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2026年9月25日金曜日

読書:「ヴェリティ」&「白鳥とコウモリ」

 映画化で話題のコリーン・フーヴァー著「ヴェリティ」と東野圭吾著「白鳥とコウモリ」。

「ヴェリティ」は映画公開がまだ少し先のせいか、すぐに借りられた。「白鳥とコウモリ」は予約が33人くらいだったけれど、市内の図書館には蔵書が17冊もあったので、実質2番目くらいだな、と思って予約。1か月くらいで借りられた。

「ヴェリティ」はねえ、ちょっと、あんまりおもしろくなかったです。ロマンス小説なので、頻繁に女性目線の性描写があって、これが私は苦手。で、ストーリーの方もそんなにおもしろくなかった。アメリカはロマンス小説が非常に盛んで、ファンが多いようだけど、日本ではそれほどではない気がする。


「ヴェリティ」は映画が東京国際映画祭で上映されるというので、図書館での予約が増えているようだ。私が借りたときはそんなでもなかったのだが。ていうか、入っている図書館がすごく少ない。


「白鳥とコウモリ」は、ラノベと言われている東野圭吾作品だけど、確かに人物描写が薄く、会話とストーリーで話が進んでいく。映像化前提で、人物の掘り下げとか背景描写とかは映画やドラマにお任せ、なんだろうなって感じはした。

しかし、加害者の家族の問題は「手紙」に通じるし、(ネタバレ)子どもの邪悪な面とその背景は「白夜行」に通じるかもしれない。

とりあえず、じっくり読まなくても筋書きだけ追っていけばいい感じの小説なので、500ページ以上あったけどあっという間に読めた。確かに筋書きはうまい。

「白鳥とコウモリ」映画化のキネ旬の星取り表を見ると、3人の評者のうち、2人は原作を読まずに映画を見ていることが明らか。もう1人はしっかり原作を読んでいるのがわかる。原作を読んでいない人の評は、映画化についての評とは言えなかったり、ちょっと変だったり。やっぱり原作を読まずに映画を批評するのは危険だと認識した。

「ヴェリティ」は人間の邪悪さみたいなものがテーマになっているが、「白鳥とコウモリ」も最後にちょっと、そういうのが出てくる。「ヴェリティ」は本質的にはごく普通の人間が邪悪になっている感じで、「白鳥とコウモリ」も最後に出てくる邪悪さは、やはりそういう感じなのが印象に残った。ネタバレになるが、どちらも最後に出てくるのが子どもの邪悪さなのだ。

2026年2月6日金曜日

キネマ旬報ベストテン号と「PRIZE」

 昨日発売のキネマ旬報ベストテン号。外国映画ベストテンに参加しています。今回はコメントにものすごく力を入れました。これが公に出る私の最後の文章になっても悔いはない(って、おい!)。


そして、かなり前に図書館に予約していた村山由佳の「PRIZE」がやっと借りられた。キネ旬ベストテン各賞もPRIZEってことで、PRIZEつながりでついでに感想を。

しかし、これ、感想書いたらネタバレになっちゃうので、差し支えない方のみ、どうぞ。

2025年11月13日木曜日

いまさら「羊と鋼の森」

 なんとなく近くの市立図書館へ行ったら、だいぶ前から気になっていた「騎士団長殺し」があったので、それを借りることにし、近くを見たら映画化もされた「羊と鋼の森」があったので、それも借りた。

「羊と鋼の森」はすぐに読めた。


映画化も話題で、気になってはいたが、ピアノの調律師の話というのがどうも興味が持てず、原作も読まず映画も見ていなかった。

原作は、ピアノが好きな人や、ピアノを別のものに置き換えて共感できる人にはすっごくいい話だろうな、と思った。

そうでない人にとっても、癒される話で、文章も美しく、読者にいやな感じを与えるところがない。

ああ、こういう小説が受けるんだ、と思った。

私は、もっと、棘のある作品が好きで、人物のどろどろとか、重いテーマとか、そういうものを求めてしまう。

ピアノを習ったこともないのに調律師をめざし、実際に調律師になる主人公の青年は、自分は才能がないのではないかと思うことが多いが、周囲からは才能があると思われている。

それって、すごくいいことじゃない?

だって、普通は、自分は才能があると思うのに周囲からは認められないとか、あるいは、自分は才能がないのではないかと悩み、かつまた、周囲も才能があるとは思っていない、ってのが現実でしょう。

才能があるのに周囲から認めてもらえないと、ずっとずっとずっと、長い人生ずっと思っていた私にとっては、うらやましい限りです。

だから、共感できなかった。

また、調律師が全員男性で、女性は調律師の会社の事務員と、ピアノを弾く双子の高校生姉妹っていうのも、ジェンダー的にどうなのよ、と思う。

その辺の古さもまた、人気の秘密なんじゃないかとさえ、思ってしまうのだ。

ピアノを弾く姉妹のうち、世間的には才能があると思われていた妹がピアノが弾けなくなり、主人公が認めていた地味な姉の方が才能を開花させる、という展開も、正直、あまり感心しなかった。ピアノをあきらめて調律師をめざすという妹に、葛藤がなさすぎる。主人公の自己陶酔的成長物語がすべてな感じがする。

追記

ああ、そうか。自分は才能がないと思っている地味な人が、実は才能があって認められる、という話なのか。主人公の調律師もそうだし、地味な姉もそうだ。これが多くの人の願望なのか?

2024年3月22日金曜日

「その日のまえに」再録

 商業誌に執筆した原稿を再録することは避けてきたのですが、どうしても再録したくなったので、ここに掲載します。2008年秋にキネマ旬報に掲載された文章です。大林監督から、「ここまで理解してもらえるのか」というお葉書をいただきました。


「その日のまえに」

 いつか、誰にでも訪れる“その日=死”に直面した人々を描く重松清の連作短編集「その日のまえに」。そこに描かれる死は、人生に足を踏み入れたばかりの子供の死や、幼い子供を残して逝かねばならない親の死である。人生の半ばに訪れる理不尽な死。それを前にした家族の悲痛な思いは想像するだけでつらいものがあるが、この短編集は死をメロドラマにはせずに、日常生活の中で淡々と描く。そこがかえって、涙を誘う。

 自らを「七十代の新人」と呼び、「“いつか見た映画”の中に戻って了った子供」と称する大林宣彦監督は、この連作短編集を一本の映画にするにあたり、涙よりも微笑みを、暗さよりも明るさを前面に押し出し、おもちゃ箱のような楽しい映画にすることを選んだ。そのおもちゃ箱の中身を広げ、「映画と遊びに来ませんか」と監督は言うのである。

