「空海 美しき王妃の謎」あるいは「妖猫傳」についてネットでいろいろな意見を見てきたが、その中で、チェン・カイコーが東京ドーム8個分の敷地に長安のセットを築いたのは、この映画が現実と幻をテーマにしているからだ、という意見を読んで目からウロコが落ちた。
この映画にはいつわりとかまやかしとかいった言葉が頻繁に出てくる。前の記事でも書いたように、ものごとはすべていつわりというのがこの映画のモチーフだということは私も感じていたが、現実と幻の対比があること、つまり、いつわりとまやかしに対する本物があることにまでは気づかなかった。
この映画は中国側が6年もかけて広大な長安の町を作り、そこで実写の撮影をしたのに対し、日本側はCGやVFXの大部分を担当したらしい。つまり、中国側がリアルで本物、日本側がいつわりとまやかしの幻を担当したわけだ。
CG全盛の今なら、背景も群衆もCGでやれば制作費の節約になるのに、わざわざ広大なセットを作り、そこを大量のエキストラで埋め尽くす。長安のセットを撮影後はテーマパークとして観光客に公開し、他の撮影にも利用する、という目的があるとはいえ、今どきここまでやるかのすごいセットとエキストラの数なのだ。リアルな本物へのこだわりが感じられるが、それは幻や幻術、いつわりとまやかしとの対比のために必要なものだったのだ。
そして、中華圏映画のファンが字幕版が公開されないと知り、日本語吹替え版はいつわりだとして見るのを拒否しているのも興味深い。中国語版がリアルな本物であり、日本語吹替え版はいつわりとまやかし、というわけだ。これ、けっこう合っている、と言わざるを得ない。そして、いつわりとまやかしと、リアルな本物、という点では、両方公開するのがやはり正しいやり方ではないだろうか。実際、吹替え版を見た人は字幕版を見たいと言っているし、字幕版がないことに怒る中華圏映画ファンも字幕があれば吹替えも見てみたいと思うかもしれないのだ。
というわけで、今回はネタバレ全開で、この映画のいつわりとまやかしのモチーフについて語っていこうと思う。
実は木曜日にまた、この前行ったシネコンでこの映画を見てしまったのだけど(週末からこのシネコンも小箱になってしまうので、大きなスクリーンで見られるほとんど最後のチャンスだった)、見れば見るほど内容がよくわかる。もともと楊貴妃とか詳しくないので、最初はわからないこともあったのだけど、その辺がどんどんわかってきて、これは脚本がうまいと思った。
すべてがきちんと仕組まれていて、本当によくできた脚本だ。せりふの1つ1つが決まっている。
前半、人を殺してまわる黒猫の事件を調べる空海は、白楽天(白居易)が玄宗皇帝と楊貴妃についての詩「長恨歌」を書いているのを知る。白楽天は玄宗と楊貴妃は相思相愛だと信じて詩を書いたが、それがいつわりかもしれないという疑問を抱いている。しかし、玄宗が楊貴妃の髪の毛を最も大事にしているとわかり、やはり2人は相思相愛だと思う。
だが、映画が進むにつれ、2人の愛はいつわりではないか、という疑問がわき出てくる。
空海は魔法でスイカを実らせる妖術師と出会うが、そのスイカがまやかしであると見抜く。見抜かれた妖術師は空海に、楊貴妃の謎を解くには黒猫の謎を解くようにというヒントを与える。
一方、黒猫にとりつかれた女性が李白が詠んだ楊貴妃の詩を暗唱するのを見て、空海は、猫は白楽天が楊貴妃の詩を書いていることを知っていて、白楽天に呼びかけたのだ、と言う。
最後まで見るとわかるのだが、実は空海と白楽天は猫と妖術師に導かれて楊貴妃の謎にたどり着くようになっている。
黒猫が殺しているのは楊貴妃の死に関係のある人々だと知った2人は、阿倍仲麻呂の恋人だった女性に会いに行き、そこで仲麻呂の日記を手に入れる。
このあとが、仲麻呂の日記に書いてあった玄宗と楊貴妃の催す極楽の宴の回想シーンになり、とにかくここが豪華絢爛で見入ってしまうのだけど、ここでは妖術師とその弟子の少年たちの行う幻術がこれでもかとばかりに披露される。幻術によるいつわりとまやかしが華麗な美しさで表現され、ここは何度見てもうっとりさせられる。このシーンの人を魅了する美しい幻想を見ていると、いつわりとまやかしという言葉は思い浮かばない。いつわりとまやかしに魅せられ、それを信じてしまう人間の性(さが)が描かれ、これが結末の伏線になる。
阿倍仲麻呂は楊貴妃に思いを伝えに行くが、玄宗に2人の結びつきの強さを思い知らされる。
妖術師の弟子の少年たち、丹龍と白龍は楊貴妃の美しさとやさしさにひたすらあこがれる。
李白は楊貴妃に会わずに詩を詠むが、その後、楊貴妃と会って魅了されてしまう。
