主演男優の演技が大注目の映画、「ダラスバイヤーズクラブ」と「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」の試写に行ってきた。
ダラスは西部のテキサス州の町。ネブラスカは中西部の一番西部寄りの州。どちらも保守的なイメージの世界で、映画はともにアメリカのある地域の庶民の姿を描く。
「ダラスバイヤーズクラブ」は実話の映画化。1985年、エイズと診断されたロデオ・カウボーイ(マシュー・マコノヒー)が治療薬を求めて世界を駆け巡り、ダラスバイヤーズクラブという会員制のクラブを作り、そこに一定のお金を払った人に世界中から手に入れた薬を配る。
余命1ヶ月と診断された主人公は、その後、7年間生き続け、1992年に亡くなるが、その直前にインタビューした脚本家が脚本を書くも、映画化までに実に20年を必要とした、という作品。
見てるとそれはわかります。
アメリカの製薬会社とそこに結びついた政府機関の過ちを描いているから。
日本をはじめ、多くの国々ではさまざまな治療薬が開発され、ウィルス根絶よりも複数の薬を組み合わせ、栄養を取ることで症状を抑える方向に進んでいるのに、アメリカはある製薬会社が開発したウィルスを殺す薬をかたくなに支持、他の薬を承認しない。そのウィルスを殺す薬自体は副作用が強く、実際はあまり役に立たず、むしろ有害な部分が多いのに、その薬に固執する。そこで、主人公はじめ各地の患者・感染者は団体を作って、外国から薬を輸入し、それに協力する医師もいたが、やがて法改正で医師は協力できなくなり、と、あまりにもひどい、と怒りが湧き上がる。
もっとも、エイズに関してはどの国も過ちを犯したという過去があり、アメリカだけが特別ひどいわけではなかったのだと思うし、映画に描かれたことや主人公の姿は必ずしも事実そのままではなく、ある程度のフィクションになっているだろう。それでも、これまでのハリウッド映画は「インサイダー」のようにタバコ会社を追及して製薬会社は善であるという映画は作るのに、製薬会社の問題を追及するような映画はあまり覚えがない、というところが引っかかっていた。「インサイダー」はタバコ・バッシングの時代に合っていたからすぐ映画になり、そのタバコ・バッシングの背景にあるという、禁煙で儲ける製薬会社とか、製薬会社にもいろいろあるだろうに、こっちはあまり描かれてない、という印象がある。
要するに、映画に描かれる社会問題も世の中の趨勢に影響されるわけで、その点、注意して見ないといけないと改めて思った。
ともあれ、「ダラスバイヤーズクラブ」は四半世紀以上前のアメリカの話なので、社会問題としてはすでに過去のものとして描かれている。が、だからといって、過去の話としてのんきに見る映画では決してない。
エイズと診断された主人公は、最初、エイズはゲイがなる病気だからとして反発する。彼は典型的なマッチョ、いかにもテキサスという感じの保守的で反動的なマッチョだ。生活も乱れていて、不特定多数の女性と関係を持ち、その結果、感染してしまったのだが、その彼がエイズはゲイだけがなる病気でないことを知り、病院で知り合った性同一性障害の男性(ジャレット・レト)と一緒にダラスバイヤーズクラブを始めるうちに、ゲイへの偏見がなくなり、人を思いやる人間に変化していく。もちろん、彼も慈善事業でやっているのではなく、会員になるための金を払えない人は門前払いにしてしまうけれど、そうした俗物の面を持ちながらも、生きるために学び、行動し、しだいに他者への思いやりも獲得していくところは感動的だ。
マシュー・マコノヒーとジャレッド・レトの演じる2人の人物の関係がとても面白い。2人の俳優は20キロ減量して役にのぞんだそうだが、女装するレトが魅力的だ。堕ちた女のしたたかさと繊細さ、もろさと哀しさがどの場面にもあふれている。しかも、コミカルなシーンもある。やせてもマッチョなマコノヒーと、どこか現実離れしたはかない天使を感じさせるレトの対照的なコンビぶりがこの映画の最大の魅力だと思う。どちらの俳優もすばらしいが、私はレトに1票。
また、アメリカがこだわった治療薬はエイズのウィルスを殺すもので、症状を抑えたり緩和したりする他の薬は拒否というのは、アメリカという国のマッチョを象徴しているようにも見える。そうしたマッチョなアメリカの支持する治療薬を毒だとして主人公が拒否することが、マッチョであった自分を乗り越えていくこととイコールになっているのも意味深いものがある。映画の根本にあるのは、ゲイや性同一性障害を嫌い、敵を根絶することしか頭にないマッチョ的価値観への批判だろう。
