10月14日公開のルーマニア映画「ヨーロッパ新世紀」を見に、渋谷まで行った。
監督のクリスティアン・ムンジウの映画は「4ヶ月、3週と2日」も「汚れなき祈り」も好きで、特に「汚れなき祈り」はキネ旬ベストテンで1位に投票したほど好き。私以外の評論家はガン無視だったけど、このブログに書いた映画評はアクセスが多く、多数の人に読んでもらえた。
この2作は試写で見たのだけど、今回は試写を見る機会もなく、しかも上映館があまりにも少なく、苦手な渋谷に行くっきゃなくなったのだった。
ユーロスペースは同じ建物の中の映画美学校試写室に何度か行ったが、映画館は初めて。あのブンカムラ通りの混雑した歩道を歩くことを考えただけでうんざりだったが、しかたない。
が、なぜか、土曜日というのに以前ほど人がいない。歩道もわりとすいすい歩ける。何年も来ていなかったけどどうしたの? 東急本店が閉店したから? その閉店して外観が見えなくなった東急本店の隣にブンカムラの建物があるのだけど、この2つ、つながっているのだよね。
で、そのブンカムラの信号のところを左に折れるとユーロスペース。外から見た様子と、3階のロビー。
実は夕方4時の回が都合がよかったので、そこを予約したのだけど、あとになって監督のオンラインでの質疑応答が上映終了後にあることがわかった。そのせいか、けっこうな入り。
映画はドラキュラ伝説で有名なトランシルヴァニア地方の村が舞台。ルーマニアだがハンガリー人が多い地域で、ドイツ系の人々もいる。地元によい仕事がないのでドイツなどへ出稼ぎに行く人が多く、主人公マティアスもドイツに出稼ぎに行ってトラブって帰ってきたところ。
一方、地元のパン工場は少し前まではサービス残業をさせるブラック企業で、今はそこは治ったが、最低賃金だから地元の人は求人に応募しない。日本同様、最賃で働くくらいなら生活保護の方が割がいいようだ。
そこで工場長シーラはアジア人を雇う。スリランカ人を2人雇うが、とてもよく働くよい人たちなので、さらに増やそうとする。が、非ヨーロッパ人の移民が増えることを村民は快く思わない。やがて、シーラとスリランカ人がパーティをしていると、そこに松明が放り込まれるといった事件が起こる。
シーラは実はマティアスの元恋人で、マティアスは妻とうまくいっていないので、シーラとよりを戻そうとしている。マティアスの幼い息子が森で何かを目撃した、というのが映画の最初のシーンで、この幼い息子をめぐる何やらシンボリックな話と、マティアスとシーラの話と、そしてパン工場のスリランカ人をめぐる騒動の3つの物語が柱なのだが、いまひとつ焦点が定まらず、惹きつけるものを感じない。
多言語文化の村を反映して、せりふはルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語、英語、それにスリランカ人の話す母語などで語られ、ヨーロッパ言語は字幕がつき、言語によって色を変えるという工夫がされている。スリランカ人は主に英語で話しているが、母語と思われる言語のときは字幕がつかない。
「福田村事件」で標準語、利根川弁、讃岐弁が混在していたのを思い出すが、字幕で色を変えた程度ではこの多言語がルーマニアの人々にはどう聞こえるのかはわからない。
スリランカ人を追い出せという村人たちは集会を開き、そこで村人たちとシーラたちが対立する。マティアスは中立的というか、どっちにもつかない、どっちつかずの立場。
この集会シーンがカメラをほとんど固定した長回しで、それぞれの主張のやりとりが面白く、日本と重なる部分もとても多くて納得してしまう。スリランカ人のことよりも最賃が安すぎること、まともな仕事がないことを村人が主張すると、工場の経営者は賃金を上げるとパンの値段が上がるといい、すると村人は経営者はベンツに乗っているといい、まんま日本と同じ。
スリランカ人については、彼らがどんどん増えるという危惧、まったく別の世界の人たちは未知の病気を持ち込むかもしれないという不安を村人は語る。
