2013年12月31日火曜日

いさみ湯

埼玉県川口市芝にあった銭湯、いさみ湯は、私が7年間通った銭湯だった。
当時、私は英文学者をめざして安い風呂なしトイレ共同アパートで節約しながら生活していた。川口市芝は最寄駅の京浜東北線蕨駅から徒歩17分くらい。私は時速6キロで歩くので、そのアパートは駅から道のりで1・7キロであった。
川口市はとても広い。当時は川口市の中に鳩ヶ谷市があったが、今は合併してさらに広くなった。駅で言うと、川口、西川口、蕨、東川口、東浦和。このあたりから歩いたりバスに乗ったりして多くの人が帰宅する。
かつては「キューポラのある街」の舞台として有名だった川口市だが、これだけ広いと場所によってイメージがだいぶ違う。
私が住んでいた川口市芝は、蕨駅に近い芝何丁目というところからさらに遠い地域で、正式には大字芝といい、そのあとに4ケタの数字が来る。トイレは水洗ではなかったし、ガスはプロパンだった。当時はバスが1時間に2本しかなく(今は5本くらいあるらしい)、かなり不便だったので、家賃が激安だった。4畳半の畳の部屋に1・5畳の板の間、広いベランダ、1畳の台所、1間の押入れ。トイレは共同、風呂は銭湯だったが、これで家賃1万1千円。銭湯は当時は180円くらいだったから、生活費はとにかく安くすんだ。また、当時は国立大学の授業料が激安だったので、私のように自活学生でも家庭教師を週に3日もやれば、大学院の博士課程まで行けたのだ(今はまったく違う)。
W・M・サッカレーについての卒業論文、E・M・フォースターについての修士論文、博士課程に入ってから書いたさまざまな論文、そして、1984年2月発行の「フランケンシュタイン」解説はすべて、この安アパートから生まれた。キネマ旬報の最初の仕事もこの部屋から生まれた。
そう、2014年は私の評論家デビュー30周年で、その基礎はすべてこの川口市芝の安アパートで築かれ、私は徒歩1分のいさみ湯に通いながら、論文や評論を書いたのだ。
そういえば、最初に翻訳で報酬を得たジョージ・エリオット作「ロモラ」(集英社文学全集、一部分を下訳)もここで生まれたのだ。
その後、アパートの大家さんの引っ越しに伴い、私は都内に引っ越したのだが、いさみ湯に再会したのはそれから20数年後。埼玉県の某大学で非常勤講師に採用され、その大学の近くからバスに乗って蕨駅へ行くと、途中でいさみ湯の前を通ることがわかった。
前のアパートと、そして、隣に建っていた一軒家は駐車場になっていたが、いさみ湯は健在だった。しかし、その後、いつのまにか廃業し、現在はそこも駐車場になっている。
こんなことなら廃業前に銭湯に入ればよかったと思うのだが、廃業寸前に入った人のブログがある。モノクロ写真がみごと。
http://furoyanoentotsu.com/isamiyu_warabi20101219.html
蕨駅から1・2キロと書かれているが、これは直線距離だろう。実際は直線コースで行くことはできず、時速6キロの私でも17分近くかかる。同じく廃業寸前に訪れた別の人のブログでは、帰りに駅まで24分かかったと書いてある(この人は行きは道に迷いに迷ったようだ)。
実は、この川口市芝の銭湯の名前がいさみ湯だということを忘れていた。検索して、いさみ湯という名前を思い出した。
銭湯の名前って、覚えていないものなのだ。生まれた時から銭湯暮らしなのに、名前はほとんど思い出せない。
鶴の湯の近くにはふくの湯というのがあって、こちらもずいぶんお世話になったのに、どちらも名前を意識したのはわりと最近のこと。ふくの湯はリニューアル前の富久の湯の方が親しみがある。
キネ旬をはじめ、さまざまな雑誌に書いた評論、そして翻訳の数々は、鶴の湯と富久の湯のお世話になりながら風呂なしアパートで生活していたときに生まれたものだった。ある意味、銭湯の暮らしが、私の評論や翻訳(そして、コミケで売っていた小説など)を生み出していたのだった。