2018年3月23日金曜日

トーニャ・ハーディングの映画

トーニャ・ハーディングを描く映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」の試写に行くために、久々に千代田線に乗ったら、二重橋前の駅名に(丸の内)という副題がついていた。
千代田線は以前から明治神宮前に(原宿)という副題をつけていたが、ここは原宿への乗換駅なので別に違和感はなかった。半蔵門線の押上には(スカイツリー前)という副題がついているけれど、これもスカイツリーへ行くお客さんの便宜のためだろうと思っていた。
しかし、丸の内って、いったい、なぜ?
そもそも明治神宮前とか二重橋前とか、何かの前っていう名前がバス停みたいではあったのだが、それでもかつては明治神宮や二重橋はそれなりに知名度があったのだろう。が、いまや知名度は原宿や丸の内が上なのか?
原宿はまだわかりますが、丸の内って、どうよ?

それはともかく、「アイ、トーニャ」の試写を見た。
トーニャ・ハーディングがなぜ今映画に、という疑問があるが、出演者の好演もあってアカデミー賞にノミネートされ、助演女優賞受賞。「ウィンストン・チャーチル」もそうだったが、有名人の映画は人気があるのか試写室は混んでいた。
マーゴット・ロビー演じるトーニャは私の記憶にあるトーニャとはかなり違って、鋭い表情をしたきつい女性だった。
私の記憶にあるトーニャはもっとかわいい顔の女性で、そのかわいい顔でいろいろ同情を引いたりして立ち回ってきたのだろうと思うタイプだった。
映画の最後に登場する本物のトーニャ(記録フィルム)は記憶どおりの表情をしている。
トーニャ・ハーディングが非常に貧しい、まさにプア・ホワイトの家に生まれたということは当時から知っていた。ライバルのナンシー・ケリガンも裕福ではなかったが、家族に恵まれ、マサチューセッツ州というアメリカの上流階級の地域でトーニャに比べたら比較的恵まれた環境にあったことはわかる。それに対し、トーニャは今で言う毒母に相当するひどい母親から虐待され、ただフィギュアスケーターとしての才能があったのでそれだけを頼りにのしあがった。ケリガンが受けていたような家族の援助などはなかったようだ。
トーニャの関係者によるケリガン襲撃事件はよく覚えているが、当時、私が感じたのは、トーニャの周辺にいる男たちはごろつきみたいなやつばかりだということ、オリンピックでメダルをめざすような選手がなぜこんな連中を、ということだった。
そして、映画にも描かれるリリハンメル五輪での靴紐事件も、彼女がこういう行動をして生きてきたようなずるい女性という印象を持った。
映画はトーニャと元夫ジェフなどへのインタビューをもとに作られたが、彼らの主張が真実とは限らない。映画はそれぞれの人物を演じる俳優がインタビューを再現し、ドラマ部分でも人物が突然カメラの方を向いて意見を言うといった、ある種の再現ドラマのように進行する。
トーニャの元夫ジェフは妻に暴力をふるうDV男だが、トーニャも反撃して殴ったりしており、妻が一方的に殴られるDVとは少し違うようだ。また、ジェフはスケートに専念するトーニャのために家事もしていて、夫の内助のような面もあったようだ。
結局、まずいのは夫の友人のショーンという男で、この男が自分は秘密諜報部員だと思い込んでいる妄想男で、彼がケリガン襲撃を勝手にやってしまったというように映画は描いている。ただ、この妄想男はすでに亡くなっていて、反論できないのだが。
映画ではまずトーニャにある大会に出場したら殺すという脅迫状が来て、それでトーニャは棄権する。その後、妄想男がかわりにケリガンを脅迫しようと言いだし、トーニャと元夫もそれは支持する。が、妄想男は脅迫のかわりにケリガン襲撃をしてしまった、というのが映画のストーリーだ。
このあたり、どこまでが真実かはわからない。ケリガンを脅迫して出場させないようにしようとしたなら結局同じことではないかとも思える。しかも映画では、トーニャを脅迫したのは実はその妄想男だったということになっている。
このあたりの展開はどうも眉に唾をつけないといけない感じがするのだが、この映画で興味深いのはむしろ前半。フィギュアスケートの世界が非常に保守的で、女性らしさを売り物にしないトーニャが評価されないといったジェンダーのテーマが出てくるところ。フィギュアスケートの世界はごく最近まで、女性はフリルやリボンをつけない男性的な衣装で滑ることを禁じられていたし、ジャンプを得意とするパワフルなスケーターが不利な扱いを受けるということがあった。ナンシー・ケリガンもまた、リリハンメルでは芸術点の高いロシアの選手に負けて銀メダルだったのだ(映画の中でトーニャは、銀メダルなのに仏頂面をしているとケリガンを批判する)。
こうしたジェンダーの問題、女性らしさとか、あるいはトーニャの所属する世界でのマッチョ主義とかいったテーマと、毒母であるトーニャの母を描いているけれど、全体としては今ひとつ焦点が定まらない中途半端な感じがする映画になっているのが残念。