読みました、ブッツァーティの「偉大なる幻影」。
超面白かった!
ブッツァーティのクマの童話や岩波文庫の短編集は、面白いけど、イマイチはまらなかったけれど、これははまった。
どうもこういうのが私の好みらしい。
しかし、この本、なんで再刊されないの?と思ったら、翻訳出版権(版権)があるからなのだ。原著出版が1960年。翻訳が1968年なので、当然、版権が必要で、早川書房が独占取得。
しかし、売れなかったのか、その後絶版になったようで、版権も期限が切れて、今出そうとすると、早川であれ他の出版社であれ、版権を取る必要がある。当然、お金がかかる。今、翻訳は売れない。版権料払ってもペイする本は少ない。最近、いろいろな出版社がやたら古典の新訳を出しているのは、版権料がいらないからというのが大きいと思う。
ブッツァーティでも原著が1940年出版の「タタール人の砂漠」や、いろいろ出ている短編などは版権がないので、どんどん出せるのだと思う。
「ナイトメア・アリー」とか「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とかも古いから版権がないので、映画に合わせて気楽に出せるのだ。
というわけで、再刊されそうにない「偉大なる幻影」だが、国立国会図書館が絶版本をネットで閲覧できるサービスを5月から始めるというので、それで読めるようになるかもしれない。(上の画像でわかるページ数で、コピーを申し込むことも可。全ページのコピーは不可です。)
さて、「偉大なる幻影」の感想だけど、読んでいない人、特にこれから読みたい人はネタバレ大有りなので注意してください。私もこういう展開になるとは思わなかったので、読む前には知らない方がいいと思う。
「偉大なる幻影」あらすじと感想
電子工学科教授イズマーニが、偉大な物理学者エンドリアーデの研究を手伝う仕事を依頼され、妻とともに研究所へ行く、というところから物語は始まる。
その研究は国防省の管理下で極秘に行われていたのだが、エンドリアーデは建築物のような人造人間を作り、その中に亡き妻ラウラの魂を入れた。
ラウラは不倫相手と一緒に自動車事故で亡くなったのだが、もともと夫を愛しておらず、人造人間の魂になってからも夫のそばにいる研究者が好きになったりする。
ラウラはしだいに自分が動けないこと、女の肉体を持っていないこと、男と愛し合えないことに不満と怒りを抱くようになる。
一方、イズマーニの妻エリーザは何年も前にラウラを知っていたので、ラウラが発する言葉を理解できるようになり、ラウラに近づいていく。その結果、とんでもないことが起こる。
この建造物のように作られたラウラの描写が秀逸で、これまでに見たり読んだりしてきた人造人間のイメージをくつがえす。しかも、人間の姿をしていないのにラウラという女性の気持ちが感じられる描写。
もともとこの人造人間はコンピューターというか、巨大計算機として作られたようで、当時のコンピューターのイメージで描かれているけれど、ラスト、ラウラが魂を失い、ただの計算機と化した描写がまたすごい。
このラウラが魂を失うクライマックスも非常に読み応えがある。人間の肉体、女の肉体がないことを恨むラウラが死を望み、その死のためにエリーザを利用するのだが、このエリーザが巻き込まれていく過程もまた秀逸な描写。「不思議の国のアリス」とか、そういう感じの世界でもある。
最初のうちはおっさん科学者たちの話だけれど、途中から女性陣が活躍というか、重要なファクターとなり、後半は女性の物語といって差し支えない。
いや、これ、もう、再刊してよ! (岩波文庫の)脇功氏の訳だし。
「スカラ座の恐怖」と「戦艦”死”」も、岩波文庫の短編集とはまた違う味わいで、幻想文学というよりはリアルな社会を感じさせる。
借りた本は1968年発行で、半世紀以上前のものだけれど、わりときれいな状態で、あまり借りられなかった本なのかと思った。なつかしい活版印刷の活字。だいじに読ませていただきました。