2013年12月31日火曜日

いさみ湯

埼玉県川口市芝にあった銭湯、いさみ湯は、私が7年間通った銭湯だった。
当時、私は英文学者をめざして安い風呂なしトイレ共同アパートで節約しながら生活していた。川口市芝は最寄駅の京浜東北線蕨駅から徒歩17分くらい。私は時速6キロで歩くので、そのアパートは駅から道のりで1・7キロであった。
川口市はとても広い。当時は川口市の中に鳩ヶ谷市があったが、今は合併してさらに広くなった。駅で言うと、川口、西川口、蕨、東川口、東浦和。このあたりから歩いたりバスに乗ったりして多くの人が帰宅する。
かつては「キューポラのある街」の舞台として有名だった川口市だが、これだけ広いと場所によってイメージがだいぶ違う。
私が住んでいた川口市芝は、蕨駅に近い芝何丁目というところからさらに遠い地域で、正式には大字芝といい、そのあとに4ケタの数字が来る。トイレは水洗ではなかったし、ガスはプロパンだった。当時はバスが1時間に2本しかなく(今は5本くらいあるらしい)、かなり不便だったので、家賃が激安だった。4畳半の畳の部屋に1・5畳の板の間、広いベランダ、1畳の台所、1間の押入れ。トイレは共同、風呂は銭湯だったが、これで家賃1万1千円。銭湯は当時は180円くらいだったから、生活費はとにかく安くすんだ。また、当時は国立大学の授業料が激安だったので、私のように自活学生でも家庭教師を週に3日もやれば、大学院の博士課程まで行けたのだ(今はまったく違う)。
W・M・サッカレーについての卒業論文、E・M・フォースターについての修士論文、博士課程に入ってから書いたさまざまな論文、そして、1984年2月発行の「フランケンシュタイン」解説はすべて、この安アパートから生まれた。キネマ旬報の最初の仕事もこの部屋から生まれた。
そう、2014年は私の評論家デビュー30周年で、その基礎はすべてこの川口市芝の安アパートで築かれ、私は徒歩1分のいさみ湯に通いながら、論文や評論を書いたのだ。
そういえば、最初に翻訳で報酬を得たジョージ・エリオット作「ロモラ」(集英社文学全集、一部分を下訳)もここで生まれたのだ。
その後、アパートの大家さんの引っ越しに伴い、私は都内に引っ越したのだが、いさみ湯に再会したのはそれから20数年後。埼玉県の某大学で非常勤講師に採用され、その大学の近くからバスに乗って蕨駅へ行くと、途中でいさみ湯の前を通ることがわかった。
前のアパートと、そして、隣に建っていた一軒家は駐車場になっていたが、いさみ湯は健在だった。しかし、その後、いつのまにか廃業し、現在はそこも駐車場になっている。
こんなことなら廃業前に銭湯に入ればよかったと思うのだが、廃業寸前に入った人のブログがある。モノクロ写真がみごと。
http://furoyanoentotsu.com/isamiyu_warabi20101219.html
蕨駅から1・2キロと書かれているが、これは直線距離だろう。実際は直線コースで行くことはできず、時速6キロの私でも17分近くかかる。同じく廃業寸前に訪れた別の人のブログでは、帰りに駅まで24分かかったと書いてある(この人は行きは道に迷いに迷ったようだ)。
実は、この川口市芝の銭湯の名前がいさみ湯だということを忘れていた。検索して、いさみ湯という名前を思い出した。
銭湯の名前って、覚えていないものなのだ。生まれた時から銭湯暮らしなのに、名前はほとんど思い出せない。
鶴の湯の近くにはふくの湯というのがあって、こちらもずいぶんお世話になったのに、どちらも名前を意識したのはわりと最近のこと。ふくの湯はリニューアル前の富久の湯の方が親しみがある。
キネ旬をはじめ、さまざまな雑誌に書いた評論、そして翻訳の数々は、鶴の湯と富久の湯のお世話になりながら風呂なしアパートで生活していたときに生まれたものだった。ある意味、銭湯の暮らしが、私の評論や翻訳(そして、コミケで売っていた小説など)を生み出していたのだった。