 おもちゃ箱の中には、節分の豆まきの鬼のお面から、削ったばかりの鉛筆まで、さまざまなものが入っている。寄せ書きの色紙、青いペンキ、ひこうき雲、真っ赤な口紅、タンポポの綿毛、大きなチェロ、雪を盛った茶碗。ひとつひとつに思い出がある。ひとつひとつに秘密がある。映画はゆっくりとゆっくりと、時間をかけて、その秘密を見せていく。

 思えば、死は究極の秘密である。日常生活では、死は巧妙に隠されている。いつかその日が来るとわかっていても、四六時中、死と向き合って暮らすわけにはいかない。私たちは死を意識の水面下に沈め、いまを生きる。死という秘密が隠されていても、人生は美しい。いや、死という秘密が隠されているから、生は美しいのだろうか。

 映画「その日のまえに」が美しいのは、映像のひとつひとつに秘密が隠されているからだ。観客はまず、夜の海辺に放り出される。子供が水死したらしいということがわかるが、映像はまるで劇画のようだ。これはいったい何だろうと思っていると、今度はデザイナーと妻の日常的なシーンに変わる。南原清隆の飾らない朴訥とした夫と、永作博美のひまわりのように明るい笑顔の妻。転がる鉛筆と、偶然ついたキスマーク。幸せそうな夫婦なのに、突然、悲痛な叫びをあげて部屋に逃げ込む夫。いったい、何が起こったのか。

 原作を読んでいれば、ある程度は秘密がわかる。原作は七つの短編からなる連作で、最後の三編がデザイナー夫婦の話。けれども、それ以前の四編も、夫婦の物語とどこかでつながっている。映画はこのデザイナー夫婦の物語をメインプロットに、水死した少年にまつわるエピソードをサブプロットにして、そこに他の物語を変形して組み込むという、みごとな脚色を施している。

 しかし、この映画がすばらしいのは、映像に秘密を持たせるというその手法だろう。手についた青いペンキの秘密。キスマークになった口紅の秘密。夫婦がすれ違う黒いコートの男の秘密。思い出の町で、いきなり自転車で駆け抜けていく子供たちの秘密。路上の歌手の歌う言葉の秘密。歌に耳を傾ける中年女性の秘密。デザイナーの妻の名前の秘密(原作の和美をとし子に変えている)。ひとつひとつの秘密がやがて明らかにされるとき、そこに現れるのは、死を目前にした人が残される人に託した思いであり、残される人が受けとめる未来への希望である。

(以下、ネタバレになります。)

 おそらく、最も驚くべき秘密は、この映画が実にみごとな宮澤賢治ワールドだということだろう。賢治の愛読者ならすぐわかることだが、列車が登場すれば「銀河鉄道の夜」を、水死した少年と聞けばこの童話に登場するカムパネルラを、路上の歌手の芸名がクラムボンだと知れば「やまなし」を、チェロを弾くシーンがあれば「セロ弾きのゴーシュ」を連想する。路上の歌手は賢治の詩「永訣の朝」に曲をつけて歌う。若くして世を去った賢治の妹、とし子を歌った詩である。やがて、歌手は宮澤とし子となり、チェロを弾く賢治とともに旅に出る(賢治も趣味でチェロを弾いていた)。デザイナー夫婦は雪原を走る列車に乗る。列車は銀河鉄道であり、夫婦はジョバンニとカムパネルラになり、賢治ととし子になる。デザイナーの妻のとし子にも兄がいるが、夫の方が賢治と重ねあわされているのが面白い。とし子は賢治の故郷、岩手県の出身となっており、両親は賢治の妹にちなんでこの名をつけたことがわかる。

 「永訣の朝」は原作にもほんの少しだが言及されている。映画では路上の歌手が「あめゆじゆとてちてけんじや」と歌う。死を前にしたとし子が賢治に「雨雪をとってきてください」と言っているのだ。妹は私を一生明るくするために雪を望んだのだ、と賢治は思う。映画では、賢治が両手を上げ、茶碗に雪を受けようとしている。死にゆく妹が与える光を受けとめようとするかのように。

 デザイナーの妻、とし子もまた、夫に光を与えようとしていたのだ。青空を、ひこうき雲を、彼に残そうとしていた。その作りかけの青空の中で、おそらく彼女は太陽だったのだろう。原作で歌手が歌っていた「ヒア・カムズ・ザ・サン」は映画には登場しないが、とし子の顔を陽の光が照らすとき、それはまさしく「ヒア・カムズ・ザ・サン」になる。

 原作に潜んでいた宮澤賢治のモチーフは、大林監督のおもちゃ箱にはまさにうってつけだった。子供の視線で描かれた童話の世界は、大林マジックで底抜けに明るいものになった。時代錯誤の衣装を着た駅長君は、賢治の世界にいてもおかしくない。とし子の残した手紙の言葉(原作とまったく同じ)も結末の花火も、現世と来世、この世と永遠をモチーフとしてきた大林ワールドそのものである。

2023年10月18日水曜日

読んでいる本

 辺見庸の「月」は火曜日中に読んでしまいました。

タイトルの月は、たぶん、「肉づきへん」の月なのだろう。ラスト、月と虹というのは肉体についた血のことで、それにカゲロウがたかっている、というのはーーこのカゲロウの意味がまだちとわからん。ただ、全体に、肉体の重要性が描かれていると感じた。殺人犯は「心があるか」を問題にしているが、それ以前に肉体であると、人間の存在は。そのラストのすぐ手前に描かれているのは、内臓を露出させている女性の姿だ。内臓も含めた、生きた肉体であると。

フォークナーの「響きと怒り」は知的障碍者の語りだったけれど、「月」は重度障碍者の語り。ただ、重度障碍者の意識とは思えない内容がかなりある。健常者の片割れがいるという設定なので、完全な重度障碍者の意識ではないのだろう。

描写は完全に純文学で、まあ、これを映画化するのはむずかしいだろうなと思った。

水曜日は県立図書館へ。予約していた本と雑誌が届いていた。

雑誌は「映画芸術」の「福田村事件」特集。例によってこれは郷土資料で、館内閲覧のみ。


「福田村事件」と、「怪物」とクイア映画の特集、それと後ろの方の常設コーナーっぽいところを読んだだけですでに3時間。真ん中の追悼特集とかインタビューとか全然読めてない。さすがに1回じゃ無理なので、また来ることにした。2週間くらいは読める。


