今年初の映画館。「ハウス・オブ・グッチ」と「クライ・マッチョ」をハシゴ。
「ハウス・オブ・グッチ」映画館にあったポスター。が、ライトでアル・パチーノの顔が見えない。ということで、上の方だけさらに撮影。
「クライ・マッチョ」はシアター入口の掲示。
「ハウス・オブ・グッチ」は演技派スターが何人も出ていて、その演技を楽しむだけでも面白いのだけど、話としての求心力が途中からなくなってしまうのが困る。
レディ・ガガが策士になるかと思ったら、アダム・ドライバーの方が策士になり、そして、最後には別の人物が一番の策士だった?となるのだけど、このアダム・ドライバーがちょっとね。
この人物、「ゴッドファーザー」のアル・パチーノを思い出させるのだが、最初は弁護士をめざす純朴な青年として登場し、後半、策士になる。「ゴッドファーザー」のパチーノも最初は純朴な大学生で、途中からがらっと変化するのだが、パチーノががらっと変化してからものすごくよくなるのに対し、この映画のドライバーは純朴な頃は意外とよいのだが、その後が逆にだめ。ジャレッド・レトのいとこ(「ゴッドファーザー」ジェームズ・カーンか?)がバカ息子として描かれているんだけど、ドライバーも後半はバカ息子っぽいのだ。
まあ、グッチ兄弟の息子が2人そろってバカ息子だからグッチは斜陽になったのかもしれないが、この映画、ドライバーが策士として頭角を現さないと物語が盛り上がらない。
ドライバーは伯父のパチーノといとこのレトを陥れてのし上がるのだけど、そういう迫力が全然ないのだ。
そして、レディ・ガガの妻が離婚した元夫のドライバーを殺すという実話にもとづく事件も、なんだか別れた夫への未練で殺害したみたいで、ええ、これでいいのか?と思ってしまう。
ガガがグッチに対して強い思いがあって、それで策士としてのしあがった元夫を憎み、みたいな方が面白いと思うのだが、そういうのが全然なくて、スピリチュアル系のセレブ女性がトチ狂っただけにしか見えないのだ。
クラシックやポピュラーをふんだんに流して気持ちよいのだが、実話をもとにしたフィクションならもっと面白くできるはずなのだが。
リドリー・スコットはもともと人間ドラマとかだめで、それがうまくいっている映画は脚本がいい映画だけど、この映画は脚本がダメダメだと思う。そして、そういう脚本だと、スコットは自分で脚本を手直してしていい映画にすることができない。そういうスコットの欠点がもろに現れている。いろいろ残念な映画。
そして、クリント・イーストウッドの「クライ・マッチョ」も、この脚本では名作になるのは無理無理、な映画。イーストウッド作品としてはかなりレベルが低い。
それでも、主人公と少年が孫と暮らす未亡人のところに世話になるエピソードはほのぼのとしてよい。ここがあるので救われている。
映画のはじめの方、少年を探しに行くイーストウッドが野宿するシーンで、横になると地平線の下の黒い部分に彼の姿が完全に消えるという印象的な映像がある。ここは彼が自然と同化することを表していて、彼が自然と一体化する人物であることを示している。
その後、未亡人の住む町で野生の馬を飼いならしたり、動物のお医者さんみたいになったりするのも、彼が自然と一体化した人物であることを示す。
このあたりの設定が魅力的ではあるのだけど、イーストウッドはこの役を、せめて15年前にやっていてほしかった。この映画のイーストウッドはほんとによぼよぼの老人で、見ていてかなり苦しい。
未亡人とダンスするシーンは、「マディソン郡の橋」などで見せた彼のダンスシーンを連想させるし、ラスト、未亡人の店が映るのは「ミリオンダラー・ベイビー」のラストでレモンパイの店が映るのを思い出させる。そういう、イーストウッドの過去作を連想させるシーンがいろいろあって、そこも魅力ではある。
でも、元妻の金が目当ての父親に、少年を託していいのか?
少年はマッチョと名付けた雄鶏を飼っているが、最後にこの雄鶏をイーストウッドに渡して去るのは、彼が自然、あるいはそれまでの自分と縁を切って父親のところへ行くという意味だろうか。
タイトルや予告編で、「マッチョ」についての深いテーマがあるのかと思ったが、それはほとんどなかった。少年の成長物語というわけでもなく、ただ、イーストウッドと未亡人が少年の父と母のようになるだけで、父親のところへ行っても結局、この2人のところへ戻ってくるんだろうな、という気がする。