なんだかいろいろあった1日

もう日付変わって大晦日ですが、前日の30日は昼間からいろいろあって、なんだかなあな1日。
まずは昼間、コインランドリーが大混雑。でもなんとか洗濯と乾燥をして、帰宅したら、水色のハンカチが行方不明。ランドリーに戻るも見つからず。いったいどこに?(かなり古いから別にいいけど。)
夕方には某所の猫たち数匹に会い、それから某駅方向に向かって歩いていたら、けたたましいサイレンが。火事だ、と思いましたが、私が行く方向とは別の方向だったので、そのまま某駅で。ファミレスで夕食を食べたり、買い物をしたりして、1時間後くらいに某所のやなか珈琲の近くへ行くと、なんと、消防車が停まっている。そして、やなか珈琲店の中に消防士たち数人が。前の道路には放水のあと。
えええ、やなか珈琲が火事だったの?
しかし、外から見る限り、店内はそんなひどい状態には見えません。消防士の1人が、店のすぐ横の入口の上の方(階段がある?)をのぞいていたので、この建物の上の方が火元だったのでしょうか。いずれにしても、ボヤ程度だったのでしょう。見た感じでは、火事を思わせる様子はなし。
不謹慎なので写真は撮りませんでしたが、ネット上にあった店の写真。コーヒー豆を売る店で、コーヒーも飲めますが、席は少ないです。右に入口があります。

このやなか珈琲は別の店をよく利用しますが、コーヒーが安くてとてもおいしいです。別の店ではケーキやホットサンドもあります。基本は豆を売る店ですが、あちこちに支店があるよう。

そして帰宅後はまた廃業間近の鶴の湯へ。先日は男湯と女湯が交換していて、男湯に入れたけれど、最後にもう一度女湯を、と思って行ってみたら、いまだかつてない大混雑。この時間帯でこの混雑っていったい、と思ってしまいましたが、それより驚いたのは、女湯のマナーの悪さというか、一部の人なんでしょうが、うーむ。女湯の入口に注意書きの貼り紙があったのですが、こんなもの、いまだかつて見たことなかった。あちこちで紹介されたらしいので、それでマナーの悪い人が来るようになってしまったのでしょうか。とにかく、まわりに人がいるのに立ったまま上からお湯を体にかけるとか、今までいろんな銭湯へ行ったけど、まず見たことのない光景です。
というわけで、30日はたまたま残念な体験になってしまいましたが、この銭湯は朝湯は高い窓から日がさしてとてもいい感じなので、その最後の朝湯を常連さんが楽しんでくれるようにと思います(私は朝が苦手なので、今回が最後の鶴の湯になります。風呂なしアパート時代にお世話になった銭湯、ありがとうございました)。

2013年12月29日日曜日

今年もあとわずか。

年末の上野から御徒町は大混雑なのだけど、いろいろと安い物を仕入れないといけないので、大混雑のアメ横は避けることにして、ショッピングに出かけた。
その前に、近所の住宅街のど真ん中にある小さな雑木林。夏に行ったら蚊がすごくて、長居はできなかったので、冬にゆっくりと見る。

山火事注意の立札が倒れていた。そのすぐ前の小道は木の根っこが浮き出していて、足元注意。
  まわりは民家。

常緑樹が多い。


鳥がたくさんいて、鳴き声が絶えない。




不忍池の鴨。きれいな色をしている。

口を水につけたまま、あちこち泳ぎまわっていた。

雀。鳥に餌をやっている人たちが何人もいて、鴨やスズメが集まってくる。餌やり禁止の立札があるのだが、餌をやっているのはどうやら外国人のよう(白人&アジア人)。

立札がジャパニーズ・オンリーなのだ。

これでは外国人は釣りをしてしまう。上野公園はもっとインターナショナルにならないと。実際、外国人の観光客は上野周辺はかなり多く、アメ横も人気のようです。

松坂屋南館のケーキ屋さんのティールームに入る。
ここは前から入ってケーキが食べたかったのだが、わりといつも混んでいて、お値段もお茶とケーキで1500円近く行きそうなのであきらめていたけれど、この日はあまり混んでいなかったので、思い切って入ってみた。クリスマスにケーキを食べていないのでちょうどいい。
頼んだのはミルフィーユとセイロン・ティー。ミルフィーユはフルーツが何種類もはさまっている。クリームがあまり甘くないのでフルーツの甘みがおいしい。久しぶりにおいしい紅茶とケーキで大満足。

