2015年5月30日土曜日

久々「バリー・リンドン」講義

今年は某大学の英米文学の講義で久々にサッカレーの「バリー・リンドン」をやった。
この講義、始めたばかりの頃はアーサー王伝説、シェイクスピアに続いてイギリス小説は「フランケンシュタイン」、「バリー・リンドン」、「ダーバヴィル家のテス」、「インドへの道」と、私の得意な作品ばかり取り上げていたのだが、どうも「バリー・リンドン」が受けない。そこで同じ時代のディケンズの「クリスマス・キャロル」にかえてみたりしたが、どうもイマイチ。「嵐が丘」や「ジェイン・エア」は別の授業でやってるらしかったので、しゃあない、ヴィクトリア朝前期は作品抜きで概説だけにしようか、そのかわり、オースティンの「高慢と偏見」を入れよう、ってわけで、「高慢と偏見」、「フランケンシュタイン」、「ダーバヴィル家のテス」、「インドへの道」とラインナップがかわっていったのだった。
で、この路線が定着したか、と思ったところに来て、今年2月のNHKの100分で名著に「フランケンシュタイン」が登場。安いムック本も出てしまって、こういうのが出ると、学生は自分の頭で考えずにムック本そのまま試験の答えに書くようになるのですね。
これまでは「フランケンシュタイン」を取り上げると、寝ていた学生がみんな起き出して真剣に聞き入るという、講師冥利に尽きる展開で、学生の反応も各自が自分の頭と心で感じたことや考えたことを書いてくれていたので、やりがいがあったのだが、テレビで取り上げられてムック本が出てしまうとこういう展開でなくなる可能性が非常に高くなるのだ。
そこで、今年は「フランケンシュタイン」をやめて、「高慢と偏見」の次に「バリー・リンドン」を入れようと考えた。そして、これがけっこうよかったように思えたのだ。
その理由を考えてみると、以前は「バリー・リンドン」はヴィクトリア朝前期の作家と作品を紹介したあと、駆け足であらすじを説明するくらいだったが、今回は時間をかけてじっくり作品の世界を紹介したということ。そして、オースティンの「高慢と偏見」のすぐあとだったのがよかったのだと思う。
「高慢と偏見」と「バリー・リンドン」はイギリスの階級や結婚観などの点で共通点が多い。「高慢と偏見」が女性の世界なら、「バリー・リンドン」は同じ世界を男性側から見たもの。だから、「高慢と偏見」ではこうだったけれど、というような説明が可能になったのだ。
要するに、「フランケンシュタイン」の次に「バリー・リンドン」ではだめだけど、「高慢と偏見」の次ならよいということだろう。
確かにオースティンとサッカレーはイギリス中産階級を皮肉とユーモアで描くという共通点がある。だが、「フランケンシュタイン」はフィールディング、オースティン、サッカレーといったイギリスのリアリズム小説の流れからははずれた作品なので、流れとして別の世界になっているのだ。「フランケンシュタイン」は18世紀のゴシック小説、ヴィクトリア朝前期のブロンテ姉妹などと一緒にやった方がいいのだろう。
「フランケンシュタイン」は来年くらいになればテレビのことは忘れられるからまたやってもいいかな、と思うのだが、来年ではまだ早いかもしれない。それに、やるとしたらイギリス小説のあとのアメリカ小説のさらにあと、SFとファンタジーでやった方がいいのだろうと思う。

2015年5月27日水曜日

フェルメールの天文学者

火曜日は1日に3つのイベントをこなしたので、かなり忙しい日だった。
まずは今月で終わり?というシネマート六本木での試写(映画館は6月14日閉館とのことです)。ヴェネツイア映画祭金獅子賞受賞のスウェーデン映画「さよなら、人類」。
シネマート六本木は3つのスクリーンのある古い建物で、そのうち1つが試写室になっていたのだが、ここは冷房を入れると寒いし入れないと暑いという、夏は行きたくない場所だった。でも、それさえなければけっこう好きな試写室で、座席数が試写室にしては多いので入れないことはめったにないし、階段利用の地下なので帰りも便利(エレベーターのみの試写室は帰りが大変)。座る席もだいたい決まっていて、私好みの試写室だった。
そんなわけで、「さよなら、人類」を見に行ったのだけど、このところの暑い陽気で、冷房がうまく効かないこの試写室を最後にまた経験してしまった。暑い中、駅から歩いて試写室に入り、冷房が入っていないと、汗だらだらになってしまうのだ。でもまあ、これが最後なら。
で、いろいろと意味深な短いエピソードから成る「さよなら、人類」を見た後は、同じ六本木の国立新美術館のルーブル美術館展へ。

