注意!
当然ですが、この記事はネタバレ全開です!
前の記事で「TAR ター」は後半に出てくる故郷のシーンだけが現実で、あとはベルリン・フィルの指揮者になった妄想と、ゲームイベントの指揮をする妄想では、と書いたが、そうではなく、すべて現実と考えた場合の結末の意味について書いておきたい。
弟子たちに対するパワハラセクハラが問題になり、頭もおかしくなってベルリン・フィルを追われたターは、アメリカの故郷に帰る。ここで兄と思われる人物が、「リンダ、いや、リディアだったな」というので、ターはリディア・ターという指揮者になったという妄想を生きているのではないかと思ったのだが、これは1つの解釈にすぎない。(画像はすべてInternet Movie Data Baseから)
ここであこがれの指揮者バーンスタインのビデオテープを古いブラウン管のテレビで見るというのが引っかかるのだが、一応、今回は全部現実として話を進めます。
東南アジアで指揮をする仕事が来て、ターは東南アジアに向かう。そこで紹介された高級マッサージ店へ行くと、若い女性たちの中から1人選ぶように言われ、目を見開いた5番の女性を見て、ターは気分が悪くなり、逃げ出す。
この女性がターの元弟子かつ元秘書だった女性に似ているのだ。彼女は副指揮者にしてもらえず、ターのもとを去り、ターを告発する側になる。
この女性が音楽の仕事もせずに秘書をしているのというのが気になるのだが、副指揮者にしてもらうには音楽の実績を積んだ方がいいのではないか。秘書になり、音楽の仕事をしていないのでは、副指揮者に選ばれたら完全な情実と思われる。
そして、ターは彼女に似た女性がいわゆるソープ嬢をしているのを見て、指揮者をめざした弟子が音楽家ではなく秘書になっていたことを思い、指揮者を目指したがソープ嬢になってしまった、みたいな感じを受けたのではないか。
それが、ベルリン・フィルの指揮者からゲームイベントの指揮者という自分を重ねたのかもしれないが、その後、ターは滝つぼで身を清め、指揮台に上がる。音楽が始まるとスクリーンが降りてきて、客席にいるのはコスプレしたゲームファンだとわかる。
ベルリン・フィルの指揮者からゲームの指揮者、確かに都落ちだが、それでも彼女は指揮者の仕事ができているのだ。指揮者をめざして秘書になるのとは全然違う。
滝つぼで身を清めたとき、彼女はむしろ落ちぶれても指揮者であることの幸せを感じたのではないだろうか。
コスプレをした客たちはみな、真剣に音楽を聴いていてくれる。クラシックの聴衆とどこが違うのだろう。これがアメリカだったら、ポップコーン食べたり口笛吹いたりかもしれないが。
ゲーム音楽の作曲家はクラシック畑出身者が少なくないし、クラシックの音楽家もポピュラーや映画、ドラマ、ゲームの音楽に関心がある。ター自身、アカデミー賞やエミー賞を受賞しているということは、映画やドラマの音楽を作曲していたのだろう。
指揮台に立つターは幸せそうだ。指揮ができる喜び、音楽を真剣に聴いてくれる聴衆がいる喜び。彼女はこのあと、ゲーム音楽の作曲家として成功し、クラシック界のしがらみから解放され、利害関係のない純粋な愛で結ばれたパートナーと幸せに暮らすかもしれない。
確かにびっくりな結末だけど、あれは決してバッドエンドではないだろう。