御徒町駅のそばの広場のイルミネーション。富士山世界遺産記念だそうです。

広場をはさんで2か所にあります。奥のサンマルクカフェはいつも混んでいて入れない。

2013年12月28日土曜日

東京ドームシティの近くに

こんなものがありました。
東京都戦没者墓苑。

ここは神社ではなく、単なる墓苑のようです。餌をやる人がいるのか、池の前に立つと、鯉がみんなこっちへ来る。

こんな感じの場所。遠くに東京ドームホテル。手前は太平洋各地の戦場で亡くなった人の数が書いてあります。

建物の中に入れるのかどうかわからなかった。

墓苑の外にあった伝習所跡。

墓苑の前は公園になっています。見下ろすと26の文字(平成26年と思われる)。道路の向こうは文京シビックセンター。右が後楽園駅。

ラクーアの建物とジェットコースター。しばらく休業中だったジェットコースターが営業していた。

上の公園から下の公園へ降りていく。壁に羊とライオン。

正面から。ここは水が流れるようになっているようだ。

東京ドームの向こうに夕暮れの光。

実物はもっときれいだった。

みなさん、高いところが好きですね。

暗くなるとイルミネーションが始まるのだが、その頃にはよそへ移動してしまった。

男湯

生まれて初めて男湯に入ってしまいました。
あ、いや、物心つかないガキの頃には、父親と男湯に入ったことがあるかもしれない。なにせ、私は生まれたときから銭湯だったんで。
今回入ったのは、1月2日の朝湯で廃業してしまう某所の鶴の湯。前にも何度か写真アップしましたが、なくなっちゃうのか、とりあえず、行けるときに行こう、と思い、先日、夜に鶴の湯へ。
すると、なんと、その日は男湯と女湯が入れ替わっていた。というのも、撮影隊が来ていたかららしい(男湯は撮影自由だが、女湯は撮影できないので、入れ替えたのだろう)。
んなわけで、ラッキーにも、生まれて初めて、鶴の湯の男湯に入った。
まずは、この、赤い富士山。

実際に見たときはもっと赤く感じましたね。写真は銭湯の写真を公開している某ブログからです。
下の三角形の熱帯魚が、日本の金魚の女湯と違う。あとは、やっぱり、全体に男っぽい雰囲気が脱衣所などにもありました。鶴の湯を描いた絵や、いろいろな写真が飾ってあった。
そして、なにより見たかったのは、男湯にしかない小さな庭。夜なので暗くてあまりよく見えませんでしたが、ライトに照らされた桜の木などが見えました。
クリスマスの飾りつけがいろいろしてありましたが、携帯もカメラも持っていかず、何も撮れませんでした。帰りに撮影隊が外から銭湯を映そうと出てきたので、退散。
あと1回、もう一度女湯を見に行こうかな。
朝湯も、ここは高い窓から光がさして、なんともいえないいい気分なのですが、最後にここの朝湯に入ったのはいつだろう。たぶん、20年以上前じゃないかな。朝が苦手なので、朝湯はなかなか行けません。この銭湯の朝湯も、午後1時までだったけれど(来年の朝湯は正午まで)、朝寝坊の私はいつもぎりぎりに行って、もう閉めちゃうよ、とか言われながら入ったものでした。
数年前に廃業してしまった、隣の区の初音湯が1月3日から通常営業しているとわかってからは、3日に初音湯に行くことにしたので、朝湯は行かなくなっていたのだ。
この初音湯は湯の温度がすごく高くて、しかも、こわいオバサンが見張っていて、水でうめるなとうるさい。私は当時は高い温度の湯が好きだったので、決してうめなかったのに、入ると、そのオバサンが「うめるな」と言うのだった。まあ、銭湯というのは、そういううるさい常連もいて、その辺がむずかしいところでもあったなあと思う。
鶴の湯は9月末の休業直前のときはかなり熱かったが、今回行ったら、それほど熱くなかった。外の気温にもよるのかもしれない。