正直、私は美術館は上野専門で、他はめったに行かない。なので、国立新美術館も興味のある美術展はあったのだけど、なかなか行く気になれなかった。
今回はフェルメールの「天文学者」初来日、ということで、別にフェルメールのファンじゃないけど、「天文学者」と「地理学者」は興味あったので、これは見たいな、と思い、たまたまこの日は火曜日なのに開館(いつもは火曜日が定休日)。シネマート六本木のあとに行くとちょうどいいので、出かけた。
まあ、しかし、混んでますね。上野とは桁違いに混んでる。だいたい、「ルーブル」とか「印象派」とかつくだけで混みそうな雰囲気なので、ずっと敬遠してたのだけど、まあ、とにかく人が多い。上野のフェルメールの真珠の首飾りや耳飾りのときはこんなに混んでいなかった。
展示はいろいろな絵画を時代別に並べていくタイプで、こういうのは私はあまり面白くないのだが、予想どおり、フェルメール以外はまあまあな感じ。そのフェルメールの「天文学者」は上野の東京都美術館の「真珠の耳飾りの少女」と同じく、絵画の前に行くコースは立ち止まっちゃだめ、絵画の前に行かないところでは立ち止まっていい、という仕様。「真珠の耳飾りの少女」は細かいところのない絵なので、それでよかったが、「天文学者」は細かいところが多いので、前に行っても立ち止まっちゃだめだとよく見れない。立ち止まっていいところだと遠くてよく見えない。オペラグラス持ってる人がいたけど、フェルメールに限らず、国立新美術館のタイプの展覧会はオペラグラス必要だと通切に感じた。上野ではそんなことは一度も感じなかったのだが。
まあ、そんなわけで、立ち止まっちゃダメのコースを2回通り、立ち止まっていいスペースでじっくり見たけど、それでもよく見えない、見た気になれない感が圧倒。たまたま立ち止まっちゃダメコースがすいていたからいいけど、そのあとどっと混んできて、何度も通るのが大変な感じになっていった。
この「天文学者」がちょうど真ん中くらいで、なんとなく消化不良でがっかりしていたが、そのあと、「これは!」という作品が出てきた。
イギリスの画家ゲインズバラの「庭園での会話」。木々の茂る庭園のベンチに座った男女を描いた絵で、見た瞬間、思わずそこに立ちつくしてしまった。音声解説もないので、人はあまり集まらない。だから、前でじっと立って見ていても全然平気であった。
美術展に行って、1つだけでも「これだ!」と思える作品があれば、行った価値があったというもの。このゲインズバラはターナー、コンスタブルと並んで、イギリスの代表的な風景画家だが、実はキューブリックの映画「バリー・リンドン」の映像はコンスタブルやゲインズバラの絵を参考にしたと言われている。そして、このゲインズバラの「庭園での会話」は、まさにその「バリー・リンドン」の世界、いや、原作者サッカレーの世界そのものだった。
うっそうと茂る木々のみずみずしい緑を背景に、ベンチに腰かけた男性の赤い服と女性のピンクのドレスが際立つ。まじまじと見てしまったけど、ピンクのドレスのきらめきがなんとも言えず、背景の緑がまた美しい。絵ハガキは残念ながら、その色合いをまったく表現できていなかった(カタログも同様)。
というわけで、ゲインズバラの絵に出会えただけで来たかいがあったというもの。もちろん、ほかにも気に入った絵はありましたが、なんというか、こういう百花総覧みたいな、あまり求心的なテーマがない美術展はどうも面白くないのですね。やっぱり上野の西洋美術館がテーマがはっきりしていて面白いな。国立新美術館はワンフロアでの展開なのがよいけれど。ただ、この種のガラス張りの建物って、もうあまり流行らなくなっているような。

