2023年5月28日日曜日

「アフターサン」のレイティングと、面白い記事

 「アフターサン」は前の記事で書いたようなテーマだったら、年齢制限がつくのではないか、と思って調べてみたら、日本では制限なしで、誰でも見られる映画だった。

しかし、アメリカではR指定になっている。ロッテントマトのページから。


理由は、一部の言語と短い性的な描写とある。あちらはある種の言語と性的な描写には必ず年齢制限がつく。

ただ、18禁のRとは意外だった。あのテーマと、あとはあちらは喫煙シーンがあると制限がつくので、Rの下くらいかと思っていたのだ。

理由にあのテーマが入っていないのは、ネタバレになるからだろう。日本は全無視で誰でもオッケーって、ちょっと、と思ってしまう。本来ならR15くらいにはなるのでは?

というわけで、中学生以下のお子さんには推奨しません。つか、子どもにはわからんだろう。

話変わって、サミットでのゼレンスキー大統領の服装を話題にしたこの記事がとても面白かった。英辞郎は便利だが、すべて信用してはいけない、という、まさにそのことが書いてある。誤訳は怖い。

ゼレンスキーは「略式軍服」を着たのか?|ヒト (note.com)

あと、マッカーサーが昭和天皇に会うときに礼服じゃなかった、つまり天皇を見下していた、ということを、当時の日本人は理解した、という点もなかなかに考えさせられる。

2023年5月27日土曜日

「アフターサン」(ネタバレ大有り)

 金曜日は柏の葉へ予約済みの「アフターサン」を見に行こうとしたら、なんと、つくばエクスプレスが線路にひび割れとかで止まっている。補修は済んで、今テスト走行中というアナウンスがあるが、近くの人が「テスト走行中と言ってもう30分たつ」と携帯で話している。とりあえず止まっている電車で待つこと20分、ようやく動き出したが、問題の区間は徐行運転のため、いつもより時間がかかる。それでもなんとか本編開始には間に合った。

そんなわけでシアター入口の掲示はボケボケ写真。それでも撮れただけ余裕があったってこと。なかなか運転再開にならないので、今日は無理かな、帰ろうかな、と思っていたけど、映画の神様はついていてくれたようです。


「アフターサン」(タイトルは日焼けどめクリームの日焼けのこと)は11歳の少女ソフィーが31歳になったばかりの父親とトルコですごすバカンスの物語。年齢差が20歳未満ということは、父親は19歳で娘をもうけたことになるが、母親とは別れ、でも定期的に娘と会っていたよう。

離婚したのか、そもそも結婚しなかったのかはわからないが(私はソフィーのせりふから、結婚しなかったのではないかと思っている)、父親は故郷のスコットランドを離れ、母子は今もそこに住んでいる。父親は故郷を離れて一旗揚げて成功しようと思ったのだろうが、貧乏ではないものの、裕福とは言えず、仕事もうまくいかなかった様子。でも、故郷を離れると居場所がなくなると言っていて、それで帰ることもなかったのだろう。

時折、ディスコで点滅する光を浴びながら踊る大人の女性のシーンがあり、これが現在のソフィーだということは容易に想像できる。後半になるとわかるが、彼女は今は同性のパートナーと赤ん坊と暮らしているよう。そして、自分自身があのときの父親の年齢になり、あのときにビデオに撮った映像を見て、当時のことを思い出している、という構成。

映画のはじめの方で、ベッドに横たわる父親の向こう側から起き上がる女性の姿が、ポラロイド写真のように浮かび上がってくるが、後半、今度は本物のポラロイド写真が出てきて、この2つのシーンが対になっていることがわかる。ほかにも対になるシーンが何組もあり、非常に考え抜かれた構成だ。

最初の方の、起き上がる女性の姿が浮かび上がるシーンは、この物語が大人になったソフィーの回想で、父親視点のシーンも彼女の想像だということを表しているのだろう。父親視点のシーンは、おそらく父はこうだったのだろう、と想像しているのだ。

大好きな父親とすごせるバカンスを無邪気に楽しむ娘と、何か悩みがあるような父親。悩みがあるらしいことがわかるシーンはおそらく大人のソフィーの想像。夜の海に父親が向かうシーンは「スタア誕生」のジェームズ・メイソンの自殺シーンを思い起こさせる、という指摘があったが、映画を見た人たちは父親は自殺を考えていて、実際に自殺したと解釈しているようだ。