2013年12月27日金曜日

六本木で試写3本

25日と26日は六本木で試写を合計3本見た。たぶん、これで今年の映画は打ち止め。
25日はクリスマスとあって、六本木は地下鉄の出入り口から歩道まで人でいっぱいで、歩くのも大変だったが、26日は特別混んでいなかったので、やはりクリスマスの六本木は混むのだろう。
映画はアメリカの黒人監督リー・ダニエルズの「大統領の執事の涙」、韓国のポン・ジュノ監督の「スノーピアサー」、イギリスの黒人監督スティーヴ・マックイーンの「それでも夜は明ける」。いずれも見ごたえのある作品で、試写も大盛況。

「大統領の執事の涙」は、1950年代のアイゼンハワー大統領から80年代のレーガン大統領までの間、ホワイトハウスの執事をしていた黒人男性の物語。実話からインスパイアされた物語、となっているので、かなり脚色されているのだと思うが、物語は主人公の黒人男性セシル(フォレスト・ウィテカー)が1920年代に南部の黒人奴隷の少年だった時代から始まる。
1920年代といえば、南北戦争が終わって奴隷制が廃止になってすでに数十年はたっているはずなのだが、いくら憲法で奴隷制が廃止にされても現実はなかなか憲法どおりにはいかない、というのはどこの国も同じらしく、20世紀になってもまだ南部の農園では黒人が奴隷として働かされていたのだ。
父を白人に殺されたセシルは白人の老婦人の家で給仕となり、その後レストランで修業、やがてホワイトハウスから声がかかり、執事となる。「日の名残り」でもわかるように、執事は空気のような存在でなければならず、政治や社会に関心を持つことなく、ひたすら主人に仕える。そんなわけで、セシルは白人に黙って仕える執事となり、黒人差別や公民権運動には関心を示さず、距離を置く。一方、セシルの息子はキング牧師やマルコムXに共感し、差別に反対するさまざまな活動に参加する。
アメリカでは20世紀半ばくらいまで、黒人と白人は学校も別、トイレも別、バスの座席も別だった、ということは、私くらいの年齢ならば、雑誌や新聞で見て知っている。キング牧師もマルコムXも、ここに描かれる黒人生徒が白人の学校へ行こうとしたときに起こった騒動も、バスの座席の差別に反対する人々の運動も、そしてKKKの恐怖も、リアルタイムで目に入っていた(日本にいても、である)。
しかし、今の若い人たちには、そうしたアメリカの人種差別の歴史を知らない人が多いらしい。アメリカになぜ黒人がいるのかも知らない、と、どこかの学校の先生が書いていた。
そういう人たちには、この映画はアメリカの20世紀を知る格好の教科書だ。ただ、教科書としてはちょっと不親切かな、と思うのは、たとえば、パブロ・カザルスがフランコ政権を支持する国では演奏しない、というようなせりふが出てきても、それが何のことかわからない人が多いのではないかと思うのに、解説が何もないことだ。これ以外でも、解説が必要なのでは、と感じるところがけっこう多かった。映画を見ただけではわからない人も少なくないだろう。
それと、映画自体がちょっと冗漫というか、もう少しメリハリのある演出にできなかったかなあと思う。
それでも、いろいろと学べるところは多い。ベトナム戦争で、なぜ黒人たちが兵士になっていったのか、それは貧しさだけでなく、黒人の多くがベトナム戦争賛成だったかららしいというようなことも描かれている。また、アメリカは他国のことを批判するが、アメリカ自身が南アのアパルトヘイトと同じことをしていたのだ、というようなせりふもある。いろいろ盛りだくさんの映画で、俳優も歴代大統領やその夫人にロビン・ウィリアムズ、ジェーン・フォンダなどのスターが扮していて楽しめる。