もう1本の「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」(ネタバレあり、注意)。こちらは脚本が書かれてから映画化まで9年かかったというが、けっこう時間がかかるものなのだね。「アバウト・シュミット」のアレクサンダー・ペイン監督に依頼が来たが、「サイドウェイ」のあとにまた似たような題材では、ということで、実現までに時間がかかったという事情があったらしい。
というわけで、こちらは男2人のロードムービー、と思ったら、途中から場所が固定され、さらに旅の道連れが増えて、ただのバディ・ロードムービーとは一味違う作品になっている。
映画はまず、西部の一番北の州、モンタナ州から始まる。宝くじで100万ドルが当たった、というインチキの手紙にだまされた老人が、どうしても金を受け取りにネブラスカ州リンカーンへ行きたいというので、息子が一緒にリンカーンへと車で向かうことになる。リンカーンへ行って、当選が嘘だとわかれば納得するだろうと息子は思ったのだ。サウスダコタ州で有名なラシュモア山の彫刻を見て、やがてネブラスカ州の父親の故郷ホーソーンにたどり着く。
このホーソーンは架空の町だそうだが、目的地が大統領の名前リンカーンで、父親の故郷が19世紀の作家ナサニエル・ホーソーンと同じ名前というのもなかなかに意味深な感じ。
このホーソーンという町はだだっ広い平原に家や建物がぽつんぽつんと建っているだけで、いかにも西部というか、中西部の田舎町。当然、保守的で、しかも貧しそう。父と母はこの町で生まれ育ち、息子もここで生まれたが、その後、家族はモンタナに引っ越したのだった。
ホーソーンには老人と息子の親戚が住んでいるが、親戚の家の2人の息子はガラが悪そうで、太っていて、いかにもプア・ホワイト・トラッシュという感じ。町には老人の知り合いがまだたくさん生きていて、再会を喜ぶ。そこへあとから老人の妻と長男も駆けつけ、一家4人がそろうのだが、この老人の妻が傑作。若い頃はこの町の男たちにもてたという彼女は、どこでもシモネタ連発で、息子はうんざり。一方、父である老人の方は昔から酒びたりで、息子から見ると父も母も困った人なのだが、町でいろいろな話を聞くうち、父がかつては戦闘機のパイロットで、朝鮮戦争から帰ってから酒びたりになってしまったことがわかったり、父の恋人だった女性に会って話を聞いたりするうちに、父親にもいろいろな過去があったことがわかる。
こんなふうにして、男2人のロードムービーかと思いきや、ある一家と彼らを取り巻く人々を通して、人生の機微を感じさせる映画なのだった。
老人がネブラスカ州に帰ってきたのは宝くじの賞金を受け取るためとわかると、町の人々の態度が一変するのも面白いというか、世の中の現実をシビアに描いている。
老人一家はホーソーンをあとにし、母と長男は先に帰り、老人と次男がまた2人でリンカーンへと向かう。母と2人の息子は最初から宝くじはインチキとわかっているし、この頃には老人も気づいているのだが、老人は失ったものを取り戻したいと思っているのだということがしだいにわかってくる。老人が言う取り戻したいものは実際、今の彼には何の役にも立たないものばかりなのだが、それでも彼は取り戻したいのである。おそらく彼は、戦争から帰ってからはそのショックで酒に溺れるだけの人生になり、口うるさい妻のおかげでなんとか生きてきたみたいな男なのだろう(妻がモンタナで美容院をやっていたというから、髪結いの亭主だったのかも)。長い人生の間に失ったもの、手に入らなかったものがあまりにも多く、それが彼がこだわるなんでもないものに集約されているのだ。リンカーンまで行った息子は、最後に、そのことに気づく。役に立たないけれど買えないわけではないものを手に入れ、ホーソーンの町をトラックのハンドルを握って通り過ぎる老人は、ようやくここで誇りを取り戻す。人生の最後に欲しいものは誇りである。
老人を演じたブルース・ダーンの演技が絶賛されているが、妻役のジューン・スキッブがまたいい。モノクロの映像は舞台となる地域のさびれた感じをよくあらわしている。カラーだともっと明るくなってしまうだろう。人生の最後の時期のわびしさを表現しているともいえる。ラスト、えんえんと続く大平原の1本道は、かつてニューシネマで見た光景を思い出させる。あの道をバイクや車で疾走した若者たちが、今、老人になって、ピックアップトラックでとことこと丘の向こうへ消えていくのだ。