大昔のキネ旬並みの細かい字でびっしり書いてあるので、読むのに時間がかかる。執筆者1人当たりの文章量がとにかく多くて、近頃これだけ長いのを書ける紙媒体ってあまりないだろうと思うけど、その一方で、長くて冗漫だと感じる文章も少なくない。いくらでも自由に長く書いていい、みたいな感じだと(実際はどうだか知らないが)書くことに緊張感がなくなるのではないかとさえ思った。もちろん、長さを感じさせない文章もあった。

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の原作は、借りることができた。図書館の近くの喫茶店で3分の1くらい読みました。


映画は初日に予約してしまったけど、明日は遠方まで仕事だし、映画の前に全部読むのは無理そう。

2023年10月17日火曜日

これから読む本

 土曜日に渋谷に「ヨーロッパ新世紀」を見に行った帰り、なつかしの文京区の真砂中央図書館に行って辺見庸の「月」を借りた。

その前に地元で借りていた、リチャード三世は悪人ではなかったという推理小説「時の娘」は昨日読み終わった。


「月」は映画はちょっと気になってはいるものの、出来がイマイチらしいので二の足を踏んでいる。かわりに原作を読もうと思った。

前日にカーリルで調べたら、映画公開ということでけっこう借りられていたが、文庫本は出たばかりで図書館にはあまり入っていない。単行本は、その真砂中央図書館に在庫があった。

おお、まだ借りられてない、と思い、すぐに予約。真砂中央図書館は文京区に住んでいるときはよく利用したけれど、引越してからは行っておらず、その間に改修工事をしたので、それを見るのも目的で出かけた。

うーん、改修前の方が広々としていたような。明るくなったけれど、前の方が昔の図書館の匂いがしてよかったなあ。

で、すぐに借りられたのだけど、その後、予約が4件も入っていた。

映画が公開されると原作本が図書館で貸出中ばかりになる、というのは、スコセッシの新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の原作も同じです。

こちらも「花殺し月の殺人」というタイトルで単行本が出て、最近、映画と同じタイトルの文庫本が出た。文庫は出たばかりなので、入っている図書館は非常に少ない。単行本は、まだ公開前なので、貸出中ばかりというほどではないけれど、徐々に予約殺到の気配。



そこで日曜の夜にカーリルで検索すると、県立図書館に単行本が在庫あり。ここは穴場なんです。

で、予約して、近くの図書館に届くのを待っています。

ほかにも予約中の本があるので、さっさと読まないと大変だ。順番待ちの人もいることだし。

2023年9月24日日曜日

「こんにちは、母さん」原作を読む

 「こんにちは、母さん」の原作、永井愛の戯曲を読んだ。


初演が2001年とのことで、主人公・福江はこのとき70代。なので、福江は東京大空襲の経験者であり、亡き夫は戦時中、虐殺に加担したかもしれないことが示唆される。

福江が恋する相手はカルチャーセンターで「源氏物語」を教える元大学教授。彼らの時代は好きな人と恋愛結婚するのではなく、親などが決めた人と見合い結婚する方が圧倒的に多かったことがわかるせりふがある。日本でも半世紀くらい前までは「熊は、いない」ほどひどくはないけれど、似たような状況はあった。

元教授は福江と本気で結婚を考え、息子一家にも福江を紹介するが、理解を得られず、元教授は家を出て福江の家で暮らすことにする。映画と同じく妻とは離婚の危機、会社ではリストラをめぐり危うい立場の福江の息子も母親のところに戻ってきて、日常的に出入りする近所の女性たちとのやりとりがあるが、映画との大きな違いは、息子には娘はいなくて、かわりに成人して独立した息子がいるらしいこと(登場はしない)。また、福江たちは留学生の世話をしているので、中国人留学生が登場する。

この留学生の部分がホームレスに変わったのが映画版。戦争中の話が抜けるかわりにホームレスの問題を入れたということか。

福江と元教授の別れは映画とはまったく違う展開だが、その後、福江が暗い部屋で落ち込んでいるという描写は映画と同じ。その後、花火が上がって、ラストは映画と同じせりふで終わるけれど、別れの理由が違うので、印象が異なる。

全体に、映画は原作の毒を抜いた印象。元教授の家族に会ったあと、福江が自分だけ学歴がなく、教養もないことを知り、劣等感に陥るというのは映画にはない重要な部分。映画の吉永小百合は上品で知的だから、原作の学のない、時には乱暴な言葉も使う古い時代の庶民の女性ではなくなっている。

映画のラストは、結局、母親のもとに息子が帰ってきて、母と息子の後ろ向きなハッピーエンドになっているが、原作ではそういう子宮回帰のような印象はない。

いかにも舞台劇らしく、福江の家の向こうに隣の家があり、複数の場所で登場人物たちが別の会話をしているのが同時に聞こえるシーンとか、ああ、舞台だな、と思った。

2019年1月26日土曜日

疲れた1日&怪我の功名

土曜日は電気ストーブを探して近隣を歩き回り、結局、気に入ったのが見つからず、疲れた1日だった。
つい1週間前、ヨーカドーで暖房機2割引きをやっていたのだけれど、そのときは自宅のストーブは壊れていなかったので、買っておきたいなと思いつつ、買わなかった。
それから数日後、ストーブが壊れる。
壊れたといっても上下2本の放熱管のうち、よく使う上の方がつかなくなったので、下の方はまだ使える。上の方だけか、上下両方なので、どうしても上の方が酷使されてきたのだ。
そして、下の方だけでもけっこう暖かい。どうも上の方が熱が弱くなっていたようで、下の方だけでも今までより暖かい。
しかし、本当に寒いときは上下両方つけないときついので、新しいのを買おうと、近所の西友へ行く。
西友は今、家電売り場の改装を控えて(つか、家電売り場縮小なんだろうな)1割引きを実施中。
が、なんと、暖房機は割引なし。
とりあえず、2割引きのヨーカドーへ行こうと思い、その前にホームセンターに立ち寄って、そこで気に入ったものがあれば買おうと思い、出かけた。
しかし、ホームセンターでは電気ストーブはほとんど在庫なし。
そこでさらに遠征して隣の駅近くのヨーカドーへ。
が、しかし、すでに遅く、ここも電気ストーブは高いものしか在庫がなかった。
別に高いものでもいいんだけど(3割引きになっていたし)、好みのタイプではないのですね。
近くにヤマダ電機があるので、そこも寄ってみたが、やはり電気ストーブは在庫が少なく、1470円というバカ安のが売っていたが、タイプは好みだけどどうも信頼感に欠ける気がして却下。