いろいろ盛り込みすぎな感のある「大統領の執事の涙」に対し、「それでも夜は明ける」は非常にまとまりのよい映画だ。
「SHAMEシェイム」のときは監督のマックイーンがアフリカ系のイギリス人であることはほとんど話題にならなかったが、今度は19世紀アメリカの奴隷制の時代を描くということで、アフリカ系であることが注目されるかもしれない。
ただ、イギリス人ということで、アメリカの黒人問題にもある種の距離感があり、そこが白人監督の距離感に近い感じもする。
物語はこちらも実話がもとになっている。まだ南北戦争が始まる前の時代、北部で自由人としてそれなりの地位を得ていた黒人ソロモン(キウェテル・イジョフォー)は、ある日突然、奴隷として南部の農園主に売られてしまう。当時はアフリカから奴隷を連れてくることは禁止されていたので、北部の自由な黒人たちがねらわれたのだという。ソロモンと一緒に売られた黒人の中には、身分は奴隷だが召使としてきちんとした待遇を受けていた人もいて、主人に助けられる人もいれば、息子がさらわれ、助けに来た母親と妹も売られてしまうというケースもある。
ソロモンの場合は生まれたときから自由人で、奴隷だったことがないので、「大統領の執事の涙」の主人公よりもよい身分だったわけだから、その衝撃は大きかっただろう。というか、そういう現実に対して無防備だったのだろうか、と疑問に思わなくもないが。
この映画は主要人物を少人数に絞り、奴隷となったソロモンのサバイバルを中心に描いているので、「大統領の執事の涙」より少し長いのに、こちらの方が短く感じる。あれもこれもと欲張った「大統領~」に対し、こちらは余計なものをそぎ落としてきちんとメリハリをつけ、観客の集中力が途切れないようにしているからだ。
「SHAME」にあったようなとんがった映像も過激な描写もないが、静かに耐えながらも自分を見失わないソロモンの生き方にひきつけられる。「大統領~」の主人公も静かに耐えながら、というか、自分を抑えながら生きていたのだが、過激に生きる息子との対比の中では主人公の生き方はどこか否定的に見られてしまう。しかし、ソロモンの場合は、静かに耐える以外生きる道はないのであり、ほかに選択の余地はない。この選択の余地があるかないかがこの2つの映画の主人公の違いだ。
もちろん、「大統領~」の執事の場合は、選択の余地がある中で、このように自分を抑えざるをえなかった人々の存在意義も描いているので、決して否定されるべきものではないのだが、それしか選択の余地がない中で自分を見失わないソロモンの姿はやはり胸を打つ。
それに加えて、他の人物がいい。ソロモンの最初の主人は善人だったが、しかし、この時代の南部では善人であってもできることには限界がある。2番目の主人は悪人だが、複雑な人物だ。マックイーン監督作の常連マイケル・ファスベンダーは弱いがゆえに残酷になる男をみごとに表現している。この人物と妻と、そして愛人である奴隷の若い女の三角関係は、下手に描けばレベルの低いメロドラマになるところを、人間の性(さが)を感じさせるドラマになっている。2人の主人を演じるベネディクト・カンバーバッチとファスベンダーはいずれもイギリス人なのだが、奴隷によって栄える南部の農園主というのがヨーロッパの貴族に重なるのだろう。このあたりも監督がイギリス人である特徴が出ていると思う。