ルーブル美術館展のあとは東銀座で「ルック・オブ・サイレンス」の試写。インドネシアの50年前の大規模な虐殺事件を描いた「アクト・オブ・キリング」の姉妹編で、虐殺を正しいと思い、良心の呵責を感じない加害者たちを前回は加害者側から描いたのに対し、今回は被害者側から描くというもの。これもヴェネツイア映画祭で5部門受賞なのだけれど、前作に比べていろいろとむずかしいというか、やはり個人としての加害者だけ責めても限界があるな、という感じがした。
最初に見た「さよなら、人類」も人間の歴史の暗部を描いたようなところがあり、「ルック・オブ・サイレンス」とあわせて、そういった面について考えさせられる。

2015年5月25日月曜日

キング牧師の映画

キング牧師が1965年に黒人の投票権を求めて行った抗議の行進を描いた映画「グローリー 明日への行進」を見た。
この映画、アカデミー賞作品賞候補になったときは日本での公開が決まっておらず、主題歌賞を取ったので公開が決まった。
映画自体はちょっと演出がぬるいところもあるのだけれど、たまたま試写を見たのが先週の月曜日で、その前日の日曜日に大阪市で市を解体して特別区にするかどうかの住民投票が行われ、また、東京・秋葉原ではヘイトスピーチの団体が警察に守られてデモをするということもあったので、いろいろと考えさせられたし、また、キング牧師の力強いスピーチには何度も目頭が熱くなった。
アメリカは1965年にはすでに黒人にも投票権があったのだが、あちらは投票するには有権者登録をする必要があり、南部では黒人の有権者登録を妨害していたのだ。そこで、キング牧師は大統領に、黒人の投票権を守る法律を作るよう迫るが、大統領はなかなか行動しない。そこでキング牧師は南部の中でも最も人種差別が激しいアラバマ州セルマで抗議の行進をするが、警官隊によって参加した黒人たちが多数負傷するという事件が起こる。それがテレビで放送され、全国から支援者が集まり、次の行進には白人も多数参加。参加した白人が差別主義者の白人に殺されるという事件も起こる。
大統領はキング牧師に妥協案を出したりするのだけれど、キング牧師はぶれない態度を貫く。このぶれない態度というのが、大阪市の解体に反対した自民党大阪府連や沖縄の翁長知事の態度を連想させて、やっぱりこうじゃないといけないのだなあと思ったりした(自分だったらけっこう妥協案にのってしまいそうな気がしたので)。
大阪市の住民投票は、とにかくあの都構想というのがかなりいかがわしくて、賛成派の市長らが大金をつぎ込んで宣伝活動し、反対する側は自民党から共産党まで一致団結してはいたけれど、草の根で活動していたというのが印象的で、おまけに自民党は反対なのに官邸は大阪市長に肩入れして、その背後にはこの住民投票を憲法改正につなげようとしているのでは?という憶測もあり、どうなるかと思ったのだが、僅差で反対派が勝利。しかし、その結果に対し、高齢者や生活保護受給者のような弱者が反対するから世の中がよくならないという論法がマスコミや評論家などから流れるようになった。
そして、弱者は社会に養ってもらっているのだから投票権をなくせとかいった主張まで出てきている。大阪市の住民投票は女性の反対が多かったのだが、さすがに女は投票権を持つなという論調は出ていないが、極端なことをいえば、この論調は女性の参政権を奪うところまで行くような理論なのだ。
結局、日本には民主主義は根付いていないのではないか、投票権の意味がわかっていないのではないか、という気がして、最近は暗澹たる思い。キング牧師のような投票権をめぐる戦いが日本でなかったからなのか。
そんなことを考えると、「グローリー」はやはり見るべき映画だと思う。