そう、観客が極楽の宴の豪華絢爛な幻想に魅せられるように、男たちは楊貴妃に魅せられる。極楽の宴が幻術であるなら、楊貴妃もまた幻であり、だから彼女を愛する男たちの愛はひたすらプラトニックだ。前半の黒猫にとりつかれた女性とその夫の愛がリアルな夫婦の愛であったのとは対照的に(だから夫婦の方にはベッドシーンが必要だったのだろう)。
極楽の宴のあと、玄宗に対する謀反が起こり、その原因が楊貴妃であるとされて、人々の怒りを収めるためには楊貴妃の死が必要になる。阿倍仲麻呂は楊貴妃とともに逃げることを提案するが、実は山口県には仲麻呂と楊貴妃が日本に亡命したという伝説があり、楊貴妃の墓まであるらしい。
結局、妖術師が楊貴妃を仮死状態にすることを提案(「ロミオとジュリエット」のようだ)。楊貴妃はそれを承諾するが、実は仮死状態は長く続かないので、意識を失った楊貴妃を絞殺するのが本当の目的だった。玄宗が一番の策士だった、と仲麻呂は言う。
こうして楊貴妃は棺に入れられ、棺は霊安所に置かれ、玄宗の飼っていた黒猫がそこに閉じ込められる。
ここまでの経緯を知った空海と白楽天は楊貴妃の墓に行くが、棺の中には何もない。そして黒猫が真相を語り始める。
実は楊貴妃は死んでおらず、仮死状態から目覚めたが、棺の重いふたを開けることができずに死んでしまう。そのあと、妖術師の弟子、丹龍と白龍が楊貴妃の死体を発見する。丹龍は絶望して去り、白龍は楊貴妃が必ず生き返ると信じて待つが、楊貴妃の肉体が毒を持つ虫に蝕まれるのを見て自分の体をかわりに犠牲にし、魂を黒猫に移す。猫になった彼は楊貴妃の死に関係した人々を激しく憎み、復讐に走った、というわけだった。
黒猫=白龍は、白楽天が書いている玄宗と楊貴妃の愛の詩はいつわりだから書き直せと言う。
一方、空海はスイカの妖術師が実は丹龍だったことを知る(これも妖術師自身が手掛かりを与えている)。丹龍とともに再び黒猫を訪ねた空海と白楽天。丹龍は極楽の宴の幻を見せる。そして、若く美しい楊貴妃の体の隣に、同じく若く美しい白龍の体を置く。白龍のことをずっと見守ってきたと言う丹龍。しかし、黒猫=白龍は言う、「それ(白龍の体)は抜け殻だ」。空海が、楊貴妃の体も抜け殻であると言うと、黒猫=白龍は答える、「わかっていたよ。あきらめきれなかっただけだ」。(ここで黒猫が大粒の涙を流し、猫好きは涙腺崩壊。)
幻と現実、いつわりやまやかしと真実のモチーフがここで1つに収れんする。
幻だとわかっていても、いつわりとまやかしだとわかっていても、幻を信じ、愛してしまう。
楊貴妃の死という悲劇さえなければ、幻を愛し続けていられただろうか。
白龍は天に召され、白楽天は詩を書きなおさないことにする。そして意味深なことを言う、「あれは白龍が書いた詩だ」。それはつまり、愛という幻を信じた者が書いた詩だということだ。
このあと、空海にはもう1つのエピソードがあり、そこで意外な人物と再会する。そこでの空海のせりふもすばらしい。
ラストは白楽天の部屋。楊貴妃の絵に黒猫が現れ、楊貴妃の腕に抱かれる。大きな目を見開いて、観客をじっと見ている黒猫。
とまあ、後半、かなり詳しくネタバレしてしまったけれど、実はこういうテーマの作品なのですね。
幻と現実、いつわりやまやかしと本物・真実。
フィクションというものは幻やいつわりを美しいものと信じることだ、と言っているような、実際、それを体現したような映画です。その一方で、幻やいつわりであることの悲しみも伝わってくる。そしてなによりも猫=白龍の愛がせつない。
極楽の宴の幻を見せた丹龍が、「白鶴の時を思い出したかった」というようなことを言うのですが、あの輝かしい日々はもう戻ってこない、というせつなさも。
それでも前を向く空海と白楽天は、やがて優れた僧侶と詩人になる。エンドロールの歌「マウンテン・トップ」は彼らのめざす山の頂上を表現していて、内容によく合った歌になっています。
空海と白楽天の別れのシーンで、白楽天が後ろ向きで片手を上げるところ、どこかで見たな、と思ったら、ロバート・レッドフォードの「華麗なるギャツビー」でギャツビーと別れるときにニックがやっていた動作と同じでした。あの別れは永遠の別れになってしまうのだが。
猫の話を聞いた空海が同情して猫をなでようと手を伸ばすと、猫がシャアして空海をひっかくところ、そのあと、空海に背を向けた猫の表情がいい。
猫は出ずっぱりではないけれど、明らかにこれは猫の視点だな、と思うシーンもあり、猫出ずっぱりに感じるのも納得。
というわけで、けっこうはまっているのですが、週末からはもう小さいスクリーンでしか見られないのが残念です。