ついに私も「君の名は。」リピーターに。
公開直後に行ったときは中高生ばかりだったが、今は若者からシニアまで幅広い年齢層。レディスデーとはいえ、平日の昼間なのにけっこう客が入っているので驚いた。
映画が始まってすぐに、これは気に入った人はリピーターになるな、と思った。
ある意味、居心地のいい世界なのだ。
美しい風景、面白いストーリー、笑いと感動、そしてハッピーエンド。
去年の夏に初めて見たあと、1度でほとんど内容は理解できたので2度見るほどではないと思っていたが、また見たいと強く思ったのは昨年暮れに「この世界の片隅に」を見に行ったとき。
映画が終わって通路を歩いていると、「君の名は。」がちょうどクライマックスのようで、入口からあの歌が聞こえてきた。
そのとき、心からもう一度見たいと思った。
「片隅」もすばらしかったのだけど、こちらは内容が暗いので、「君の名は。」のカタルシスが欲しかったのかもしれない。
それでももう一度見るほどかなあという気がしていたのだが、金曜日から新作ラッシュでレイトしかなくなるので、昼間見られるうちに見ようと思った。
最初に見たシネコンでは来週も昼間やるようだ。今回は「聲の形」や「片隅」を見た一番近いシネコン。先日はここで「モアナ」を見た。なんとなく3回目もありそう?
さて、二度目に見た感想ですが、
やっぱり脚本がうまい。これ、相当うまい脚本ですよ。
また、新海監督が編集も担当していて、この編集がうまい。脚本と編集がセットでよくできている。
それと、三葉が父親を説得するシーンがないのが欠点、と思っていたけれど、今回見て、あれはあのままで十分なのだとわかった。ここが欠点というのは誤解でした。
三葉の家は代々、女性が入れ替わりを経験していることが途中で語られる。入れ替わっていたときは夢を見ているようで、目が覚めると記憶がどんどん消えていく、とも。祖母も昔入れ替わったことがあったが、もう覚えていない。
そしてクライマックス、三葉の体に入った瀧は三葉の父=町長を説得に行く。彗星の話を信じない町長に、三葉(瀧)は詰め寄る。その様子に驚いた町長は、「おまえは誰だ」と言う。
外に出た三葉(瀧)は、「三葉じゃないとだめなのか」と言う。
本物の三葉なら町長を説得できた、ということなのだ。
このせりふを、私は憶えていなかった。
やがて入れ替わった2人が出会い、2人はもとに戻り、三葉は父を説得に行く。妹と祖母も来ている。三葉は父に向かって怒りの顔を近づける。そのアップ。
そのあとに一瞬でいいから町長が理解したシーンを入れてほしいと思ったのだが、それは必要ないとわかった。
三葉の父は家の女性に代々伝わる入れ替わりの話を妻から聞いて知っていたに違いない。いや、むしろ、三葉の父と母は出会う前に入れ替わりの経験があり、それを忘れたあとに出会った可能性さえある。入れ替わりの相手が運命の人なら、父母が昔入れ替わっていたとしか思えないし、祖母の入れ替わりの相手もおそらく祖父なのでは? ただ、入れ替わりの記憶はなくなってしまうのだ。
だから、父は、瀧の入った三葉は別人だとわかったし、今いる三葉は本物だとわかっただろう。
髪を切った三葉はかつて瀧に渡した組紐を再び髪に巻いている。髪が短いので、頭全体に巻いていて、正面から見える。組紐が目の前の父になんらかの魔法をかけたと考えられるシーンだ。
逆に前回も欠点と感じて、今回もやっぱり欠点だなと思ったこともある。
三葉たちが町の人々を避難させようと必死で声をかけるのに、人々はまったく応じないシーン。
ここがどうも緊迫感がなくて、ちょっと間が抜けた感じがするのだ。このあとに父の説得シーンが来るので、説得シーンが物足りなくなった、というのもある。
このシーンがイマイチな理由として、この映画の人物の描き方があると思う。この映画では背景的な人物、遠景の人物は顔がデフォルメされていて表情が見えないのだ。これは1つのスタイルなのかもしれないが、精緻に描きこまれた風景に比べて違和感がある。風景は飛騨の山の中も、きらびやかな東京も、行き来する電車も本当に美しく描かれている。人物もアップのときはよく描かれているのに、なぜか遠方になるとフラットな感じになってしまうのだ。
避難を呼びかけるシーンはこうした遠方の人物の描写が多く、これがこのシーンを気の抜けた感じにしてしまっている気がする。
「君の名は。」はどのシーンもすばらしく描きこまれているのではなく、すばらしく美しいシーンの間にちょっと手薄なシーンがあって、この点がすべてが高いレベルの絵になっている「この世界の片隅に」に負けているところだ。しかし、脚本や編集のうまさ、オリジナリティ、そして記憶と忘却のテーマは、原作に負うものが多い「片隅」に勝っていると思う。また、上白石萌音の声の演技も非常にいい。