、以前からやりたかった内容で、たまたま某大学がチャンスをくれたので実現したのでした。
で、1年目は学生の反応がよかったのですが、2年目の反応が悪くて、2年でやめてしまいました。
同じ年にウェルズの「宇宙戦争」から始まる宇宙人テーマの授業もやってましたが、これも2年でやめています。
その後はおもに20世紀や現代を舞台にした普通の映画をいろいろなテーマに合わせて選んでやっていますが、学生にはやはりSFよりこの方がとっつきやすいみたい。

なのに、なんで、「フランケンシュタイン」が人気があるのか?
SFとして、ではない扱いだから?
そうかもしれない。怪物がかわいそうとか、そういうので人気があるのか?
先だってのNHK教育の番組も、ムック本を見ると、怪物とは誰のことか、とか、怪物は虐げられた女性だとか労働者だとか、ああ、そういうふうにしないと受けないのね、と思ってしまったわ。
それと、フランケンシュタインが無責任だという意見が一般に多いのだけど、確かに前半は無責任だけど、後半、女の怪物を造るときには、彼は怪物への責任と人類への責任の板挟みになるのだよね。そこに科学の深いテーマがあるのだけど、どうも英文学者は、女性を破壊するとかそういうフェミ系の解釈の方が好きみたい。
あと、フランケンシュタインが女の怪物を造らないことにした理由の1つが、女の怪物が怪物を好きにならなかったら、と思ったから、というのも重要で、ここから「フランケンシュタインの花嫁」とブラナーの「フランケンシュタイン」のクライマックスが生まれたのです。
女の怪物にさえ選ばれない怪物=究極の非モテですね。でも、女にも選ぶ権利があるのだよね。
実はこのあたりのテーマ、最近興味持ってるのですが、なんか、「フランケンシュタイン」だとフェミ系が多くて、それでなんとなく最近はやる気なくしてます。

さて、各大学のシラバスの「フランケンシュタイン」を見たのですが、うーん、やっぱり、大学の先生はこの程度なのか? 見てみないとわからないけど、全然SFわかってなさそう。まあ、オールディスの「十億年の宴」も翻訳は絶版だしな。
でもまあ、学部レベルならこれでもいいのかなと思うけど、東大の大学院のシラバスにも「フランケンシュタイン」があって、1818年の初版のテキストを読む、というのはいいんだけど、参考文献が、これが東大の院生が読む本か、と思って絶句してしまったよ。まあ、駒場だしな、と思わず言ってしまう(失言だけど消さないでおこう)。
なお、大学で「フランケンシュタイン」をやる先生のお名前には、私の知る人は1人もいませんでした。なので、好き勝手書いてしまいました(てへ)。

追記
以前、「新訳とか新薬とか」という記事で、新潮文庫の「フランケンシュタイン」の訳が長すぎる、1つの単語を長々と説明訳していると書いたが、同じように感じ、しかも実際に原文と比べた人のコメントがあった。
http://honto.jp/netstore/pd-book_26466539.html
2015/03/15 09:10
読み易くて楽しんだが原文と比較してかなりの付け足しがされている翻訳である。字が大きめとはいえ他社の物に比べて数十ページも増えないだろうと思っていたが数ページ程原文と比較して納得した。ただしそれが悪いとは言わない。芹澤氏のフランケンシュタインはこうであるという翻訳だろう。フランケンシュタインという小説を楽しむ上での不都合は感じなかった。同様の訳ばかり出ても仕方がないのでこれはこれでよい。ただし付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない。
(追記)
全文を比較したがちょっと足しすぎである。文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた。何らかの意図が有って故のことであろうが残念ながらそれは見えず、ただ付け足しの多い訳であるようにしか感じ無かった。同時に他の訳も比較したが光文社新訳文庫版は非常にライトで新潮社版とは逆に少々細部が削除されていた。創元推理文庫版と角川文庫版の新訳は程よい訳であると感じた。これから読む人にはこの両者どちらかをお薦めする。


私の場合は書店で立ち読みした程度だったので、これほどはっきりとは言えなかったが、やはりそうだったのかと思った。
「文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた」というのもまったく同感。また光文社文庫は少々細部が削除というのも、立ち読みしたときの印象と同じ。
新潮文庫版は「付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない」というのもそのとおりで、実際、新潮文庫版はそういう目的で使われることはあまりないだろうと思う。
一方、光文社文庫は大学教授の翻訳なので、大学の授業でテキストや参考書に指定されている。光文社文庫は改行も原文どおりでないので、これは問題では、と私は思うのだが、大学の授業では光文社文庫の翻訳と京大教授の中公新書で「フランケン」というのが多いようなのだ。
角川文庫に関しては、翻訳者が創元の訳をリスペクトしているようなので、創元の訳をめざしたものなのだろう。実際、訳文の簡潔さは創元に非常に近い。ただ、文の流れがイマイチな印象を受けた。(2015/5/30記)