先日見た「クライ・マッチョ」について、気になっていたことがあったのだが、うーん、でも、これは深読みのしすぎかも、と思ったので、書かなかった。
だが、今日発売のキネ旬最新号で、最後に登場する少年の父親が幽霊のようだ、と書いている人がいて、やっぱりあのことは書いた方がいいかもしれないと思った。
いやいや、それはすでにほかの人が気づいて書いているのでは、という考えも浮かんだので、キネ旬のこの映画の特集の号を見たら、映画評論家が、この映画には従来のイーストウッド作品にあった「死の影」がないと書いていて、えええ、それは違う、反対だよ~と思ったので、いよいよこれは書かねば、という気持ちになった。
イーストウッドの映画には死が登場するものが多いし、彼自身が死ぬ役だったり、「荒野のストレンジャー」や「ペイルライダー」みたいにガンマンが黄泉の国の使者のようだったりするのだが、確かに「クライ・マッチョ」は一見、死とは無縁なほのぼのした世界に見える。
でも、ラストに未亡人の店が登場するのを見て、「ミリオンダラー・ベイビー」のレモンパイの店が登場するラストを思い出したが、「ミリオンダラー・ベイビー」は女性ボクサーを安楽死させた主人公が、最後に思い出のあのレモンパイの店を訪れ、そのあとに死を選ぶのではないか、という意見があるのだ。
あの映画全体が、モーガン・フリーマン演じる人物の語りになっていて、その語りが実は、イーストウッドの娘にあてた手紙だったとわかるのだけど、つまり、これは、イーストウッドが死んで、フリーマンが娘に手紙を書いたんではないかと。
だから「クライ・マッチョ」で最後に未亡人の店が登場するのも、実はここは死後の楽園で、主人公はそこに帰るのでは、という考えが浮かんだのだ。
あの未亡人自体、夫と娘と娘婿が死んで、孫を育てているのだが、こんなに家族の死に目にあっている彼女の世界もまた、どこか死後の楽園のように見える。
いや、死後の楽園という言い方は言い過ぎかもしれない。アメリカとメキシコの国境がある種の三途の川で、あちらの世界とこちらの世界があって、死後の楽園のような未亡人の世界から見ると、少年の父親がいる世界は黄泉の国で、そのために少年の父親は幽霊みたいに見える、とも考えられる。
つまり、死の影とか死後の世界とかが、この映画ではある種の比喩的な世界で、それは現実とは離れた理想郷であり、天国であり、だからそこはまた、死後の世界でもあるという、そういう雰囲気がある。
そして、この比喩的な死後の世界は「運び屋」の最後、植物を育てる刑務所のイーストウッドの世界にも通じる。植物を育てる庭はエデンの園、楽園のメタファーであり、刑務所の庭であることから、そこは世間から隔離された別世界で、そこに安住する老いた主人公はある意味、天国に住んでいるともいえる。
「運び屋」の庭はまだしも、「クライ・マッチョ」の未亡人の世界を死後の世界と言ってしまうのは多分に語弊がありすぎるが、イーストウッドが描いてきた死の影が、こうして老いとともにあたたかな楽園として描かれるようになったとは、考えられないだろうか?
そして、少年を問題のある父親のもとに送り出すのは、少年はまだこれから生の世界を生きなけらばならないからだ。
追記
映画の冒頭、主人公が少年の父親と会うシーンが暗くて非常に見づらかった。だが、そのあと、メキシコへ行くと、全然明るくて見やすい。
どうも、この父親と会うシーンが黄泉の世界みたいな感じなのかなと思っていたが、最後の父親が幽霊のよう、という指摘と重なる。
また、見た直後の記事で書いた、地平線の下の黒い部分にイーストウッドが横たわって姿を消すシーン。これも黄泉の世界との同化にも見える。
アメリカとメキシコ、どっちが生でどっちが死の世界、じゃなくて、視点によってどっちにも見えるというか、主人公はもう人生の終わりで死んだような気分だからアメリカが死後の世界みたいだったが、メキシコへ行って生き返る、ともとれる。でも、同時に、メキシコの方が天国のような世界、あの世のような世界ともとれる。
イーストウッドはたぶん、こういうこと全然考えずに作っていると思うが、どっちが生の世界でどっちが死の世界みたいな論理的な分け方がなく、でも、この2つの世界が存在していて、視点によってどっちにも見える、みたいなのは、偶然の結果かもしれないけれど、なかなかすごいことだ。