「スノーピアサー」は「グエムル」のポン・ジュノ監督作で、「グエムル」の父娘を演じた俳優がここでも父娘を演じている。英米のスターが多数出演しているけれど、基本的には韓国映画かな、と思った。原作はフランスのコミックで、氷河期で人類が滅亡し、唯一、自給自足で走り続ける列車に乗った人だけが生き残っている、という設定。この列車は地球上をずっと走り続けているが、先頭の車両が最上流で最後尾の車両が最下層という、縦のヒエラルキーがそのまま横になった格好。そこで最下層の主人公たちが反乱を起こす、という内容。
なんとなく既視感がある設定がいくつもあるし、突っ込みどころも満載な気もするが、面白く見られることは見られる。端役の悪役がなぜか日本人で日本語が出てくる、というのも韓国?と思ったりするが、原作がフランスで英米のスターが何人も出てきても、基本は韓国映画なんだな、という感じ(あるいは、リュック・ベッソン製作のハリウッド的フランス映画のような感じ)。たとえて言えば、日本映画「復活の日」みたいなものか。見ている間、ずっと「復活の日」の映画が頭をよぎりっぱなしだったのだけど、あれも雪と氷の世界(南極)に生き残ったごくわずかの人々の話だった。
一番面白いと思ったのは、この列車の世界が、ちょっと、あの、北の国を思わせるということ。この辺も韓国の監督だから意識したかもしれないと思う(追記 考えてみたら、韓国の人だと逆に北の国を安易に映画でほのめかしたりしないと思うので、これはむしろアメリカの脚本家の発想かな。いかにも50年代のアメリカの世界の映像で表現されているし。途中の寿司食いねえもアメリカ的発想)。ただ、最下層の人たちが奴隷のように働かされているわけでもなく、シェルターと粗末な食事のあるホームレス程度にしか見えないのが設定的に物足りない。

2013年12月25日水曜日

”お一人様”を描くイタリア映画

クリスマスイヴの日も特別なことは何もせず、イタリア映画「はじまりは5つ星ホテルから」の試写を見に行った(以下、ネタバレありです)。
日本でなじみのスターが出ているわけでもなく、内容も地味そうなので、あまり混まないかな、と思っていたら、けっこうお客さんが入っていた感じ。
主人公は超一流の高級ホテルをチェックする覆面調査員の女性イレーネ。給料は安いがひんぱんに飛行機に乗ってヨーロッパ各地や北アフリカへ行き、普通の客を装って5つ星の高級ホテルに泊まり、ホテルのサービスをチェックするのが仕事。フランス、イタリア、スイス、ドイツ、モロッコ、そして最後は中国と、実在する世界の高級ホテルがそのまま登場する。
イレーネは40代のイタリア女性で、独身。若い頃には婚約者がいたが別れ、その後は結婚する気もなく、独身生活を謳歌している。
この手の映画だとだいたい、主人公が恋に落ちる、というのがお決まりのコースなのだが、この映画はそういう展開にはならず、ひたすらリアル。というか、これ、2013年の映画なの?と思うくらい、なんというか、うーん、古い、発想が古い(別に悪い意味ではないですが)。
イレーネのような覆面調査員というのは、女性が長続きしないらしい。というのも、ひんぱんに旅行に出ないといけないので、女性は結婚するとやめてしまうようなのだ。でも、女性の調査員は必要なので、イレーネは雇い主からはありがたがられている。
まあ、確かに、こういう仕事は女性は結婚とは両立しがたいというのはわかるのだが、なんとなく、話が、結婚して家庭に入るかどうかみたいな路線になっているのが気になる。
実際、結婚するとやめてしまうという話が出るシーンでは、字幕には寿退社とか、結婚して専業主婦になるのが普通みたいな雰囲気。イタリアって、そうなのか?
そして、結婚しないイレーネを心配するのが妹のシルヴィア。夫と2人の娘がいるが、夫とはすでに夫婦関係はない。それでも、「あと20年たったら誰があなたの面倒を見るの?」と妹に言われ、「姪っ子に見てもらう」とイレーネが答えるとか、うーん、イタリアもやっぱり老後は家族が面倒見る社会なのか? 二言目には、欧米と比べて日本は、と社会学などの人たちが言うけれど、この映画見たら、日本より遅れてないか、イタリアは?
もちろん、この映画はイタリアのある面だけを描いている可能性はあるわけで、これがすべてではないのかもしれない。フランス映画だが、「愛、アムール」では老いた夫が妻を病院に入れずに自宅で介護するが、実際は、ヨーロッパでは施設に入れるのが普通だとプレスシートに書いてあった。
ともあれ、この映画は、独身のお一人様の中年女性の不安や戸惑いを描きながら、最後はお一人様という選択もありだという結論に達するので、結婚して家庭を築くのが一番、という映画ではない。原題も「一人旅」だそうで、まさにお一人様がテーマの映画なのだ。
映画の後半、ドイツのホテルで知り合った初老の女性学者がテレビに出演し、そこで「ふれあい」の大切さを説くのを見たイレーネが感動して、学者の泊まる部屋のドアの下から感動のメモを差し込むが、翌日、学者の姿が見えず、フロントで尋ねると実は、という展開になり、孤独なお一人様の現実をイレーネが痛感するエピソード。そして、同じくお一人様を通してきたかつての婚約者が恋人の妊娠をきっかけに家庭を持つ決意をするのを、イレーネは最初は素直に喜べずにいるが、最後には元婚約者とその恋人を祝福するエピソード。このあたりからラストまでのイレーネの変化、そして、人と人との「ふれあい」を大事にしながらお一人様として生きていこうとするイレーネの決意。このあたりは率直に感動できる。
監督のマリア・ソーレ・トニャッツイは、「自由というのは、何をあきらめるかを選択できること」と言っている(プレスシートより)。それはそのとおりなのだが、お一人様になることが何かをあきらめること、というのは、自分の生き方、考え方からすると、どうも受け入れがたい。でも、世間一般では、やはり、結婚して家庭を持ち、老後は家族に囲まれて、というのが普通で、お一人様はそれをあきらめることを選択した、ということになるのだろうな。もちろん、結婚のために何かをあきらめる人もいるわけだけど、この映画はやはり、お一人様が何かをあきらめる方に力点が置かれている気がする。映画自体はとてもいい映画だと思うけれど、そこがちょっとひっかかる。

