「わたしはロランス」が公開中のカナダの若き新鋭グザヴィエ・ドランの処女作「マイ・マザー」を見てきた。
「わたしはロランス」が23歳の作ならば、こちらは19歳のときの作品。10代後半で優れた小説を発表する人は少なくないが、映画となると大勢の年上の人を動かさねばならず、技術だけでなくさまざまな面で若いとむずかしいと思うのだが、19歳とは思えない成熟した出来栄えで驚いた。
「わたしはロランス」に比べるとまだ洗練が足りないが、内容的にはむしろ、こちらの方が深いものを感じさせる。
主人公はドランの分身を思わせる16歳の高校生ユベール(ドラン自身が演じている)。両親は幼い頃に離婚し、母親と2人暮らし。父親は近くに住んでいるが、たまに会う程度。低所得の母親は息子を育てるために懸命に働いてきたが、洗練されたところがなく、服装はださく、いつも意地汚くものを食べ、やたら息子にうるさい。そんな母親にうんざりしているユベールは、祖母の遺産を使って1人暮らししたいと思うが、母親に反対される。
ユベールはゲイで、同性の恋人がいる。その恋人の母親は男をしょっちゅう取り替えているようなあけっぴろげで自由な女性で、息子が同性愛でもまったく気にしていない。その彼女が、ユベールの母親と会ったとき、息子たちがゲイの関係であることを話してしまう。ユベールの母親はショックを受け、というところから話はどんどんと転がっていき、ユベールの母殺し(原題は「私は母を殺した」)はしだいに別の方向へと変化していく。
(このあと、最後までネタバレ大ありで話を進めるので、注意してください。)
もともとこの映画の元になったのはドランが16歳のときに書いた短編小説で、それは母殺しを題材にしていたのだという。やがてそれが脚本になり、映画化へと進んでいくのだが、この映画でもユベールは母親に死んでほしいと何度も思う。特に、ある授業で、女性の先生から「親の年収や勤め先の福利厚生について調べてくるように」という課題を出されたとき、ユベールは母殺しをする。「父親とは長く会っていないし、母親はもう死んだので、おばについてでもよいか」と教師に言うのである。教師はそれを信じて許可するが、それを知った母親は、「私を死人にした」と学校に怒鳴り込んでくる。
このことがきっかけで、ユベールはこの女性教師と親しくなる。「わたしはロランス」の主演女優スザンヌ・クレマンが演じるこの教師は、ユベールにとっての第2の母のようになる。
しかし、物語が本当に動くのはこのあとだ。ゲイの恋人の母親が自分の母に息子同士がゲイだと教えてしまい、ユベールの母は大ショックを受ける。さすがに同性愛は許さないとは言わないが、そのかわり彼女が何をしたかというと、父親を訪ね、ユベールの成績が悪いことを理由に彼を寄宿学校に入れることにしてしまうのだ。
もちろん、映画の表面上は、ゲイの恋人から引き離すために寄宿学校へ入れるということはまったく匂わせていないし、週末や夏休みにはユベールは恋人に会える。しかし、母親が離婚した夫を訪ね、2人でユベールを寄宿学校へ入れてしまうというのは、母親が父親の価値観と同化したことを意味する。ユベールの父親は育児がいやで離婚したのであり、たまには息子に会っていたとはいえ、クリスマスにはカードを現金を送るだけ。母親が身を粉にして働いているのを見ると、養育費を十分に払っていたのかどうかは疑わしい。そんな父親に母親は接近して、息子を寄宿学校へ入れることにしてしまうのだ。
ユベールの母親が存在感たっぷりに描かれるのに対し、父親はあまり出番もなく、どんな人物なのかわかりにくいが、ここで母親が父親とタッグを組んでしまったというのは示唆的だ。しかもきっかけは息子がゲイだとわかったこと。いわゆる男性中心主義、男性権威主義とは正反対のゲイという存在に対し、母親は男性中心主義の父親(育児が嫌いなわけだから)に擦り寄って、息子を寄宿舎に入れ、ゲイの恋人から離そうとしたのである。
ユベールは1年は我慢するが、2年目も父と母が自分を寄宿舎に入れると知ってついに学校から逃げ出す。校長が母親の勤務先に電話し、ユベールの失踪を母子家庭のせいにすると、母親は激怒する。「私は躁鬱症の母親を看取り、息子を育てるために必死で働いてきた。それを母子家庭だからどうとかいうあんたはマッチョ主義だ!」
ここで胸のすく思いのする女性は多いのではないだろうか。よく言った、である。
このあと、母親はユベールとその恋人のいる場所へ出かけ、息子の恋人と対面する。息子がゲイだと知り、父親に擦り寄って息子を恋人から離そうとした母親が校長の電話に激怒、ついにゲイを否定するマッチョ主義と決別し、息子の恋人に会うことができたのだ。
ドラン自身がゲイであることを考えると、母殺しのテーマが最終的にゲイを否定する父親的権威の否定となり、母が息子の味方になるという結末は非常に納得のいくものだ。
19歳のドランは主人公の少年の立場だけでなく、母親の立場にも立って話を進めていく。最終的に母が息子の味方になったとき、息子は母を理解することができたのだ。女手ひとつで息子を育てる低所得のださい母親を、ドランは19歳とは思えない洞察力で描いている。最後まで見たとき、この映画は何よりも母親の映画であり、1番の主役は彼女を演じたアンナ・ドルヴァルであることがわかるのだ。
「わたしはロランス」映画評はこちら。http://sabreclub4.blogspot.jp/2013/08/blog-post_13.html