2015年5月21日木曜日

「つまびらかに」と「ポツダム宣言」

安倍首相がまたやっちまったので、今度はポツダム宣言がトレンド1位とか、以前は日教組がトレンド1位になったのですが、ポツダム宣言は衝撃的で、もう英文記事が世界に発信されているようです(もう、ほんとに日本を滅ぼすよ)。(追記 なんと、欧米ではまったく報道されてないそうです。)
で、ポツダム宣言を読んでないからわからないというのも問題なんですが、私が気になったのは、「つまびらかに読んではいないので」という答弁。
「つまびらか」って、こういう使い方するのか?
調べたら、「つまびらか」はもともとは「つばひらか」または「つまひらか」なのだそうで、意味は「詳しく明らかなさま」ということなのだけど(この言葉、私は一応、知ってるけど使いません。私は執筆でも翻訳でも、シソーラスか何かで調べて見つけた言葉を使うということを絶対にしない。自分の頭から直接出てくる言葉しか使いません=だから翻訳家には向かないのだった)、文法的には形容動詞。おお、なつかしの形容動詞だわ!
で、用例としては、「真相をつまびらかにする」、「生死のほどはつまびらかでない」といった言い方。うん、納得!
が、「詳しく読んでいない」を「つまびらかに読んではいない」はやっぱり変だと思う。
「真相を詳しくする」、「生死のほどは詳しくない」という日本語が変なのと同じ。
文法的にいえば、形容動詞を間違って副詞として使ってしまったのが、「つまびらかに読んではいない」だと思います(国語学のみなさま、いかがでしょうか?)
おそらく、「きちんと読んでいないので、その問題についての私の認識はつまびらかでない」というのが正しい日本語であると思います。
まあ、首相の問題はポツダム宣言を知らないということではなく、日本はポツダム宣言を受け入れた、でも、私には関係ないし、私は受け入れないってことじゃないかと、ツイッターあたりでは指摘されています。英文記事もリジェクトという英語を使っていますよ。いいのか、これで?

ということで、ネット界隈ではみなさん、改めてポツダム宣言を読んでいるようです。
現代語訳(英語原文へのリンクもあり)。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/20/potsdam_n_7341178.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001
安倍首相は国民にお勉強させてくれますね。

さて、今年の前半は某大学の映画の授業で英米の監督による太平洋戦争の映画をとりあげているのですが、初回授業で「日本のいちばん長い日」の一部を見せました。その冒頭に日本がポツダム宣言を黙殺し、その後、広島長崎に原爆が落ちた、という一部始終が描かれていて、とても勉強になります。日本側にはポツダム宣言受諾すべきという意見があったにもかかわらず、軍が一億玉砕を主張、それで黙殺になってしまったという経緯が描かれています。
実はこの授業、初回は60人もの学生が出席していたのですが、なぜか2回目は30人ほどに減り、どうしたのかと学生に聞くと、初回のあとに抽選があったのだそうです。なんでもこの授業は40名定員なのだとか(担当教師が知らないのもなんだけど、非常勤だからね)。で、実は、初回に出た学生60名のうち40名くらいが抽選で落ち、初回に出席した20名と、出席しなかった20名になったようなのです。初回に出席しなかった学生の中にはもともと出る気のない学生もいるようで、毎回30人ほどしか出席していません。
というわけで、なんとなくボルテージが下がってしまうのですが、それでも熱心な学生はいるので、なんとかやっているというところです。