そういえば、クリスマスイヴなのに特別なことは何もせず、というのがお一人様なのだな、と思ったけど、試写のあと、プールに行ったら、けっこう人がいたし、そのあと町に出てもみんな普通で、特別クリスマスっぽくなかったぞ。以前はクリスマスイヴの夜のプールはほとんど人がいなかったけど、イヴに特別なことをしない人が増えたのだろうか。

2013年12月23日月曜日

青山通りのイルミネーション

携帯写真です。
先週、表参道へ行ったときの青山通りのイルミネーション。
まずは宝石店の入口。


そして道の両側の木にイルミネーションが。



裏路地に入ると、教会が。こちらはサイド。

正面。門が閉まっていましたが、隙間から撮影。


こちらは埼玉県某所のクリスマス・イルミネーション。

夜の風景ついでに。某墓地のイチョウの落ち葉。

そしてこんな花が咲いていました。

2013年12月19日木曜日

「エヴァの告白」はラブストーリーだ(ネタバレあり)

マリオン・コティヤール、ホアキン・フェニックス主演の「エヴァの告白」を見た。
1921年、戦火のポーランドで両親を失い、妹と一緒にアメリカに移民してきた女性エヴァが主人公。入国審査をするエリス島で、妹は結核とわかって隔離され、病気が治らなければ強制送還されると告げられる。エヴァも、働けなければ生活保護者が増えるだけだからと、強制送還を告げられる。そこに現れたのが、エリス島の職員にコネがあり、移民の女たちを使ってショーと売春をしている男ブルーノ。劇場にお針子の仕事があるとエヴァに声をかけ、エヴァは結局、売春をさせられることになる。
この映画、RottenTomatoesでは評論家の評価は90パーセントフレッシュ、しかし、観客の評価は60パーセント余りと分かれている。内容がかつてのアメリカの移民問題を扱ったシリアスな社会派ドラマだからかな、と思って見に行ったら、肩透かしだった。社会派にしては甘すぎるというか、メロドラマすぎる。いやむしろ、このメロドラマの方がよいのではないか?
しかし、宣伝では、敬虔なカトリックのエヴァが生きるためにやむを得ず売春という罪を犯した、という、カトリック信者向けの手法になっている。映画の宣伝文句は、