そんなこんなで結局地元の駅のそばに戻り(この時点で8千歩くらい歩いていた)、疲れたのでドトールで休憩。「バーニング 劇場版」の原作「納屋を焼く」を収録した講談社の「村上春樹全集」の1冊を読む。本は地元の図書館から借りたもの。
村上春樹初の短編集「中国行きのスローボート」と、新潮文庫から出ている短編集「蛍・納屋を焼く」などが収められている。このうち「中国行きのスローボート」は新刊のときに買って読んだが、あまり面白くなく感じ、以後は村上春樹を読むのをやめてしまったという短編集。それまでの3つの長編は読んでいて、好きだったのに。
で、「蛍・納屋を焼く」などはすでに自宅で読んでいたけど、「中国行きのスローボート」も再読してみようと思い、この日、どこかの喫茶店で読めればと思ってバッグに入れていたのだ。
読み始めてすぐに、ああ、やっぱりこの短編集はだめだ、と思った。「蛍・納屋を焼く」などの方は面白かったのに、こちらは昔の記憶そのままのついていけなさだった。
文体が、やっぱりちょっと、違うのだ。
でも、途中から読める話が出てきて、ひととおり最後まで読んだあと、もう一度、最初の方のだめだと思った作品いくつかを読んでみたら、今度はとりあえず読めた。
「中国行きのスローボート」の短編は確かにどれも短編の実験みたいなところがあり、そこが評論家には好評だったのだろうと思う。
しかし、なんだね、「カンガルー通信」とか、ストーカーというかセクハラだろ、これ。
最後に「納屋を焼く」をもう一度読んで、帰りに図書館の返却ボックスに返したが、「納屋を焼く」はやはり面白い。ただ、作者の解説によると、これはかなり手を入れたとのことで、雰囲気が変わっているかもしれないと書いている。この小説を書いたとき、村上はフォークナーの「納屋を焼く」を知らなかったので、初出の「フォークナーを読んでいた」というところを「週刊誌を読んでいた」と書き直している。映画の方はフォークナーの「納屋を焼く」も取り入れられているが、フォークナーのような具体的な作家名と、ただの週刊誌では印象が違うというか、せめて別の作家か何か具体的な名前にしてほしかったと思う。

帰りに西友によって電気ストーブを見たが、好みのタイプはメーカーがまったく聞いたことのないところなので買わずに帰った。やはりヨドバシカメラに行った方がいいのだろうか。なんにしても早く買わないとどこも在庫なくなってしまいそう。
実は団地に引っ越してから西友の家電売り場でいろいろ買い物をしているのだけれど、1割引きになったときにスティッククリーナーを買った。これ。
3年前に掃除機が壊れ、以後、ウェットシートで拭き掃除になっていたのだけれど、埃を吸い込むにはやはり掃除機、ということで、安いのを買いたいと思っていた。充電式は好きではないし、紙パックつきの方が楽なんだけど、掃除機に合う紙パックを同じ売り場で売ってなかったりで、結局これに。安いから壊れるのも早いかもだけど(前のはドンキホーテで2千円くらいだった)。

翌日の追記
こういうのを怪我の功名と言うのであろうか。
土曜日は好みの電気ストーブを求めて徒歩15分くらい離れたホームセンターとヨーカドーとヤマダ電機をめぐり、店頭にろくに商品がないことを知って愕然として帰ってきたが、実は怪我の功名とも言えることがあった。
帰り道、ひどい風で土ぼこりが舞っていたので、そこを避けてふだんとは違う道に入り、そのままドトールの方に向かったのだが、少し手前にコインランドリーがあった。
ここは団地に引っ越す前の下見のときと、引っ越した直後には通ったところだが、そのときはコインランドリーには気づかなかった。
その後、徒歩15分ほどの、ヨーカドーの近くにコインランドリーを見つけ、3年半近くそこに通っていた。
洗濯日は日曜日と決めているので、ためしに行ってみると、なかなかきれい。洗濯機も乾燥機も新しいものが多い。
でも壁紙は汚れているし、手洗い用の水道やシンクは古い。ただ、天井だけはものすごくきれい。
もしかして、引越の頃は休業中で、その後再開したのだろうか。
ここだと徒歩8分くらいなので、時間短縮。店も広いし、洗濯機や乾燥機も数が多いしきれい。自販機のドリンクも安い。
というわけで、コインランドリー通いがものすごく楽になった。
遠い方のコインランドリーは夏の日差し、冬の北風の中を15分も歩いていくのはかなりつらかったが、そのかわり、景色がよかったり、途中で猫に会えたり、洗濯中にヨーカドーで買い物したりコーヒーを飲んだりできたから3年半通ったのも悪くはなかったと思う。

2018年8月13日月曜日

「寝ても覚めても」映画と原作(ネタバレあり)

以前試写で見せてもらった映画「寝ても覚めても」(濱口竜介・監督)の原作(柴崎友香・著)を読んだ。
映画は原作とは全然ちがうやん、と思ったので、メモ的に書く。

原作は主人公・朝子の一人称だが、映画は三人称的にしか描けないので、そこで当然、差が出るのだが、それにしても、映画は原作をわかりやすくしすぎてないか?

つか、原作はジコチュー女の一人語りなんだが、映画では彼女の行動がしごく常識的な描写に変えられている。映画は原作を平凡な話に作り変えているのだ。

たとえば、朝子の恋人・麦はパンを買いに行くと言って出かけ、なかなか戻ってこないが、原作だと戻ってくるのは3時間後。映画だと前の晩に出かけて朝になっても戻ってこない(その後、戻ってくる)。
3時間くらいだったら、まあ、あるといえばあるよね。
子供じゃないし、このくらいだったら心配はしない。が、恋人を思う朝子からしたら、というのはある。が、映画だと翌朝になっても帰ってこないのだから、これは普通じゃない。
その後、映画では麦は、靴を買いに行くと言って出かけ、その後まったく帰ってこなくなるのだが、原作では海外へ行くと言って出かけ、その後、音信不通になる。これも原作の方はそんなに変じゃないが、映画だとやはり麦が変ということになる。

