2013年12月19日木曜日

「エヴァの告白」はラブストーリーだ(ネタバレあり)

マリオン・コティヤール、ホアキン・フェニックス主演の「エヴァの告白」を見た。
1921年、戦火のポーランドで両親を失い、妹と一緒にアメリカに移民してきた女性エヴァが主人公。入国審査をするエリス島で、妹は結核とわかって隔離され、病気が治らなければ強制送還されると告げられる。エヴァも、働けなければ生活保護者が増えるだけだからと、強制送還を告げられる。そこに現れたのが、エリス島の職員にコネがあり、移民の女たちを使ってショーと売春をしている男ブルーノ。劇場にお針子の仕事があるとエヴァに声をかけ、エヴァは結局、売春をさせられることになる。
この映画、RottenTomatoesでは評論家の評価は90パーセントフレッシュ、しかし、観客の評価は60パーセント余りと分かれている。内容がかつてのアメリカの移民問題を扱ったシリアスな社会派ドラマだからかな、と思って見に行ったら、肩透かしだった。社会派にしては甘すぎるというか、メロドラマすぎる。いやむしろ、このメロドラマの方がよいのではないか?
しかし、宣伝では、敬虔なカトリックのエヴァが生きるためにやむを得ず売春という罪を犯した、という、カトリック信者向けの手法になっている。映画の宣伝文句は、

「ただ生きようとした。それが罪ですか?」

監督はカンヌ映画祭の常連で、この映画もカンヌに出品している。カンヌ映画祭はカトリックがテーマの映画が強いので、こういう宣伝があちらでされたのではないかと思うが、カトリックの信者が少ない日本でこういう宣伝をするのはどうだろうか。

この映画は素直に見ればラブストーリーであり、オペラ「椿姫」の変奏なのだ(「椿姫」の音楽が使われている)。以下、論の必要上、ネタバレありで話を進めます。

日本語タイトルの「エヴァの告白」は映画の後半にやってくる。教会で売春の罪を犯したことを告白するエヴァに、神父は、「神は許してくれる」と言い、そして、彼女に売春をさせた男とは別れなさいと告げる。しかし、エヴァは、「私は地獄に堕ちます」と答える。
それを聞いていたブルーノは心を動かされる。ブルーノの変化を知ったエヴァは、その後、別の人物に告白する。

「彼は苦しんでいる。私は許すことを知った」

このとおりのせりふではなかったかもしれないが、そういう言葉を言う。

ブルーノは初めて見たときからエヴァを愛していた。しかし、愛に率直になれない彼は(あとで、親戚の男で手品師のオーランドに恋人を奪われた過去があることがわかる)、彼女に冷たく当たり、妹をエリス島から出すには大金が必要だからそのために売春で稼げと言う。エヴァは妹を助け出したくて売春を続け、ブルーノに対しては超然とした態度をとる。やがて、オーランドが現れ、彼のやさしさにエヴァは心を動かし、それにブルーノが嫉妬して、という三角関係の展開になる。
このあたりがありきたりといえばありきたりなのだが、このブルーノという人物が、ホアキン・フェニックスの演技もあって、なかなかにすばらしい造型なのだ。
ブルーノもオーランドもエヴァと関係を持たないのは、彼らがエヴァを心で愛していること、売春の相手とは一線を画していることを表している。
そして、エヴァとブルーノの関係は、「椿姫」のひねりのようになっていく。
「椿姫」では高級娼婦のヒロインは金持ちの息子と恋に落ちるが、男の父親から、息子の将来のために別れてくれと言われ、わざと冷たくして別れ、結核で死ぬ。
この映画ではエヴァの妹が結核であり、また、エヴァを利用したブルーノが最後にはエヴァのために尽くし、身をひくことで彼女と妹を助ける。
「椿姫」の原題は「ラ・トラヴィアータ」。つまらない女という意味だ。
最後に、ブルーノはエヴァに対し、自分はクズだ、と言う。クズの男には屈服しない、と宣言し、かつてはブルーノをクズと思っていたエヴァは、ここで、ブルーノに言う。

「あなたはクズじゃない」

トラヴィアータ(椿姫)はブルーノなのだ。
そのトラヴィアータ=クズの人間の崇高な愛に、愛された者は感動する。

いまどき、こういう愛の物語として映画を売るのは流行らないのだろうか?
カトリックの敬虔な信者が生きるためにやむなく売春をする、自立した女性の姿で売った方がよいのだろうか?
「エヴァの告白」という邦題(原題は「移民」)も、内容的にインパクトがない。「エヴァ 愛の告白」とでもした方がよかった。この場合の告白とは、教会での告白ではなく、映画全体が愛を描いているということである。