2015年5月20日水曜日

美しき冒険旅行

十代の頃に公開されて、ずっと気になっていた「美しき冒険旅行」をDVDで見た。
公開当時はあまり話題にならなかったが、ジェニー・アガターが全裸で泳ぐシーンとか、アボリジニの少年と一緒に全裸で立っているシーンとか、けっこう記憶にあった。内容も、「スクリーン」で読んだ記事のせいか(当時は私は映画雑誌は「スクリーン」)、ああ、そうだったよなあ、という感じで、初めてなのに妙に既視感があった。
が、その一方で、オーストラリアの生き物たちをアップでとらえるシーンや、自然と文明を絵的に比較するショットとか、予想と違ってかなり尖がった映画なのが驚きでもあった。
2年くらい前だったか、私が映画の授業をしている某大学への通学路で、学生がこの映画の話をしていて、授業で映画を2回に分けて見たのだけど、なんだかよくわからない、と言っていたが、確かにこの大学の学生の多くにはかなりむずかしい作品だと思う。私の映画の授業ではこういうのは使わない。
監督のニコラス・ローグは、実は好きな方とはいえない人で、面白いし、映像もいいけれど、なんか好きとは言えないタイプだった。たぶん、彼は写真家のようなタイプで、写真で何かを語るように、映像の断片で何かを語っているからだろう。ストーリーテラーじゃないわけだ。
もちろん、その映像の数々はすばらしい。これはあの大学の学生の多くにはわかるまい、と思いつつ、その映像には魅力を感じる自分がいる。
でも、同時に、気球を飛ばしている白人たちとか、何の関係があるの?と思うところもある。
アボリジニの子供たちを教育してるみたいな白人もだ。
主人公のイギリス人の姉妹と、大人になるための通過儀礼として放浪をしているアボリジニの少年の物語に、ああいった白人のエピソードが入るのが、あまり意味がないようにも見えてしまう。
しかし、アボリジニの少年が白人の少女に恋をし、求婚のダンスを踊りながら、しかし、受け入れられずに死んでしまうエピソードは痛切に心に迫る。少女は決して自然に同化せず、文明社会をなつかしんでいて、少年の思いは一方通行に終わる。
このエピソードは、初公開時に「スクリーン」で読んでいたのだろう。初めて見たにもかかわらず、すでに見たかのように理解できた。
その少女が大人になり、あの「美しき冒険旅行」をなつかしむラスト。
批判的なことを言えば、白人の勝手でできている映画だ。
アボリジニの少年だって、求婚しても受け入れられないことはあるわけで、そのたびに死んでたらやってけないはず。だから、結局は白人の自然願望を描いた映画にすぎないともいえる。
それでも、野生の少年の愛に報いない文明の少女という悲劇を、やっぱり感動して見てしまう私は、やっぱり文明サイドの人間なんだなと思う。

ジェニー・アガターは、「若草の祈り」を初公開時に見ていて、これはかなり好きな映画だった。「若草の祈り」と「美しき冒険旅行」だけかと思っていたが、けっこういろいろな映画に出ていると知って驚いた。「エクウス」にも出てたのか。あれは初公開時に見てるけど。
なお、この映画のアガターは16歳なので、ローグは全裸のシーンを撮ってもよいと思ったというが、当時は「ロミオとジュリエット」で15歳のオリヴィア・ハッセイと16歳のレナード・ホワイティングがベッドシーン(ヌードについて一部訂正 ホワイティングが後ろだけですがヌードに。16歳というのが当時の目安だったのがうかがえます)、そして、14歳の少年少女が結婚するという「フレンズ」という映画もあった時代なので、10代の少年少女の性は今よりもおおらかに描かれていたのだった。

追記
その大学のシラバスを調べてみたら、異文化の衝突というテーマで「野蛮対文明、ビデオ鑑賞」という授業があった。これかどうかわからないけど、もしそうなら、アボリジニの方を「野蛮」て言うのか。むむむ。「文明」の反対は「未開」だよね、普通、とかひとしきりツッコミが頭をよぎるのだった。
ところで、「美しき冒険旅行」で一番はっとしたシーンは、文明人が作った石の道路に少女が足を踏み入れると、それまで聞こえなかった靴音が響くところだった。まさに文明の靴音。

2015年5月13日水曜日

創元推理文庫「フランケンシュタイン」初版の表紙

http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/da4e959f923111e3bb593b29d5200daf

創元の「フランケンシュタイン」の表紙は今とは違っていたんですよ、そのうち段ボール箱をひっくり返して探して、写真アップしますね、などと書きながら、全然その気がなかったのですが、初版の表紙をアップしているブログがありました(上記)。
おお、本文と解説からも引用が!
同じ頃に出た「ガストン・ルルーの恐怖夜話」と同じ人のイラストだと思いますが、なんかすごくシックで、ホラーって感じがしませんね。この写真はあまり鮮明ではないですが、けっこう光沢感のあるきれいな絵でした。「恐怖夜話」の方もきれいでした。

しかし、前に(http://sabreclub4.blogspot.jp/2015/02/blog-post_27.html)、新潮文庫と角川文庫の「フランケンシュタイン」はどちらもタイトルが明朝体で、上に横書きでそっくり、と書きましたが、創元の初版の表紙がまったくそれだったんだ(原題が創元は一番下で、他は一番上の違いあり)。絵の色合いとかもかなり似ています。が、創元は人間が描かれていません。
やっぱ、この初版の表紙が地味だったんで売れなかったのかな。