つまり、原作では変なのは朝子の方なのだが、映画では麦の方になっている。
その後、東京へ移住した朝子は麦にそっくりな男・亮平に出会い、恋人同士になる。ここは映画も原作も同じ。
しかし、映画では亮平は麦にそっくりであることは周囲も認めているが、原作ではそっくりだと思っているのは朝子だけで、周囲は、同じ系統というか、同じタイプぐらいにしか思っていない。
映画では朝子は亮平と同居し、事実婚状態になり、亮平の大阪転勤を機に婚約、新居も決めるが、そのとき、突然、麦が現れる。駆け落ちしようと迫る麦に、最初は抵抗した朝子だが、ついに麦と駆け落ちしてしまう。
しかし、原作では、朝子は突然、麦が現れた瞬間に駆け落ちしてしまう。
映画では亮平の絶望がリアルに描かれるが、原作では朝子の一人称なのでそういうところはあまり描かれない。
この駆け落ちのあたりの描写も、原作ではおかしいのは朝子、映画ではおかしいのは麦の方で、映画の麦はホラー映画みたいな雰囲気で、朝子は最初はおびえるが、原作ではいきなり麦が現れて即、駆け落ち。おかしいのはどう見たって朝子。ただ、その前から朝子のおかしな感じはあるので、唐突ではまったくない。

もっとも、映画でも、麦は実は存在しない、朝子の妄想では、と感じさせるところもある。
幻想から目覚めた朝子が亮平のもとに戻ろうとする最後のシークエンスも、リアルを生きようとする2人の姿が、泥水の川を亮平は汚いと言い、朝子はきれいだと言うあたりに、夢と現実をともに生きる2人の気持ちを感じさせる。このラストはとても好きだ。

しかし、原作はあくまで朝子の一人称なので、朝子のゆがんだ視点で語られているから、映画のような清々しい結末ではない。
原作では麦と亮平は似ているがそっくりではないという設定で、朝子だけがそっくりだと思っている、2人で1人だと思っている。が、駆け落ちした朝子は友人から携帯に送られた昔の麦の写真を見て、麦が亮平に似ていないことに気づく。2人は別人だ、とわかった朝子は、亮平のもとに戻る決心をする。
原作では麦と駆け落ちしたときに2人の男女が一緒にいるのだが、その2人が最後の部分でなぜ別れているのかもよくわからない。最後まで朝子の妄想なのだろうか?
朝子の一人称は論理的なところはまったくなく、その場その場の感覚で書いているから、わかりにくいところも多い。あとで、もう一度読み直そうと思う。
つまり、原作は文学ならではの、信用できない語り手の語る話なのであり、そこに最大の魅力がある。
だが、映画はそれをわかりやすく、朝子の心理も理解しやすくしてしまっている。
この映画がカンヌ映画祭で「めまい」と比べられたり、トリュフォーの映画と比べられたりしているのもうなずける。わかりやすくするとそうなるのだろう。その分、凡庸になったと私は思うのだが。

映画も原作も私の好みではない手触り感が濃厚で、正直、どちらも好きにはなれないが、客観的に見て、やはり映画は原作を凡庸にしたと感じてしまう。もっともこれはストーリーや人物、テーマの話で、映像表現はまた別ではあるが。

2018年4月8日日曜日

「空海」原作で肩を痛める。

映画「空海」原作、夢枕獏・著「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」徳間書店、2004年刊。

県立図書館で借りてきました。
市立図書館は予約多数で、しかも4巻なので、下手に全部予約すると3巻目と4巻目が先に来て、1巻目と2巻目はなかなか来ない、という羽目になるので、貸出中だけど予約が0だった県立図書館で予約。するとすぐに本が準備できましたというメールがあり、今日、取りに行ったのですが。。。

た、単行本だった。
厚くて重い本が4冊。
実は今日もまた「空海」インターナショナル版を見に行こうと思い、途中で図書館に立ち寄ったのです。
バッグに入れたらすごい重さ。図書館は自宅から徒歩15分くらいなので、引き返すわけにもいかず、しかたない、駅でコインロッカーに預けよう、と決意。
が、乗る駅までがまた徒歩15分。重いバッグを右手で持ってえっちらおっちら歩き、ようやく駅に到着。もう、ここでへとへと。しかもコインロッカーがどこにあるかわからない。
しかし、わりとすぐに見つかり、パスモが使えたので小銭もいらず(料金は300円)。
これで安心して、身軽になって電車に乗り、TOHO船橋へ。ここがまた駅から徒歩13分なので、預けないという選択肢はなかった。300円で本が4冊借りられたと思えばいい。

シネコンは前の記事と同じ場所で、ニオイが心配でしたが、今回はかすかににおう程度でした。かなり人が入っていて、しだいにポップコーンのニオイにまぎれてしまう。
「空海」インターナショナル版、ファーストデイの翌日だけはすいてましたが、あとはけっこう入ってます。他の映画館だと朝でも満席とか、ツイッターに出ている。
TOHO船橋は予約しない人が大多数のようで、予約する人も当日にならないとしないみたいなのですが、京葉線が強風で止まってしまうので、予約はけっこうリスクが高いのですね。金曜は帰りが強風でひどい目にあいましたが、土曜は昼間から運休だの遅れだのだったみたいです。

そんなわけで、今回はニオイも気にならず、中国語音声で映像もクリアできれいで、大満足でした。
吹替えのときは大きいスクリーンで映像きれいだけど吹替えが不満で、インターナショナル版だと音声は満足だけど映像がイマイチでしたが、このスクリーン(MX4D用)は大きくはないけど映像的にはかなりよいので、欲求不満が解消しました。
週末からはまた時間もスクリーンもかわる可能性があるので、どうなるかわからないけど、ここであと1回は見れるかな。

というわけで、ニオイもほとんど気にならず、音声も映像もベストな感じでしたが、見ているうちに背中が痛くなってきた。
あの重い本4冊を右手で持って徒歩15分がきいたのか、右の肩の下あたりを痛めてしまったようです。
原作は早速帰りにコーヒーショップで読み始めましたが、会話が多くて下の方が白いのでわりと速く読めそうです。

