2016年1月30日土曜日

リアルな戦争

リアルな戦争を描く2本の映画を見た。
まずはエルマンノ・オルミ監督の「緑はよみがえる」。80代になるオルミ監督が、第一次世界大戦を体験した父親から聞いた悲惨な戦争の現実をヒントに作り上げた作品。
雪におおわれたイタリア北部のアジアーゴ平原の塹壕で、敵の攻撃に遭う兵士の1日を描いている。これが実にリアルだ。
満月の夜、雪の中に出ていけばすぐに撃たれるとわかっているのに、命令されて出ていき、直後に狙撃されて息絶える。このときの銃声のリアルさ。敵の姿は見えない。ただ、撃たれるというリアルさ。キューブリックの「フルメタル・ジャケット」の後半を思い出す。
次に雪の中に出ていくことを志願した兵士は、小便をしたあと、外で死ぬよりはここで死ぬと言って、自らを撃つ。
映画の最後に、「戦争とは休みなく大地をさまよう醜い獣だ」という羊飼いの言葉が画面に浮かび上がる。この羊飼いと対話したオルミ監督の言葉をプレスシートから引用しよう。
「一番大きな嘘は大戦争だ。何千、何万という若者に対してつかれた嘘だ。本部の上官たちがベッドで毛布にくるまっている間に、若者は塹壕での殺し合いに送られた。兵士たちの敵は相手方の塹壕にはいない。敵とは彼らを戦場に送り込んだ人々のことだ。若者たちは愛国心を示すことを期待され、彼らはそれを心から信じ、そして裏切られた。何千、何万という人々が君主や貴族社会の傲慢さによって尊い命を犠牲にした。人間の歴史における対立は、つねに少数の者が権力と富を手に入れようとした結果起きる。私は、痛みを乗り越え、伝えたいと思っている。恥ずべき裏切りの罠から抜け出す手がかりを見つけて」

もう1本は、ハンナ・アーレントが傍聴し、その後の発言でユダヤ人社会から非難されたことでも有名なナチ戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判をテレビ放送した人々を描く「アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち」。
ユダヤ人絶滅計画の責任者アイヒマンがアルゼンチンで捕まり、イスラエルで裁判が開かれる。ホロコーストの事実を世界に伝えようと、アメリカのプロデューサー、ミルトン・フルックマンはテレビ放映権を獲得、マッカーシズムで10年間、干されていたドキュメンタリーの名手レオ・フルヴィッツに監督を依頼する。
面白いのはフルックマンとフルヴィッツの対立で、フルックマンは共産主義者のカメラマンをはずせと当局から言われると妥協するのに対し、マッカーシズムの被害者であるフルヴィッツは怒りをあらわにする。また、裁判の前半はイスラエルがアイヒマンを裁く権利があるという主張ばかりで、視聴者が離れてしまい、フルックマンはフルヴィッツにもっと面白くしろと言うが、フルヴィッツはホロコーストの証言者が語り始めれば視聴者は戻ってくると信念を曲げない。
こんな具合に、信念を持って仕事をする監督と、視聴率や当局のことが気になるプロデューサーというよくある構図になっているのだが、映画の焦点はこのフルヴィッツの信念で、彼はアイヒマンは決して怪物ではなく、誰でもアイヒマンになる可能性があるということを示そうとしている。
後半になると生き残った被害者たちの証言が始まり、衝撃的な映像や写真も登場する。強制収容所のユダヤ人たちはみな骨と皮ばかりで、強制収容所のリアルな描写は劇映画には無理だということがわかる。俳優にここまでやせさせることはできない。だから、ホロコーストの劇映画のユダヤ人は誰もここまでやせていない。
この衝撃的な証言や写真や映像を、アイヒマンは目をそむけることなく見ている。表情も変わらない。そして、彼は、「自分は命令に従っただけだ」と言う。アイヒマンが少しでも人間性を見せるのではないかと思っていたフルヴィッツは当惑する。
しかし、ハンナ・アーレントはこの裁判を見て、アイヒマンは普通の人間で、誰もがアイヒマンになりうると感じ、それを書いてユダヤ人社会から非難された。
映画では、イスラエルのユダヤ人たちが、「誰でもアイヒマンになりうる」という考えを頑として受け入れない。自分は絶対にならないと言う。また、フルヴィッツはイスラエルがアラブ人から土地を奪って建国したことを指摘するが、イスラエル人たちはそれについては話を避ける。フルヴィッツは名前からしてユダヤ系だと思うが、彼は誰もが迫害者になりうるという考え方の持ち主なのだ。
フルックマンはナチシンパから脅迫を受けるが、この脅迫者はホロコーストはなかったと思いたい人間のようだ。一方、フルヴィッツの宿の女主人は最後に、「これまでホロコーストの話をしても誰も信じてくれなかった。そんなことがあるはずがないと言われた。だから私たちは黙ってしまった。でも、あなたのおかげでこれからは話せる」と言う。この言葉の背後には、ナチシンパのような極端な人でない、ごく普通の人がこういうことがあったと信じたくないと思っていることがうかがわれる。