振り返ってみると、私にはターニング・ポイントの年がいくつもあった。
まずは1976年。大学3年生だったが、私はその大学は第6志望で、なおかつ、専攻はその大学の第2志望だったという、本当なら浪人したいところだったが、すでに一浪だったので、やむなく入ったという大学だった。
実際、1975年には一時、登校拒否になっていたのである。
しかし、2年目の終わりに、私の英語力が認められることがあって、3年目は期待に満ちた年だった。そして、この年に出会ったのが、スタンリー・キューブリック監督の映画「バリー・リンドン」。魅せられた私は、それまではアメリカ文学志望だったのに、これでイギリス文学志望に変更。以後、ヴィクトリア朝からモダニズムのイギリス小説の研究者を志望することになる。
2年後に思いがけず、最高峰の大学院に入学。しかし、そこで今度はさまざまな差別に出会い、研究者への道を断念する事態になる。
そして1984年、「フランケンシュタイン」翻訳本の解説で評論家デビュー。その後、「キネマ旬報」に拾われ、映画評論家になり、また、雑誌その他で翻訳の仕事もできるようになった。
その後は無名ながらも編集者に恵まれ、好きなことを書いていたのだが、それも長続きせず、1990年になって、仕事を失う。しかし、私の書くものを気に入ってくれる人たちが援助してくれて、細々ながら評論家として生きながらえた90年代。
そして、1997年、大きなターニング・ポイントが来る。
その年の春、長年、収入の大きな要素を占めていたある短大の仕事がなくなり、これはなんとかしなければ、と思った私は、一念発起して、あちこちに電話。その結果、キネマ旬報に復帰できたばかりか、英米小説の翻訳の仕事をゲットしたのだった。
1997年は本当に大きなターニング・ポイントで、ここで得た仕事でしばらく食いつないでいた。
特にキネマ旬報での新たな編集者との出会いは貴重だった。
1997年に出会った、私がどうしても翻訳したいと思い、そして、多くの人の協力で翻訳することができた「テロリストのダンス」、それがきっかけで翻訳することができた数冊の作品。そして、97年から始まったキネ旬での新たな活動。これは本当に、大きなターニング・ポイントだった。
結局、翻訳の方は超氷河期のために、私が期待したような結果にはならなかったが、映画評の方はその後、10年以上にわたって、好きなことを書かせてもらえた。
あれから16年がたってしまい、97年のあと、ターニング・ポイントになる年がないまま、今に至っている。何かしなければ、と思いつつ、なかなか変化は来てくれないものです。