ただ、自殺をほのめかすシーンはソフィーの想像のシーンが多いような気がする。11歳のソフィー視点では、それは想像できなかったわけだから。

私自身は映画を見ている間は、父親は不治の病にかかっているのではないか、と思っていたのだが、あとでネットのネタバレ評を読むと、やはり自殺説が有力のようだ。ただ、実際の死については何も描かれていないので、表向きは事故死になっていて、それを大人になったソフィーが自殺ではないかと思っている可能性はある。

私が不治の病ではないかと思ったのは、「愛しているよ、ソフィー。忘れないで」と書いた紙があったからで、自殺する父親が娘にこう書くとは思えない、というのがあった。ただ、家族に恵まれず(自分の家族は自分の誕生日を覚えていなかった、と彼は言う)、仕事もうまくいかず、もはや故郷にも戻れない父親がうつに陥り、自殺を考えた、という説は確かにそうかもしれないと思う。

大人のソフィーを演じる俳優が娘時代の子役と全然似ていない。特に大人の方は表情が暗い。まるで、彼女自身がうつ状態で自殺を考えていて、それで父を思い出し、赤ん坊の泣き声を聞いて我に返る、みたいな解釈もできる。(ちなみに、監督は娘時代の子役が大人になったような感じの外見。)

ツインの部屋を予約したのにベッドが1つしかない部屋になり(父親がお金がないので、最初からそう予約したのだ、という説あり)、簡易ベッドを入れてもらって父親はそこで寝ていたのだが、娘のはからいでみんなが父親の誕生日を祝う歌を歌ってくれて、そのあと、父親は一人、ベッドで慟哭し、そして父親が海に向かうシーンがあり(慟哭と海岸は大人のソフィーの想像)、そのあとは父親が部屋で寝てしまって鍵が開かず、ソフィーはホテルのロビーですごす、というあたりが後半の重要なシークエンスなのだが、朝、父親は、お前のベッドで寝てしまってごめん、と言う。この最後の部分も何かとても意味深な感じだ。

ソフィーは父親と一緒に撮ったバカンスのビデオをこのとき初めて見た、あるいは長らく見ていなかった、という説もあって、なるほどと思った。

空港でのソフィーと父の別れは最後の別れであり、このあと父親は死んだのだ、ということはわかる(この最後のシーンも大人のソフィーの想像)。死因がなんであれ、これが最後の別れになるとは知らず、あとになってわかる、ということは人生で何度も経験することで、そこで泣ける、ということはとてもよくわかる。構成が非常にうまいけれど、理詰めできっちり解釈してしまう、ということはしたくない。

2023年5月23日火曜日

「ロング・グッドバイ」&「黒い瞳のブロンド」

 図書館から借りてきた2冊、レイモンド・チャンドラー作、村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」とチャンドラー・エステイトお墨付きの続編「黒い瞳のブロンド」を読み終えた。(画像はアマゾンから)



順番としては、「ロング・グッドバイ」本文→「黒い瞳のブロンド」→「ロング・グッドバイ」解説の順で読んだ。

「ロング・グッドバイ」は清水俊二訳を若い頃に読んでいるはずなのだが、そして、ロバート・アルトマン監督の映画も見ているのだが(初公開時)、全然忘れてた。そんなに好きじゃなかったのかな。

村上訳が出たとき、長さがずいぶんと長くなっていたので、清水訳は一部省略されていたことがわかり、村上訳読んでみようかとずっと思っていたが、なかなか読まずに来て、なんで今頃読む気になったかというと、ベンジャミン・ブラック(ジョン・バンヴィルの別名)による続編「黒い瞳のブロンド」がリーアム・ニーソンで映画化されて、来月公開と知ったから。

ニーソン、100本目の映画ですってよ。先日、過去記事発掘してたとき、私がファンだった頃のニーソン、1990年前後の彼の記事の切り抜きが出てきて、あの頃のニーソンはよかったなあ、と感慨にふけったのですが、「黒い瞳のブロンド」映画化は実はトマトで批評家からも観客からも低い評価しか得られていないのです。「メモリー」は批評家の評価は低いけど観客の評価はそれなりに高いのに、これではだめかも、と思っているのですが、原作読んで、いよいよだめかも、と思いました。

