ネットのどこかに書いてあった記事。世間の評価と自分の評価がまったく違うのに、それに気づかない身の程知らずな例。
それまで仕事で何の実績もなかった中高年の男性がコンビニでアルバイトを始めたが、若いバイトはいい時間帯にシフトしてもらえるのに自分は深夜や早朝のような不利な時間帯しかシフトしてもらえない、という愚痴をこぼす男性について、身の程知らずと書かれていた。
確かに中高年でもコンビニやマックで責任のある仕事について、若いバイトたちと生き生きと仕事している人もいるようなので、身の程知らずなのだろうとは思う。
そして自分のことだけれど、私もこの中高年男性のように身の程知らずなのだろうと思う。
たとえば、私の書く文章をほしがる人など誰もいないのに、私の文章は世に出す価値があると信じていたりする。そういう私に、それなりの長い文章を書く仕事の話が来ると、一生懸命書いてしまう。が、依頼した相手は私の文章がほしいわけではなく、誰かが断って短い期間にかわりをしてくれる人がほしいだけだったりするのだ。だから、私がうれしくて一生懸命書いた原稿を、勝手に書き直してしまう。
そういう依頼をうれしいと思って受けてしまうのが身の程知らずなのだ。それをいやというほどわかっているのに、たまに依頼が来るとうれしくて受けてしまい、結局、後悔する。
たかが数万円のために、編集者が勝手に書き直した文章を活字にしたくはない。
そういう可能性がある仕事しか私には来ない、ということを認識すべきだ。
そうではない仕事が自分に来ると思う身の程知らず、それをしっかり頭に刻むべきだ。
ある雑誌に、もう長いこと、まともな文章を出していないのに、そこから別の会社の仕事の依頼が来るっていうのがそもそもおかしいと気づくべきだった(いや、気づいていたのに、たまに来るからうれしくて引き受けてしまう自分がバカ)。
いいかげん、向こうから来る仕事はおかしいと疑えよ、自分。
本当にやりたいことは、こっちから行かないとできない。
追記
結局、私が引き受けたことで、私も損害を受けるし、依頼した方もいやな思いをするので、引き受けること自体が双方に悪い影響をもたらすのだ。
しかも、報酬はわずか数万円で、これがなくても私の生活は困らない。ただ、久々の活字媒体で好きなことが書けると誤解した自分が間違っていたし、私の原稿を利用できると思った依頼主も間違っていたということになる。
だいたい、50歳をすぎると有名人以外は書けなくなるのだから、それにはそれなりの理由があるわけで、そこを勘違いしている自分が悪い。
どこまで行っても自分が悪いので、どうしようもないのだが、期待してしまった自分がもうどうにも我慢がならないのだ。
期待しないでただの小遣い稼ぎと思って適当に書いていたなら。
たくさん依頼がある人ならそう割り切って書くのだろう。
このブログだって少数だけど読者がいるんだから、こっちを大事にして、たまにおかしな活字媒体の依頼があっても断固断るくらいでちょうどいいのだろう。
確かに、某媒体経由の依頼って、断る割合が圧倒的多数だった。ただ、昔は会って話をして、これは自分に向かないと思って、円満にお断りできたのだが。
まあ、後悔先に立たずってことで、もう、忘れて先に進むべき、だろうね(でも相当なショックです)。