火曜に続いて水曜も試写に。オーランド・ブルーム、フォレスト・ウィテカー主演のサスペンス映画「ケープタウン」。現代の南アフリカが舞台だが、原作がフランスのミステリー小説ということで、フランス映画です。
「ケープタウン」といえば、昔、マイケル・ケイン主演でアパルトヘイト時代の南アが舞台の映画があったなあ、と思ったら、1974年の映画でシドニー・ポワチエが共演、そして、なんと、ルトガー・ハウアーも出てたらしい(「ブレード・ランナー」よりも前だ)。当時、ケインのファンだったので(今もですが)、映画館でしっかり見ています。
そのケインの「ケープタウン」は原題は「ケープタウン」ではなかったのだが、今回の「ケープタウン」も原題は「ズールー」。フォレスト・ウィテカー演じる黒人警部がズールー族出身なのだ。
「ズールー」といえば、マイケル・ケイン主演の「ズール戦争」の原題じゃなかったっけ。
日本ではやはり、南アが舞台の映画は「ケープタウン」というタイトルにした方がわかりやすいのだろう。
で、このフランス映画「ケープタウン」は、監督脚本などの主要スタッフ(フランス人)と主演の2人以外のスタッフ、キャストはすべて南アの人々とのこと。言葉も英語、アフリカーンス語、黒人の言葉で、フランス語は当然なし。というわけで、フランス的要素のない映画なのだけれど、もしもこの映画をハリウッドで作ったら、派手なアクションが中心の深みのない映画になってしまったのではないかと思う。
物語は元ラグビー選手の娘が殺害され、黒人警部とその同僚の2人の白人刑事が捜査するうちに、恐ろしい陰謀が浮かびあがってくるというもの。プレスシートには専門家の詳しい解説がついているが、南アのアパルトヘイトの時代が背後にある。
ウィテカー演じる黒人警部は少年時代、白人の暴力で深い傷を負わされている。しかし、ネルソン・マンデラが大統領になったとき、アパルトヘイト時代に迫害や殺人を犯した人でも、その罪を告白すれば許すという、許しと和解の政策を貫いたのを支持し、過去を許して未来へ進むという考え方をしている。
しかし、罪を告白して許され、その後、出世したり金持ちになったりしている人を許せないと思う人もいる。1人は同僚刑事の妻。そしてもう1人はブルーム演じる別の同僚刑事。
ブルーム演じる白人刑事は、死んだ父親の墓石に名前を刻むのを拒み続けている。その理由は映画の中盤に明かされるが、彼はアパルトヘイト時代に差別派だった父親を嫌い、父の姓を捨てて母の姓を名乗っているのだ。墓石に名前を刻まないのは、父を許していないからなのだ。
この映画はフォレスト・ウィテカーとオーランド・ブルームを起用したのがよかったと思うのだが、黒人警部役のウィテカーのもの静かな演技と存在感がすばらしい。そして、オーランド・ブルームがこれまでのイメージをかなぐり捨てて、無頼派の刑事を演じているのには驚いた。母親を大事にし、人間としても高潔な印象のウィテカーの刑事に対し、ブルームの刑事は妻と離婚、息子には疎まれ、いいかげんな暮らしをしている問題の多い人物。この対比が面白いのだが、このいいかげんだがタフな刑事を、端正な二枚目のイメージのブルームがひげを伸ばし、まるで別人のようなイメージで演じていて、これがまたみごとにはまっている。
事件は最初は被害者が麻薬の売人と性交渉したあと、トラブルで殺されただけの事件と思われたが、その売人の売る麻薬が特殊な化学薬品であること、ホームレスの子供たちが行方不明になっていて、その麻薬をやっていた子供がいたことなどから、単なる麻薬のトラブルではないということがわかる。捜査が進むにつれて、その麻薬がアパルトヘイト時代に開発された化学物質であることがわかってくる。
この映画では事件解決までに主要人物が何人も死ぬのだが、その死の悲しみが切実に描かれている。映画の中では人がよく死ぬが、死の悲しみが切実に描かれているとは限らない。特に刑事ものの映画だと、死はルーティンのように軽く描かれてしまう場合がよくある。
この映画が死の悲しみを切実に描くのは、この悲しみが人を変えるからだ。悲しみのあまり怒りと復讐に走る人、悲しみのあまり人を拒否してしまう人、そして、死の悲しみを経て憎んでいた人を許す人。原作がよいのだろうが、こんなふうに死の悲しみを切実に描き、それを許しへとつなげる映画は、ハリウッドのアクション映画ではない、フランス映画だからできた、という感じがする。
クライマックスの砂漠のシーン、そして、建物から外に出たブルームの全身を映すラストショットは美しい。原作を読みたいけど、翻訳は出ないのだろうか。
あと、この映画、カンヌ映画祭のクロージング作品だったそうだけど、アメリカではまだ公開の予定もないみたいなのだ。とにかく、日本では公開決定で喜ばしい。無頼派刑事のブルームは絶対お見逃しなく!