なんかもう、けなすのも面倒なくらい、つまらない。読み終わって、「ロング・グッドバイ」の村上春樹の解説読んで、そうだよそうだよ、チャンドラーはそこがいいんだよ、でも、あの続編はそこがだめだよね、と、何度もうなずいたのです。

特に1950年代のハリウッド映画の固有名詞がたくさん出てくるのが、わざとらしくてダメ。映画に合わせて来月文庫化されるようですが、ポケミスの方、訳注で、ドリス・デイとロック・ハドソンが夫婦だったみたいなこと書いてあったけど、全然違うよ。ハドソンはゲイだったし、ドリス・デイは当時、メルチャーという人と円満な結婚生活を送っていて、60年代後半に夫と死別するまで一緒だったのよ。映画では3本で共演して、コンビではあったけれど。文庫化で、あるいはポケミスの増刷で直ったかもしれませんが。

村上訳は読んだときはハードボイルドっぽくないし、いろいろ違和感があったのですが、最近出た創元推理文庫版の訳をアマゾンで一部見たら、ミステリらしくて読みやすそうだけど、ハードボイルドっぽさはやはり感じなかった。結局、ハードボイルドは清水訳一択か?

「黒い瞳のブロンド」は小鷹信光なのでハードボイルド色はばっちりで、上の訳注以外はよいと思いました。ただ、もとがねえ。ニーソンの映画もあまり見たくなくなってしまった。第一、ニーソンがマーロウって合うのか? やるならもっと若い頃に(せめて50代)やってほしかったし。

どちらも内容に触れるとどうしてもネタバレになるので触れませんが、「ロング・グッドバイ」が「グレート・ギャツビー」だという村上の指摘はそのとおりだと思います。

2023年5月22日月曜日

谷津干潟とバラ園

 脚は完全に治ったので、日曜日は谷津干潟とバラ園へ。

干潟は午前11時半頃が一番水位が低い。着いたのは午後1時半。南船橋駅の西側に出ると、なんと、UR賃貸の団地の前の草地(ときどき湿地)が完全になくなり、何か大きな施設を建設中。

えええ、いつから?と思って過去写真調べてみたら、どうやら谷津干潟は2年ぶりだったらしい。2年も来てなかったのか、と驚愕。南船橋はTOHOシネマズに行くのでたまに来ていたけど、西側には行ってなかったのだ。あの風景好きだったのに、残念(と言いつつ、写真をほとんど撮っていなかったみたい)。

干潟は鳥が非常に少なかった。


魚をとったシラサギ。


この小さな鳥も魚をとったのだけど、落としてしまう。




このあたりからだんだん地面が見えてくる。上の写真、よく見るとカニがいる。


観察センターをすぎたところ。手前の草むらの中にカワセミが。


こんな近くで撮れたのは初めて。トリミングしてません。



ぼけてるけど、魚を食べるところ。周りの人たちはいつ食べるかと待っていたけど、話をしていて見逃したようだ。



反対側のバラ園の方へ向かう。






この干潟はラムサール条約登録のために設備を整えたら、鳥が激減してしまったのだという。何もしないのが一番だけど、ラムサール条約登録してないとここも埋め立てて何か作られてしまうのだろう。


バラ園入口でバラのアイスを食べる。旧古河庭園のバラのアイスはカップに入って、バラのはなびらが1枚入っていて、色は白いけど、ここのはコーンで色はピンク。味はどっちも淡白で同じくらいかな。谷津バラ園は園内食事禁止なので、外で食べます。


日曜なので、先週水曜よりは人がいるけど、混んではいない。先週はお疲れのバラが多かったが、今回はお疲れの花は切り取られ、新しい花も咲いているので、先週よりきれいだった。










夕方になり、人がかなりいなくなる。





ベルサイユのばらコーナー。あまり咲いていない。







結局、出たのは閉園時間ぎりぎり。


つぼみがまだたくさんあったので、しばらく楽しめそうです。

2023年5月21日日曜日

過去記事発掘作業

 1984年からプロとしてあちこちに執筆するようになって39年。その記録を細々と某所で自分だけの記念みたいにして残そうとしてるわけですが、2000年代初頭までは原稿をメールで送っていなかったのですね。