このクライマックスの集会シーンはいろいろな問題が提議されて面白いのだが、それ以前の部分がどうもとりとめのないような感じで、ムンジウの映画としては今回初めて、うーん、イマイチ、と思った。
このあとの展開については、監督の質疑応答で話されたことを含めて書きます。ネタバレ大有りなので注意。
映画が終わったあと、オンラインでスクリーンにムンジウ監督と通訳が登場。が、映画館側のマイクがハウリングしまくりで、あまりスムーズに行かなかったのだが、観客の質問に対する監督の答えには興味深いものがあった。
まず、原題の「R.M.N.」は日本ではMRIと呼ばれている検査のことだという説明が監督からあった。
映画の中ではマティアスの父がこの検査を受けると、脳の右半分が真っ白になっていることがわかる。これは人々の思考からだいじなもの、たとえば理性が失われていることを示すのだろうか?(そういう質問は出なかったのだが。)
これ以外にもこの映画にはシンボリックで謎めいたシーンが出てくるのだが、特にラストがよくわからず、これは質問が出た。スリランカ人は全員帰ることになり、工場長のシーラはドイツに仕事を得る。マティアスは護身用にシーラに銃を渡していたが、シーラはそれを知り合いのフランス人男性に託して、マティアスに届けさせる。
マティアスは夜中に暴動のような音で目覚め、妻子が身を寄せている家を訪ねるが、夜中だからと拒絶される。犬からも激しく吠えられる。
そのあとシーラの家へ行くと、シーラはチェロを演奏している。マティアスを見ておびえた彼女は外へ逃げ出す。マティアスは銃を向け、発砲するが、それは彼女の向こうにクマがいたからだ。
シーラはマティアスに謝る。一方、マティアスが発砲したクマのところに獣が何頭も現れる。
これについての監督の解説は次のとおり。
「シーラはマティアスが最もつらいとき(集会の間に父が首つり自殺)に彼の支えになってやらず、銃を他の男に渡して届けさせた。彼女が謝ったのはそのためである。」
(監督は、銃を他の男に届けさせたというのを重要視しているが、その詳しい説明はなかった。銃が象徴的なものだということはほのめかしていたが。)
「マティアスは邪悪なものが外にいると感じて愛する人たちのところへ行ったが、クマに向って発砲したあと、他の獣が出てくるのを見て、邪悪なものは自分の心の中にあると悟った。」
「あのシーンは邪悪なもののいる世界と、(シーラがチェロを弾いている部屋のような)明るくおだやかな世界が対比されている。」
メモをとったわけではないので正確ではないと思うが、ラストについては監督はこう説明していた。
まあ、この説明聞いても、そんなに腑に落ちないんですけどね。半分くらいしか納得できない感じ。
このほか、アジア人を排除するような不寛容について、それをどうしたらなくせるかということについて、監督は「教育だ」と言っていた。この不寛容についての監督の発言は全体に模範解答的で、集会シーンにあったような一筋縄ではいかない現実とはかけ離れている気がする。ものごとはそんなに単純ではないと、監督自身思っているに違いないのだが。
この映画は実話をもとにしているか、という質問については、実際にある村でスリランカ人を排除しようとする集会が開かれ、その場面が録画されてインターネットで拡散されてしまったという事件があり、それをもとにしたという。そのときの反響がどんなものだったかも知りたかったが、それ以上の話はなかった。おそらくヨーロッパでは、排除はとんでもない、という意見が圧倒的になるのだろうが、日本ではそうならないだろうという気がする。もともと日本は外国人労働者は原則としては認めない国なので、認めているヨーロッパとは違うだろう。
そんなわけで、日本をほうふつとさせるムラ社会と労働環境なのだが、全体としてみると、集会に至る人間関係のドラマがイマイチで、森の中で何かを見た少年のような象徴性もイマイチで、もっとうまく作れた映画なのではないかと思ってしまう。スリランカ人拒否の不寛容についても、地元の人がやりたがらない安い賃金の仕事を貧しい国の人々にやらせるのが寛容さなのかという疑問もある。