多くの翻訳では、真ん中の怪物の語りの一人称を「おれ」にしていると思いますが、創元の訳では「自分」という言葉が使われていますが、もともと怪物の語る英語は格調高いので(なんたって、ミルトンから学んでますので)、そうしたとかいう話を聞いたことがあります。

なんにしてもなつかしい表紙。上記ブログの主様に感謝。

追記 ブログ主様の引用見たら、「全体的な完成度は今一歩」とか書いていたんだね、自分。今となっては作品としての優劣とかはどうでもいいんだけど、当時はやはり主流の古典と比べていた英文学の学徒としての自分がいたのだなあ。

2015年5月10日日曜日

大学でフランケンシュタイン(追記あり)

最近、「フランケンシュタイン」がずいぶん流行っているみたいだな、きっと、大学の授業でもやっているんだろうな、と思ってぐぐってみたら、いろいろな大学のシラバスが出てきました。
中には数年前の私の授業も出てきたが、あれは2年やったあと、やめています。
私の場合は「フランケンシュタイン」と人造人間テーマの映画という内容だったので、「フランケンシュタイン」(これは小説)から始まって、「ブレードランナー」、「ロボコップ」、「シザーハンズ」、「A.I.」、「アイ、ロボット」と映画が続き、最後に小説「わたしを離さないで」でしめるというものでした。
これだと「自分探しのテーマ」、「異端の人間のテーマ」、「生命倫理」、「アシモフのロボット三原則」あたりが全部入るという、以前からやりたかった内容で、たまたま某大学がチャンスをくれたので実現したのでした。
で、1年目は学生の反応がよかったのですが、2年目の反応が悪くて、2年でやめてしまいました。
同じ年にウェルズの「宇宙戦争」から始まる宇宙人テーマの授業もやってましたが、これも2年でやめています。
その後はおもに20世紀や現代を舞台にした普通の映画をいろいろなテーマに合わせて選んでやっていますが、学生にはやはりSFよりこの方がとっつきやすいみたい。

なのに、なんで、「フランケンシュタイン」が人気があるのか?
SFとして、ではない扱いだから?
そうかもしれない。怪物がかわいそうとか、そういうので人気があるのか?
先だってのNHK教育の番組も、ムック本を見ると、怪物とは誰のことか、とか、怪物は虐げられた女性だとか労働者だとか、ああ、そういうふうにしないと受けないのね、と思ってしまったわ。
それと、フランケンシュタインが無責任だという意見が一般に多いのだけど、確かに前半は無責任だけど、後半、女の怪物を造るときには、彼は怪物への責任と人類への責任の板挟みになるのだよね。そこに科学の深いテーマがあるのだけど、どうも英文学者は、女性を破壊するとかそういうフェミ系の解釈の方が好きみたい。
あと、フランケンシュタインが女の怪物を造らないことにした理由の1つが、女の怪物が怪物を好きにならなかったら、と思ったから、というのも重要で、ここから「フランケンシュタインの花嫁」とブラナーの「フランケンシュタイン」のクライマックスが生まれたのです。
女の怪物にさえ選ばれない怪物=究極の非モテですね。でも、女にも選ぶ権利があるのだよね。
実はこのあたりのテーマ、最近興味持ってるのですが、なんか、「フランケンシュタイン」だとフェミ系が多くて、それでなんとなく最近はやる気なくしてます。

さて、各大学のシラバスの「フランケンシュタイン」を見たのですが、うーん、やっぱり、大学の先生はこの程度なのか? 見てみないとわからないけど、全然SFわかってなさそう。まあ、オールディスの「十億年の宴」も翻訳は絶版だしな。
でもまあ、学部レベルならこれでもいいのかなと思うけど、東大の大学院のシラバスにも「フランケンシュタイン」があって、1818年の初版のテキストを読む、というのはいいんだけど、参考文献が、これが東大の院生が読む本か、と思って絶句してしまったよ。まあ、駒場だしな、と思わず言ってしまう(失言だけど消さないでおこう)。
なお、大学で「フランケンシュタイン」をやる先生のお名前には、私の知る人は1人もいませんでした。なので、好き勝手書いてしまいました(てへ)。