2017年9月21日木曜日

イヤミスの女王

先週だったか、沼田まほかる原作の映画「ユリゴコロ」と「彼女がその名を知らない鳥たち」の試写をハシゴできる日があった。
前日までは行こうと思っていたのだが、試写状の文章を見るとどちらもイヤミスみたいな雰囲気。調べてみると、原作者の沼田まほかるはイヤミスの女王と呼ばれている。
うーん、やっぱやめよ、と思って、かわりに「パーティで女の子に話しかけるには」と「永遠のジャンゴ」のハシゴをした。前者はイギリス映画、後者はフランス映画。
「パーティ~」の方はSF仕立ての青春もので、最後はほろっとさせる、なかなか面白い映画。ただ、男の子たちの女性差別っぽいところは気になる。
「永遠のジャンゴ」はジプシーのジャズ・ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト(レナルトが正しい発音のようだ)のナチス占領下のフランス時代の物語。ナチスはジプシーも迫害、虐殺したのだが、ジャンゴは社会問題にはあまり関心がないが、やがて巻き込まれていく、という、フィクションの部分もかなり入っているらしい映画。脚本家として有名なエチエンヌ・コマールの初監督作だが、演出がイマイチで盛り上がりに欠けるし、全体として何が言いたいのかわからない映画になってしまっている。「ロダン」や「ル・コルビュジエとアイリーン」と同じく、どうも最近の有名人伝記ものはイマイチだ。試写状もらって行けなかったセザンヌとゾラの映画はどうなんだろう。
このほか、ドキュメンタリーの「猫が教えてくれたこと」や「ヒエロニムス・ボス」も試写で見たのだけど、猫好き、ボス好きの私としてはどうも物足りない。「猫が~」はトルコの映画で、猫の多いことで有名で写真集にもよく取り上げられるイスタンブールの猫が主役。猫に演技させていないところが好感が持てるのだが、ちょっと飽きるところも。「ヒエロニムス・ボス」の方はプラド美術館の「快楽の園」を美術家やアーティストたちが絵を見ながら語ったり、赤外線で下絵を見せたりするのだけど、ボスの絵が好きな人にはかなり物足りないのではないかと思った。絵に対する有名人の意見とか、あまり面白くないし、赤外線で見えた下絵も別に大発見という感じでもない。「猫」よりもこっちの方がかなり飽きてしまった。

さて、沼田まほかる原作の2本は、「ユリゴコロ」は試写終了でもうすぐ公開。「彼女がその名を知らない鳥たち」はまだ試写があるけれど、とりあえず原作でも読んでおこうかと思い、本を買って読んだ。
読み始めてすぐに、この作家の描写力に舌を巻いた。
50代半ばで初めて書いた長編小説で文学賞を受賞、「彼女が」は第2作にあたるそうだが、新人の作とは思えない。
前半はミステリーでもホラーでもサスペンスでもないので、これは普通の人間ドラマなのかな、と思っていたら、後半に入るとミステリーやサスペンスに変わる。
正直、前半は描写力はすごいけどこのままこの調子じゃなあ、と思っていたが、半分を過ぎたら俄然面白くなった。
前半も面白いし読ませるのだが、筋が動かない感があった。登場人物はイヤなヤツばかりだが、なぜかそれほどイヤな感じはない。主人公の男女、十和子と陣冶が基本的に善人だからではないかと思う。陣冶は不潔でだらしない男だが、なぜか憎めない。最後まで読むと、「ノートルダムのせむし男」のカジモドみたいな男だとわかる。十和子も陣冶の金で暮らしているのに彼をいじめてばかりいるが、そのわりには2人はいいコンビのように見えるし、十和子の心情も理解できる。
十和子と不倫関係になる脇役の2人の男は逆にひたすら自分勝手な悪人で、妻とうまく行っていないと言って不倫をするあたり、この手の男のいやらしさがよく出ている。なぜかこういう男の方が見かけがいいというのもなんとなくわかる。
後半、急にミステリーになり、最後はファンタジーのようになっていくが、ラスト、陣冶は実在した人間なのだろうか、という疑問が浮かんだ。実在した人間でないと辻褄が合わないのだが、それでも彼は超自然の存在のように見える。
とにかく文章力、描写力、そして人物の造型のみごとさに舌を巻いたのだった。
「ユリゴコロ」とあと2作、図書館に予約したらすぐに本がそろったみたいなので、週末はイヤミス女王三昧になりそうだ。

2016年8月31日水曜日

読書

地元の図書館に登録し、ネットで本を予約して近くの分館で受け取る、ということを試してみた。
今はどの町の図書館もあちこちの分館にいろいろな本を分散させている。以前は図書館の場所がどこも便利な地域だったのでネットで予約せずにそれぞれの図書館に出かけて借りていたが、今の町はJRのターミナル駅の近くと住んでいるところの近く以外はとても行けない。
で、ネットで検索したら、読みたい本がすべて借りられる状態だったので、まとめて予約。昨日今日で一気に読んだ。
「ルドルフとイッパイアッテナ」の3巻目と4巻目、それに作者の斉藤洋の童話作家に関するエッセイも借りて読んだ。
「ルドルフ」は1巻目と2巻目(映画の原作)は文庫で買って読んだが、どちらも80年代の作品。が、3巻目の「ルドルフとゆくねこくるねこ」は2002年、4巻目の「ルドルフとスノーホワイト」は2012年に発行されている。物語の中の時間は最初からあまりたっていないのに、本の発行はかなり間があいている。
「ルドルフ」シリーズはやはり1巻目の「ルドルフとイッパイアッテナ」が一番出来がよくて、2巻目の「ルドルフともだちひとりだち」もいいけれど、こちらは映画の方がうまいなと思う。前にも書いたけど、作者の立場が不安定な時期に書かれた1巻目が一番切実な感じがして、作者が安定してしまった2巻目はやはりそのあたりの切実さが失われた感じがする。
そして10年以上のブランクをあけた3巻目「ルドルフとゆくねこくるねこ」は、江戸川の川向こうに凶暴な犬が現れ、犬や猫を襲うというので、川向こうの猫たちがルドルフとイッパイアッテナに応援を頼む。結局、イッパイアッテナだけが川向こうへ行くことになり、ルドルフはブッチーや、川向こうの猫テリーと一緒に待つことに。その間のこの3匹の物語が中心になる。
大筋は凶暴な犬とルドルフたちの戦いで、その伏線がきちんと張られているけど、その大筋の間にある無関係なエピソードが面白い。
特にルドルフたちが浅草の浅草寺に行き、そこで偶然、岐阜から来たリエちゃんと再会。しかし、リエちゃんはルドルフを覚えておらず、友達から「リエちゃんのルドに似てる」と言われると、「うちのルドの方がかわいい」と言って、ルドルフ大ショック、という話。
そのあとすぐにリエちゃんとはぐれてしまい、ルドルフ自身、すぐにはリエちゃんとわからなかったこと、リエちゃんも小学生から中学生になっていて、思い出の中のリエちゃんとは少し違っていたこと、など、なかなかにじーんと来るエピソードなのであります。
これに、ブッチーの飼い主の金物屋が店をたたんで茨城へ行くことになり、ブッチーは残ることを決意、そして、ブッチーに恋人がいることがわかる、といったブッチーのエピソードがもう1つの中心となる。
こんな具合で、イッパイアッテナは最初と最後しか出てこないが、この2つのエピソードと、留守番中の3匹の猫のやりとりが楽しい。
ただ、野良猫か飼い猫かみたいな議論はやっぱり作者が安定しているせいか、切実さを感じない。
最後に、イッパイアッテナが川向こうで恋人ができたみたいなのだけれど、これは次の4巻目には生かされていない。
それからさらに10年のブランクをあけて発表された「ルドルフとスノーホワイト」。
こちらは前半が別のテリトリーでけがをしたブッチーの敵討ちにルドルフが出かけ、そこで女ボスのスノーホワイトに出会う物語。後半が、恋人と結婚して3児の父となったブッチーの娘チェリーが行方不明になり、ルドルフとスノーホワイトが探しに行く物語。つながりはあるとはいえ、2本立てなので、求心力が劣る感じは否めない。ことわざがいろいろ出てきて、ユーモアで笑わせるところも多いけれど、全体に、ヤクザの縄張り争いみたいな話になっているのが残念というか、「ルドルフ」シリーズにはそぐわない感じがするのだが。イッパイアッテナもスノーホワイトも、そしてルドルフも言葉が悪くなっているし(イッパイアッテナはもともと悪いのだが、今回はさらに悪く感じる)。
そんなわけで、4巻目が少し後味が悪かったので、もう一度3巻目を読みなおしたのでした。

