2015年4月5日日曜日

人様の翻訳を批判するということ。

私自身、翻訳書を出している身であるので、人様の翻訳に対して批判を述べるというのは天に唾するようなところがあり、できればやりたくないことの1つである。
と同時に、やっぱり人様の翻訳の中にはどうにも許せない、これはないだろう、と思うものもある。
でも、なるべくやらないようにと思っているのだが、前の記事で書いたオー・ヘンリー「賢者の贈りもの」の新訳(新潮文庫)についてはやはり書かないといけないのではないか?と悩んでいる。
悩んでいる最大の理由は、該当書を買って、原文と照らし合わせて、いろいろ文句をつけることになるからで、それに使うお金とエネルギーを考えると、無駄だなあ、と思うのである。

人様の翻訳の批判というのは、やはり、純粋な読者がする方がいい。
たとえば、新潮文庫の新訳「嵐が丘」は、アマゾンのレビューを見るとものすごい悪評だが、純粋な読者が書いているので、かえって納得できる。それに対し、翻訳でお金をもらった人間がするとどうしても純粋でなくなる気がするのだ。
映画の字幕でいえば、「オペラ座の怪人」は舞台のファンが字幕に抗議し、「ロード・オブ・ザ・リング」は原作の愛読者が抗議した。無名の純粋なファンや愛読者の抗議だからよかったのだ。

新訳「賢者の贈りもの」の場合、それでも逡巡してしまうのは、この短編の新訳がかなりの欠陥商品だと思うからだ。この本に含まれている他の作品はわからないが、この表題作「賢者の贈りもの」を立ち読みした限りでは、これはかなり問題がある。
それは誤訳というレベルの問題ではない。
1つには、作品理解の問題。
もう1つには作家の文体の問題。
翻訳者は東工大教授のアメリカ文学者で、翻訳書も多数ある人なのだが、この2点がクリアされていないのには愕然とする。
たとえば、「賢者の贈りもの」の最後の文章、賢者についての説明の文章は詩的なリズムのある美しい文章なのだが、翻訳はぶっきらぼうで汚い日本語になっている。
オー・ヘンリーは小説の中で読者に語りかけるが、この語りかけの言葉づかいがえらそうな日本語になっている。原文を読む限り、作者(というより語り手)は読者に親しげに語っていて、えらそうではない。この新訳だとオー・ヘンリーってえらそうなやつと思ってしまう。
作品の解釈についても、「オー・ヘンリーの小説を心温まる作品ととらえない」方針で訳したようだが、「心温まる作品」とは、決してすべてがハッピーな作品ではない。オー・ヘンリーの作品が読者の琴線に触れるのは、ユーモアとペーソスであり、ある種のもの悲しさもまた「心温まる」要素の1つなのだが、翻訳者は原作者をもっと意地悪な作家にしたいようなのだ。そこから作品の雰囲気を作っていくから、作品理解に問題が出る。

以上、今感じていることをおおざっぱに書いたけれど、詳しく実例を挙げて書くにはやはり本を買って原文と逐一比べる必要がある。でも、そこまでする必要ある? いや、もしもこの訳者のオー・ヘンリーが大久保康雄訳に置き換わり、売れる新潮文庫なのでこれがスタンダードになってしまうとしたら? でも、決めるのは読者。読者がこんなオー・ヘンリーはいやだと思えば買わないし、こういうのもいいと思えば買う。それでいいのでは?
この新訳については、アマゾンでは批判のレビューが出ているが、具体的ではないのでわかりづらい。また、ネットで検索しても特に批判は出ていないようだ。「嵐が丘」のような非難ごうごうではない。中にはほめているブログもあるので困る。うーん、むずかしい。