追記
以前、「新訳とか新薬とか」という記事で、新潮文庫の「フランケンシュタイン」の訳が長すぎる、1つの単語を長々と説明訳していると書いたが、同じように感じ、しかも実際に原文と比べた人のコメントがあった。
http://honto.jp/netstore/pd-book_26466539.html
2015/03/15 09:10
読み易くて楽しんだが原文と比較してかなりの付け足しがされている翻訳である。字が大きめとはいえ他社の物に比べて数十ページも増えないだろうと思っていたが数ページ程原文と比較して納得した。ただしそれが悪いとは言わない。芹澤氏のフランケンシュタインはこうであるという翻訳だろう。フランケンシュタインという小説を楽しむ上での不都合は感じなかった。同様の訳ばかり出ても仕方がないのでこれはこれでよい。ただし付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない。
(追記)
全文を比較したがちょっと足しすぎである。文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた。何らかの意図が有って故のことであろうが残念ながらそれは見えず、ただ付け足しの多い訳であるようにしか感じ無かった。同時に他の訳も比較したが光文社新訳文庫版は非常にライトで新潮社版とは逆に少々細部が削除されていた。創元推理文庫版と角川文庫版の新訳は程よい訳であると感じた。これから読む人にはこの両者どちらかをお薦めする。


私の場合は書店で立ち読みした程度だったので、これほどはっきりとは言えなかったが、やはりそうだったのかと思った。
「文章も軟らかくて親切なようだが固く冷たい原文とは異質のものに感じられた」というのもまったく同感。また光文社文庫は少々細部が削除というのも、立ち読みしたときの印象と同じ。
新潮文庫版は「付け足しが多い故に研究目的での使用には向かない」というのもそのとおりで、実際、新潮文庫版はそういう目的で使われることはあまりないだろうと思う。
一方、光文社文庫は大学教授の翻訳なので、大学の授業でテキストや参考書に指定されている。光文社文庫は改行も原文どおりでないので、これは問題では、と私は思うのだが、大学の授業では光文社文庫の翻訳と京大教授の中公新書で「フランケン」というのが多いようなのだ。
角川文庫に関しては、翻訳者が創元の訳をリスペクトしているようなので、創元の訳をめざしたものなのだろう。実際、訳文の簡潔さは創元に非常に近い。ただ、文の流れがイマイチな印象を受けた。(2015/5/30記)

2015年5月6日水曜日

GW最後の日

ゴールデン・ウィークもいよいよ最終日。
このところ話題もなく、写真ブログの更新ばかりしてましたが、最近目に入ったトピックから。

伊藤計劃原作の「虐殺器官」、「ハーモニー」、円城塔が引き継いだ「屍者の帝国」の3作がアニメ化予定、という話は聞いていたけれど、いったいいつ?と思っていたら、公開日の発表があったようです。
「虐殺器官」10月、「ハーモニー」11月、「屍者の帝国」12月とか。
このうち、「虐殺器官」と「ハーモニー」のポスターが出ていましたが、なんだか文庫の表紙の絵の方がよいかなあ。
「虐殺器官」は読んだんですよ。
面白いことは面白いんですが、元ネタに使った映画の数々がいちいち頭に浮かぶんで、気が散ってしょうがなかったです。
元ネタの映画の方が小説よりインパクトがあるから。
元ネタ映画の連想に頼るのはもう少し控えた方がよかったかと。
物語は、途上国が内戦などしていてくれた方が先進国に対してテロを起こさないから先進国の人たちは安心、という、先進国のエゴ丸出しの考え方に対する痛烈な批判になっていて、そこは非常によいと思いました。そこからのどんでん返しのラストもよかったです。
あと、描写が映画的というよりはアニメ的、特にゲームのアニメを連想します。
その辺の生でない感じというか、そこが物足りないと言うと、年だと言われそう。
アニメ化はどうなんでしょうね?
あまりお金をかけられそうにない感じですが。劇場公開も、一応公開して、あとはDVD&ブルーレイでの展開が中心という感じ。
「ハーモニー」はまだ読んでいませんが、「屍者の帝国」はアニメ的でないので、どうなのかな。
昔の文学や歴史の有名人総出演がアニメか。レット・バトラーをクラーク・ゲーブルに似せると肖像権の問題が出そうな気がしますが、全然別の顔にするとイメージくるっちゃうだろうしな。

