先日、久しぶりに授業で「グレート・ギャツビー」を取り上げ、映画館で上映中のディカプリオ版を紹介し、ついでにレッドフォード版のクライマックスをちょっと見せたのですが、久々のギャツビーの授業はまんざらでもなかったという感じでした。
実は、数年前、別の大学で「ギャツビー」を数回にわたって、原作を翻訳できちんと読みながら映画を参照、というのをやったのですが、どうも受けが悪かった。毎回小レポートを書いてもらっていたのだけど、女子が多いせいか、なんだかピンと来ないらしいのです。
特に、「ギャツビーは一歩間違えればストーカー」という意見がいくつかあったのには驚きました。
うーん、確かに。
まあ、彼は遠くからデイジーを眺めているだけで、デイジーがパーティに来ることを望んでいるのですが、デイジーは来てくれない。そこでデイジーの親戚のニックを利用してデイジーと再会するのですが、ギャツビーはデイジーに対してまったくごり押しはしてない。再会したデイジーがギャツビーに(あるいは金持ちになったギャツビーに)惚れ直し、という感じなので、ギャツビーはまったくストーカーではないのですが、ストーカーに変えてサスペンス映画にすることも可能か?(おいおい)
とにかく、大学生女子にはギャツビーの心情が理解できないようで、1人の女性を愛し続けるということ自体がストーカーと紙一重なのか?
学生の感想の中には、「こういうのは男のロマンにすぎない」と切り捨てたのもいて、うーん、確かにそうかも。
一応、原作の翻訳を教科書として全員に買わせ、ニックの語りの重要なところとかきちんと読んで、この結果ですので、私が悪かったとも思えないのですが。
男子学生の反応もあまりよくなく、今の若い人には受けないのかもしれない、と思ったので、それからギャツビーを授業で取り上げなくなってしまったのです。今回取り上げたのは、映画館で上映中だからということもありました。
今回取り上げた大学でも数年前までは取り上げていて、そのときはさほど反応は悪くなかったのです。ただ、こちらは1回で取り上げたので、ギャツビー、デイジー、トム、マートル、ウィルソンのぐちゃぐちゃの人間関係がどうしても強調されてしまい、逆にそれが学生には興味を持たれた、という感じがあります(今回も)。
以前はギャツビーというと、村上春樹の翻訳が一番の話題でしたが、今の若い人は村上春樹を読まないということがそのときわかり、愕然としたものです。村上春樹のファンはわりと年配の人に多いようでした。
そんなわけで、現在上映中のディズニーランド化して若者向けになった?新「華麗なるギャツビー」も、私の行った映画館はレディスデーでしたが、思ったより年配の男性が多く、「レディスデーだと損したような気分になっちゃうよ」などと言っているおじさまがいたりするのでした。
1974年のレッドフォード版はそれほど悪くない、と前にも書きましたが、レッドフォード版のファンが意外に多いこと、ディカプリオ版はレッドフォード版を超えるか、などといったことがネットに書かれていて、レッドフォード版は映画ファンにはそれなりに評価されているようです。アメリカの映画サイトのコメント欄にも、レッドフォード版は過小評価されている、という意見がありました。
「華麗なる」という言葉を使った映画タイトルには、60年代に「華麗なる激情」や「華麗なる賭け」がありましたが、現在、「華麗なる」というと、まず「ギャツビー」、それから「華麗なる一族」が連想されるようです。リアルタイムのときには「華麗なる賭け」が高い評価を受け、「ギャツビー」は低い評価でしたが、今では「賭け」より「ギャツビー」の方がはるかに多くの人に見られているのではないかと思います。