2016年8月26日金曜日

「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者

「ルドルフとイッパイアッテナ」の作者・斉藤洋が亜細亜大学の教授(独文学者)であることを知り、驚くとともになるほどと思うところがあった。
なんでも斉藤氏は大学院を出て非常勤講師をしていたとき、お金がほしくて文学賞に応募することを考え、初めて書いた「ルドルフとイッパイアッテナ」でみごと受賞。が、翌年、専任講師の職に就き、童話作家と大学教師の二足のわらじをはくことになったのだとか。
つまり、大学院を出てすぐに専任講師になれていたら、童話作家にならなかったかもしれない?
しかし、この人、大学教員になったあともものすごくたくさんの童話を書いている。こんなに次々と書けるというのは並大抵のことではない。
最近ずっと奥田英朗の小説を読んでいて、今は「サウスバウンド」を読んでいるのだけど(ものすごく面白い)、奥田氏が岐阜の出身で、ほかにも岐阜出身の作家の本を読んだので、斉藤氏も岐阜の出身かと思ったら、イッパイアッテナの住む江戸川区北小岩の出身だった。でも、岐阜ともなんらかの接点はあるのだろう。
それにしても、斉藤氏が非常勤講師をしていて、将来が不安なときに「ルドルフとイッパイアッテナ」を書いたと知ると、いろいろわかることがある。
原作ではイッパイアッテナは飼い主がアメリカに行ってしまい、野良猫になると、それまで親しくしていた飼い猫たちから差別されるようになる。隣の家の飼い犬デビルとも仲良しだったのに、デビルもイッパイアッテナに意地悪をするようになる。ブッチーだけが野良猫を差別しない飼い猫として描かれる。
私も非常勤講師を長年やっていて、ついに専任になれなかったのでわかるのだが、大学院を出て研究職をめざした場合、まわりがどんどん専任になっていくのに自分だけいつまでも非常勤だとつらい。専任になった人たちは私に比べて優秀なわけではないと私は確信していたし、専任になれた人も優秀さでなれたわけではない思っていたが、それでも専任になった人は別世界に行ってしまい、非常勤の自分は同じ職場にいても差別されるというか、まともな人間として扱ってもらえない。
口では、専任になると大変よ、非常勤の方が自由でいいわよ、あなたは特に雑誌に映画評書いてるんだし、と言うが、実際は彼らは専任になれたというだけで優越感なのだ。そして、自分が専任になれたことを正当化するために、こちらを傷つけることを平気で言う。
その一方で、イッパイアッテナのような、飼い猫とは違う自由さを満喫しなかったと言えばうそになる。生活は苦しいが自由だった。組織や上の人に縛られることもなかった。
映画の後半の原作「ルドルフともだちひとりだち」では、イッパイアッテナの飼い主が帰国し、その家にルドルフも住めるようになる。しかし、自分の主人はやはりリエちゃんだと思うルドルフは岐阜に帰る決意をする(ここは映画とは違う)。このあたりは、童話作家と専任講師の両方になれてしまった作者の思いがあらわれているのだろうか。イッパイアッテナも、飼い主が戻ってきたが、俺は俺だと言う。そのあたりに2つのものを手に入れてしまった作者の立場が透けて見える。
「ルドルフとイッパイアッテナ」は野良として生きる猫たちの決意がにじみ出ているが、続編の「ルドルフともだちひとりだち」では彼らは住む家を手に入れている。作者が専任講師になれなかったら、どういう話に変わっただろうか。
斉藤氏はプロットを立てずに物語を転がしていくタイプらしい。これは奥田英朗とまったく同じだ。そして、重要なことは細部に宿ると考えているようだが、これも奥田氏とまったく同じ。奥田氏はこの手法で小説を書くことのつらさを「野球の国」で書いているが、童話を量産している斉藤氏には奥田氏のような悩みはないのだろうかと思う。ただ、どちらも先が見えない展開で細部を重視ということは作品からはっきりと読み取れる。

2016年8月6日土曜日

「最悪」最高

奥田英朗の長編「最悪」を読む。
これが最高。面白い。
虐げられた弱者の怒りが爆発する過程がしっかり書き込まれていて、最後に爆発するとすっきり。
奥田の描く人物って、どうしてこんなに人がいいんだろうと思うけど、それがあるから陰惨にならず救いがある。
今までは伊良部シリーズしか読んでなかったので、これからどんどん読もう。
ただ、解説に、3人の人物の話を交互に描いていく手法を映画的と書いていたけど、これは19世紀にサッカレーの「虚栄の市」やトルストイの「戦争と平和」があって、もともとは小説の技法。映画が小説を模倣したと見るべき。
また、解説者はこの手法を群像劇と呼んでいるが、群像劇ではない。
アルトマンの群像劇とこの手法を混同しているようだ。
最近の映画でいえば「スポットライト」が群像劇、と言えばわかると思う。

