このところ、映画の授業の関係で、「ブラック・スワン」をDVDで再見していた。
そこで気がついたのは、この映画には「完璧」というせりふが何度も出てくることだった。
それは「パーフェクト」とか「パーフェクション」といった英語で、字幕でもほぼすべて完璧と訳していたが、1箇所、パーフェクトを超一流と訳しているところがあった(その方がわかりやすいからだろう)。
確かにニナは最初の方のシーンでも「私は完璧をめざしたい」というようなことを言っている。それに対し、芸術監督のトマは、「きみはテクニックは完璧だが、それだけではだめだ」といい、「自分を解き放て」という。
ニナにとって完璧なのはバレエ団のベテラン・プリマ、ベスだ。ニナはベスにあこがれていて、彼女の口紅を盗んで唇に塗ったり、彼女の私物を盗んだりして、ベスになりたいという思いをかなえようとしている。その上、トマもベスのことを「完璧だった」という。ベスは引退させられるが、トマはベスのことをずっと「マイ・リトル・プリンセス」と呼んで特別扱いしている。後半、自動車事故で大怪我をしたベスを訪ねたニナは、「あなたのように完璧になりたい」という。しかし、ベスは「私は完璧じゃない」といい、そして、自分の顔を傷つける。
一方、芸術監督のトマについては、ニナのライバル、リリーが、トマのことを「完璧主義だ」というようなことをいう(ここが字幕だと「超一流」になっている)。
そしてラスト、「白鳥の湖」を踊りきり、倒れたニナがいうせりふが「完璧」。
ニナにとって、完璧とはなんだろうか?
完璧に踊れたということか?
いやむしろ、彼女は踊りきったとき、トマとリリーと母の3人に認められたと感じ、それを「完璧」といったのではないか。
バレエの出だしで失敗したニナは、その後、みごとに黒鳥を踊りきる。トマはニナを絶賛し、ベスに対しいっていた「マイ・リトル・プリンセス」という言葉をニナに対して初めていう。ライバル、リリーはニナの楽屋を訪ね、「すばらしかった」と賛辞を贈る。そのあと、ふたたび白鳥を踊るニナの目に映ったのは、娘の踊りに感動して涙を流す客席の母。トマとリリーと母の3人に認められたことが彼女にとっての「完璧」だったのではないか。
ニナはそれまでずっと、トマとリリーと母のプレッシャーを感じていて、そのために幻覚を見るようになっていたが、それだけ、この3人に認められたかったのだ。
ラスト、腹に深い傷を負ってニナは死んでいくが、完璧な踊りができて、なおかつあの3人に認められたのだから、今ここで死ねばまさに「完璧」ではないか。
踊ることが人生の目的であれば、ニナはここで死ぬべきではない。これからも精進して、もっとすばらしいバレエを見せるべきだ。しかし、認められたいという気持ちが人生の目的だとしたら、ここで死ぬのが完璧なのだ。なぜなら、絶賛されること、認められることは一瞬なのである。今、ニナはすばらしい踊りを披露して、3人に認められ、絶賛されたが、それは今このときだけのこと。明日からはまた別の日が始まり、失敗や成功の繰り返しがやってくる。認められることが目的では、また不幸な日々が続いてしまうだろう。
人は誰だって認められればうれしい。認められないと思えば悲しい。でも、認められるのは一瞬の結果にすぎないし、すべての人に認められることはありえない。逆に、自分はいったい、どれだけ他人を認めているだろうか、と疑問に思う。認める、認めないなんて、その程度のことなのだ。だいじなことは別にあって、認められるのはそのあとについてくるおまけみたいなものであるべきなのだろう。
実は、私の授業では、「サンセット大通り」、「ミリオンダラー・ベイビー」、「ブラック・スワン」を並べて、芸術やスポーツに命を賭けた女性というテーマを出してみたのだけれど、3つとも、女性主人公は命を賭けたものをやり続けることができなくなって死んでいる(「サンセット大通り」の女優は精神的な死だが)。まさに芸術やスポーツに殉じたヒロインということになるのだが、これ以上続けることができない、ということがポイントになっていることに気づいた。ただ、この3本はたまたまそういう映画で、芸術やスポーツに命を賭ける女性の物語がすべて悲劇というわけではない。でも、悲劇のヒロインの方が絵になりやすいし、客を感動させやすい、というのはあるだろうな。