フロッピーディスクに入れて渡すか、印刷してファックスで送るかでした(インターネット老人会)。

そんなわけで、パソコンに原稿が残っていないわけです。(フロッピーディスクはあるけど、書院だよ。書院っていっても老人会以外にはわかんないだろうけど。)

なので2000年代初頭くらいから前のは現物にあたらないといけない。その現物は、だいたい目次と執筆したページだけ切り取って保存してありますが、39年分ともなると膨大な分量なわけです。段ボールに入れて押し入れにしまってあるに違いないが、押し入れの段ボールをいちいち開けないといけないのか、面倒、と思っていました。

が、押し入れの手前の箱を開けてみたら、一発で見つかった。ただし、全部ではないので、いずれは奥の箱を開けねばなりません。

しかしまあ、開けてみたら、いろんなものがあるのですよ。え、こんな雑誌や本に書いてたのか、知らんかった、の連続。ドミンゴとかレヴァインとかスペイシーとか、のちにMeeTooで告発される連中について書いてる。そういや、ドミンゴとレヴァインはファンで、メトの公演を見たのだよね。2階席に当時の皇太子夫妻(現上皇夫妻)がいたのです。

スペイシーは前からうさん臭い奴と思っていたので、驚かなかったが。

でもって、ヴェルサーチのインタビューを訳したのは覚えていたが(殺害される前のインタビューで、殺害後に翻訳した)、プラダの翻訳もしてたとは。記事にトム・フォードが出てたわ。

定価がついて売られてはいるけどほとんど同人誌みたいなのも数種類あって、それはさすがに載せられないと思ったけれど、そのうちの1種類の執筆者がいまや有名人ばかりだったりして、これだけは載せるかと思ったり。

しかし、昔の雑誌は字が小さくて、老眼にはこたえる。

1981年の「ぴあ」に「エレファント・マン」についての投書(映画評と言っていい長い文章)が載った号も表紙と記事が出てきました。写真は古本屋のサイトから。


そして、1995年のキネ旬臨時増刊号の「世界映画オールタイム・ベストテン」。写真はアマゾンから。


こんなのもあったのか。そういえば、90年春になじみの編集者がみんなやめてしまい、キネ旬に書けなくなったあと、95年に編集部を訪ね、当時の編集長がこの企画に参加させてくれたのがきっかけで、キネ旬復帰を果たすことができたのでした。

そのキネ旬も2010年代前半くらいからだんだん縁遠くなってしまっています。書いたものを整理していると、39年間のさまざまなことが思い出されて、丸1日つぶれてしまったのでした。ああ、疲れた。

2023年5月20日土曜日

私の映画批評の姿勢

 キネマ旬報が月刊になるというニュースがありました。

だいぶ前から仕事はなくなっているので、私には影響はありませんが。

で、12年前にキネ旬の評論家が順番に書いていた私の映画批評の姿勢という連載。私も一応、書かせていただいたのですが、その原稿を読み直してみたら、うーん、意外といいんじゃね?と思ったので、再録してみます。


私の映画批評の姿勢

伝えたいことがあるから書く

 映画評論家の方々がどのような姿勢で映画評を書かれているかについては、大変興味があるので、この連載は毎号、楽しみにしている。では、振り返って、自分はどんな姿勢で書いているかと考えてみると、特別な姿勢など何もないことに気づく。

 私が映画評らしきものを書き始めたのは高校時代だった。当時は高校生でも大人顔負けの立派な文章を書く人がいたが、私は映画ファンの感想の延長で書いていた。「シネ・ストーリー」という、近代映画社が短期間、発行していた映画雑誌に投稿して掲載されたのが、初めて商業誌に載った映画評である(本誌の読者の映画評欄は敷居が高く、私には無理だった)。

 大学時代には映画仲間と同人誌をやっていた。その頃には多少は生意気になっていた私は、既存の映画評に不満を持つことが多くなった。

 この映画にはこういう重要な要素があるのに、どうして誰も書かないのか。この映画評はピントがはずれているのではないか。ナイーヴな映画ファンを脱し始めた人なら誰でも経験する時期に入っていたのだ。