鴻巣友季子氏がツイッターで、古典名訳文庫を作れと前から言ってるのにどこもやらない、というようなことをつぶやいたそうです。
古典名訳文庫。
定義がむずかしい。
森鴎外の「即興詩人」とか、坪内逍遥の「ハムレット」とか、二葉亭四迷のツルゲーネフとか、そういうのじゃないですよね?
かくいう私は高校時代に森鴎外の「即興詩人」を読んでいたく感動した覚えがあります。普通の翻訳ですでに読んでいたので、ストーリーはわかっていたのですが、鴎外が訳すとものすごい格調の高さでした(オリジナルは文学史的にはさほど高い評価は受けていなくて、メロドラマみたいな感じですが、私は好きでした。あ、作者の名前、書いた方がいいかな、アンデルセンです)。
たぶん、新訳が次々と出るので絶版になりつつある、大久保康雄や中野好夫といった過去の名訳者の翻訳のことを言っているのだろう、と誰もが思うと思いますが、このあたりの人の翻訳って、確かに新訳が出たために絶版になっているのもあるけど、現役のものもまだまだ多くて、たとえば「大久保康雄全集」は当分できそうにないのが現状だと思います。
それでも「大久保康雄全集」はいずれできるかもしれないな、と思いますが、このあたりの人の翻訳を出す古典名訳文庫は現状からしてまず無理でしょう。
講談社が自社の文学全集に入っていた名作の翻訳を学芸文庫みたいなところで出していますが、売れてないのか、定価は高いし、「鳩の翼」とかもう絶版じゃないかな?
もっとも、新潮文庫の「風と共に去りぬ」新訳は5冊全部買うと3500円超えそうだし、岩波文庫の「風と共に去りぬ」新訳は6冊全部買うと5000円超えそうです。
だったら、定価も高くしても、と思っても、やっぱり売れないだろうな、と。
出版社は在庫を抱えると税金がかかるから、電子書籍にしたり、オンデマンドで印刷するみたいなやり方でないとだめじゃないかな?
しかし、若い頃に愛読した岩波文庫のフィールディングの「トム・ジョウンズ」(朱牟田夏雄の名訳)が絶版状態らしいのを思うと、なんとかしてよ、とは思うんですけど。
それと、なんで今、古典新訳ブームかというと、光文社の「カラマーゾフ」がものすごく売れたのがきっかけらしいんですが、この「カラマーゾフ」の翻訳がいろいろ問題があるようで、ほかにも光文社の新訳には問題があるものがいろいろあるようで、その上、新潮文庫の新訳にも問題のあるものが少なくないみたいなのに、それでも新訳と銘打てば売れるから次々新訳が出てきてるわけなんだけど、ではなんで新訳と銘打てば売れるかというと、それは、日本人は新しいものが好きだから、としか思えん。
実際、旧訳をのぞいてみると、それほど古くないんです。え、これでもいいじゃん、と思うものが多い。たぶん、1950年以降の名訳は実はあまり古くなっていないような気がします。
だから、新訳ブームは新しいもの好きな日本人の嗜好が大いに関係してるんじゃないかと。
賃貸住宅だって新築がやたら人気だし、ナントカと畳は新しい方がいいということわざ(?)もあるし。
西洋は石造りの長持ちする家を作るが、日本は木造の家を作り、短いサイクルでどんどん新しく作り変えていくから、日本人はなんでも新しいものが好きなのだ、ということをもうだいぶ前にどこかで読んだのですが、新訳ブームも結局そこなんじゃないか、そして、この古典新訳ブーム自体が新しくなくなり、新訳だからといって売れるわけではなくなるのではないか、と思うのです。
光文社の古典新訳文庫の定価の高さを見ると、新訳という言葉はしだいに売りにならなくなっているのではないかと思います。
で、そのとき、新訳が出て絶版にされた過去の名訳はどうするよ、って、困りましたねえ。でも、もともと、需要がなかったんでしょうね。