「ただ生きようとした。それが罪ですか?」

監督はカンヌ映画祭の常連で、この映画もカンヌに出品している。カンヌ映画祭はカトリックがテーマの映画が強いので、こういう宣伝があちらでされたのではないかと思うが、カトリックの信者が少ない日本でこういう宣伝をするのはどうだろうか。

この映画は素直に見ればラブストーリーであり、オペラ「椿姫」の変奏なのだ(「椿姫」の音楽が使われている)。以下、論の必要上、ネタバレありで話を進めます。

日本語タイトルの「エヴァの告白」は映画の後半にやってくる。教会で売春の罪を犯したことを告白するエヴァに、神父は、「神は許してくれる」と言い、そして、彼女に売春をさせた男とは別れなさいと告げる。しかし、エヴァは、「私は地獄に堕ちます」と答える。
それを聞いていたブルーノは心を動かされる。ブルーノの変化を知ったエヴァは、その後、別の人物に告白する。

「彼は苦しんでいる。私は許すことを知った」

このとおりのせりふではなかったかもしれないが、そういう言葉を言う。

ブルーノは初めて見たときからエヴァを愛していた。しかし、愛に率直になれない彼は(あとで、親戚の男で手品師のオーランドに恋人を奪われた過去があることがわかる)、彼女に冷たく当たり、妹をエリス島から出すには大金が必要だからそのために売春で稼げと言う。エヴァは妹を助け出したくて売春を続け、ブルーノに対しては超然とした態度をとる。やがて、オーランドが現れ、彼のやさしさにエヴァは心を動かし、それにブルーノが嫉妬して、という三角関係の展開になる。
このあたりがありきたりといえばありきたりなのだが、このブルーノという人物が、ホアキン・フェニックスの演技もあって、なかなかにすばらしい造型なのだ。
ブルーノもオーランドもエヴァと関係を持たないのは、彼らがエヴァを心で愛していること、売春の相手とは一線を画していることを表している。
そして、エヴァとブルーノの関係は、「椿姫」のひねりのようになっていく。
「椿姫」では高級娼婦のヒロインは金持ちの息子と恋に落ちるが、男の父親から、息子の将来のために別れてくれと言われ、わざと冷たくして別れ、結核で死ぬ。
この映画ではエヴァの妹が結核であり、また、エヴァを利用したブルーノが最後にはエヴァのために尽くし、身をひくことで彼女と妹を助ける。
「椿姫」の原題は「ラ・トラヴィアータ」。つまらない女という意味だ。
最後に、ブルーノはエヴァに対し、自分はクズだ、と言う。クズの男には屈服しない、と宣言し、かつてはブルーノをクズと思っていたエヴァは、ここで、ブルーノに言う。

「あなたはクズじゃない」

トラヴィアータ(椿姫)はブルーノなのだ。
そのトラヴィアータ=クズの人間の崇高な愛に、愛された者は感動する。

いまどき、こういう愛の物語として映画を売るのは流行らないのだろうか?
カトリックの敬虔な信者が生きるためにやむなく売春をする、自立した女性の姿で売った方がよいのだろうか?
「エヴァの告白」という邦題(原題は「移民」)も、内容的にインパクトがない。「エヴァ 愛の告白」とでもした方がよかった。この場合の告白とは、教会での告白ではなく、映画全体が愛を描いているということである。

2013年12月18日水曜日

ツリーいろいろ

夕方から夜にかけての散歩。
まずは近所の崖っぷちにある公園から。高台なので、遠くの超高層ビルが見える。これは日本橋の超高層ビル。12倍ズームです。

これも12倍ズームで、西日に輝くのは淡路町の超高層ビル。

谷中へ。スカイツリーと飛行機(左端)。

雲と飛行機雲が面白いので撮ってみました。


水仙が咲いている。

にらみあう猫。

上野公園へ。月とクリスマスツリーとスカイツリー(真ん中に先端が小さく写っている)。

西郷隆盛の銅像。

レストラン前のイチョウの木のイルミネーションが始まっていた。





上野駅の近くはビルが多く、スカイツリーの下の方が見えなかったので、帰りにまたあの高台からスカイツリーを撮る。クリスマスツリーをイメージした緑色。