 しかし、相変わらず、本誌は私にとっては敷居の高い雑誌だった。当時の本誌は日本映画に非常に力を入れていて、私と同世代の日本映画の論客が読者の映画評欄の常連だった(本誌で活躍されている評論家の方々にはここの出身者が少なくない)。あの頃の私は、とにかく、日本映画が苦手だった。ひとことで言うと、日本映画の見方がさっぱりわからなかったのだ。それは味噌汁や納豆が苦手なのと同じだった。年とともに味噌汁や納豆が大好きになり、日本映画も大好きになったのだけれど、いまだにあの当時の日本映画コンプレックスは残っている。

 日本にいて、日本語で映画評を書く以上、その対象はまず日本映画でなければならない、という考えが、漠然と頭にあった。批評というものは作り手の役に立たなければならない。外国映画についていくらいいことを書いても、日本語では外国映画の作り手には届かない。映画をよくするのが批評の役目なら、日本語の批評の対象は日本映画であるべきだ、と私は思っていた。そして、同時代の日本映画について積極的に発言する論客を心から尊敬していたし、外国映画、特に欧米映画中心の私にはそれは無理だとあきらめていた。

 その一方で、外国映画については、私が言わねば、と思うことが少なくなかった。特に欧米の文学や文化が背景となっている外国映画の評論については、読んで物足りなく思うことがよくあった。W・M・サッカレーの原作をスタンリー・キューブリックがどう料理しているのかを理解せずに、どうして「バリー・リンドン」を論じられるのか。いや、自分自身がまず勉強しなければ。そう思って大学院に進み、英米文学を学び、その結果、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」について、文学的背景から映画までを論じた文章がきっかけとなり、本誌から映画評の依頼を受けた。

 思い返してみると、若い頃の私は、欧米映画のおもに文学的背景を読者に正しく伝えたい、という気持ちが強かったのだと思う。この映画にはこういう重要な要素があるのに、誰も書かない、だから私が書く、というスタンスだった。そのため、読者にはピンと来ない映画評も多く書いてしまったかもしれない。それでも、これは私が伝えねば、という強い思いを受け止めてくれた編集者や読者がいたので、長い間、映画評を書き続けてこられたのだと感謝している。

 最近は日本映画にも欧米文化の影響がはっきりと見られるようになり、日本映画についてそういう指摘をする文章も書けるようになった。読者に伝えたいことがあるから書く、これが私の姿勢なのだと改めて思う。


 映画評論は誰でも書ける。それは今も昔も変わらない。ただ、昔は、商業誌とそれ以外の間には大きな壁があった。その一方で、本誌は読者の映画評のほかに、キネ旬ニューウェーブという、読者から長編の評論を募集する欄を儲け、読者が評論家と対等に勝負する場所を作っていた。

 また、商業誌には雑誌の方針や読者の好みなど、さまざまな要素があって、プロの書き手は必ずしも自分の書きたいことが書けるわけではない。私自身、本誌に書きながら、コピーの個人誌を出していた時期がある。

 現在、映画評論は玉石混交のブログから大学の映画研究までに広がっている。ブログには、書き手が裸の王様になってしまうという難点があるし、大学の映画研究は、外国文学研究の衰退によって対象が映画に変わったような部分が垣間見えて、複雑な思いをすることがある。

 最後に、映画評論を読む読者とは誰かという問題がある。伝えたいことがあるから書く、と書いたが、伝えたい相手は誰なのか。書く場所や方法が千差万別になっている今、その読者が誰なのかについても考えていきたい。

2023年5月19日金曜日

谷津バラ園

 水曜日は久々の谷津バラ園。いつもは南船橋で降りて谷津干潟を見てから行くのだけど、この日は水位の高い時間帯だったので、京成線の谷津駅から。


平日の午後3時なので、すいています。


見ごろ宣言から10日近くたっていたので、バラはかなりお疲れ状態で、アップで撮ってきれいなのはあまり多くなかった。きれいなのがあってもそのすぐそばにお疲れのバラが写ってしまう。








小出監督の寄贈したつるバラらしい。









ぬこ発見。




午後4時をすぎると人がかなり少なくなる。閉園は6時なので、日差しは十分あります。

実は水曜日、ちょっと脚の付け根が痛いな、と思ったけれど、たいしたことなかったので出かけた。ところが翌日は朝からひどい痛みで、歩くのも立ったり座ったりも困難に。それで木曜日は寝ていましたが、今日、金曜日はよくなってきたので、一安心です。去年の暮れから今年の2月上旬くらいまでは肉離れで大変だったので。