ブックオフで108円の本をまとめて買って読む、ということを先月からやっているけれど、奥田の「野球の国」、恩田陸の「図書室の海」はよかったけど、そのあとはずっとハズレだった。
角田光代の「三面記事小説」はやはり三面記事の事件をふくらますだけで意外性が少ない。ただ、この作家が家族の濃い関係を描くのがうまいことはわかった。
加納朋子の「モノレール猫」は小説としてのレベルの低さにがっかり。それでもこういう口当たりのいい、底の浅いものが受けるというのはわかるが、私にとっては時間の無駄。
最悪は中山七里の「さよならドビュッシー」。火事で全身やけどを負った16歳の少女がピアノコンクールで優勝するまでの話に殺人事件がからむというミステリーだが、やたら説教くさい。しかも、最後のどんでん返しで、ああいう説教してたお前はなんなんだよ、になるという最悪の展開。後味悪いったらない。なのに人気があるのか。このミス大賞は「四日間の奇蹟」も人の作品のパクリでひどかったけど、なぜかそういうレベルの低い受賞作が人気がある。
そのあとまたブックオフへ行ってまとめ買い。
乃南アサの短編集「悪魔の羽根」。これまたがっかり。
乃南アサは「凍れる牙」が面白かったのだが、主人公の女性刑事が自立した女性だったので、そういう女性を描く人かと思ったら、この短編集のヒロインが男に頼る女ばかりでうんざりした。
小説としてはうまい作品もあったけれど、半分くらいは面白くなかった。

というところで奥田の「最悪」を読んで、これこそ最高!と思ったのでした。

2016年7月23日土曜日

「野球の国」

なんとなく自分の日本語を磨きたいと思い、それには気になる日本人作家の文章を読むのが一番、と思ったので、ブックオフで108円の日本人作家の文庫本を5冊買うぞ、と思い、深く考えずにとにかくピンと来た5冊を買った。短編集3冊、エッセイ集1冊、長編小説1冊。短編とエッセイを中心にしたのは、短かめの文章の構成を少し勉強したかったから。
最初に読んだのは奥田英朗の「野球の国」。奥田が野球観戦を目的に、日本のあちこちと台湾を旅するエッセイ集。
奥田英朗と言えば、最初に読んだのは変人医師・伊良部のシリーズ1冊目「イン・ザ・プール」。映画化されて、その映画評の執筆を依頼されたので読んだ。面白かったので、2冊目「空中ブランコ」、3冊目「町長選挙」も読んだ。「イン・ザ・プール」はけっこう棘のある書きっぷりだったけれど、直木賞受賞の「空中ブランコ」ではその棘がとれてほんわかムードになっていた。1冊目の棘のある文章は実はあまり好きではなかったが、2冊目でこの作家が気に入った。
そういえば、森田芳光が映画化した「サウスバウンド」もこの人が原作なんだけど、まだ読んでない。映画の方は森田芳光にしてはめずらしくあまり面白くないと感じたので、原作は読まなかったのだが、考えてみれば森田の作風と奥田の作風はかなり違うと思う。「サウスバウンド」も今度読んでみよう。文庫本上下各108円で売ってたし(作者が儲からないだろ、おい!)。

「野球の国」は拾い物だった。
もともと野球は好きだし、この本の文章が書かれた2002年頃はプロ野球に詳しかったので、選手の名前もすぐわかる。
奥田英朗は映画も好きなので、地方に野球観戦に行ったついでにそこの映画館で映画も見ている。
最初に行った沖縄で、彼は「地獄の黙示録 完全版」を見ている。
そして、後半に行く広島では「インソムニア」を見ている。映画館は広島スカラ座で、昔私が広島へ行ったときに入った映画館がここだった気がする。
「地獄の黙示録 完全版」も、「インソムニア」も、映画に合せて翻訳本を出した思い出の映画だから、本を読みながら特別な感慨にふけった。
エッセイの文章がとてもいい。ユーモアにあふれ、人柄のよさがうかがわれる。不眠症なところは私にそっくりだ。映画に関する考え方は私を極端にしたみたい。「地獄の黙示録 完全版」を絶賛し、「インソムニア」を予定調和と切り捨てる。私はそこまでしないが、映画に関する物言いには共感するところが多い。
人が少ないところが好きだと言う。私と同じだ。けっこうしょっちゅう世の中に腹を立てているらしい。私もそうだけど、私の方がまだ少ないかな。でも、奥田の文体はとてもほんわかしていて、旅先で出会う人々への視線がやさしく、そんなに腹を立てているのかなと思う。しかし、「イン・ザ・プール」の棘のある文章を思い出すと、奥田がそうした棘をユーモアやほんわかした文体ややさしい視線で隠しているのだと気づく。
神は細部に宿る、と彼は書いている。まさにそのとおりのエッセイ集だ。いやなこと、腹が立つことをさらっと書いて、そのあとユーモアで棘を隠す。そして、すばらしいと思ったことをひたすら強調するから、いやなことが書かれていたことなんか忘れてしまう(思い返せばけっこう書かれていたのだが)。
奥田はプロットを作って小説を書くことが嫌い、あるいは苦手で、先を考えずに書くのだそうだ。小説の魅力は文体にあると彼は主張する。実際、文体がすばらしい作家だということはわかる。プロットを作り、それを頼りに予定調和の物語を書くのではなく、先の見えない状態で書く。だから書くことには常に苦痛が伴うらしい。不眠症もそこから来ているのだろう。でも、出来上がった小説やエッセイは苦痛とは正反対の魅力を持っている。
ブックオフでこの本を手に取ったのは正解だった。これこそ、日本語を磨きたい私が必要としていた本だった。文体もそうだが、なにより、予定調和ではない文章を手探りで書くこと、まさにこれが私がやりたいと思っていたことなのだ。これまであまりに理詰めできちんと考え抜いた文章ばかり書いていたので、そうではない文章を模索していたところだったのだ。
ブックオフには神様がいたってことですね。

2016年6月18日土曜日

33年ぶりの村上春樹

33年ぶりに村上春樹の小説を読んだ。
最後に読んだのは1983年の「中国行きのスロー・ボート」(短編集)。
その前に「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」を読んで好きになり、続いて「羊をめぐる冒険」を読んだら、あれ、と思った。
もともと村上春樹のデビュー当時の文体が好きだったのだ。内容は別にどうでもいいというか、内容ではなく文体に惹かれた。
当時、私は日本人作家の小説がだめで、継続的に読むほど好きだったのは川端康成くらいだったが、村上春樹は初めて好きだと思えた同時代の作家だった。
昔のことなのでよく覚えていないが、やはり文体だったと思う。内容はもうさっぱり忘れている。
なんというか、それまで日本人作家の小説を読むと、文章がどんよりしていて好きになれなかったのだが、村上春樹の初期の2作の文体はきらきらとして透明感があった。日本的なウェットな内容も、そのキラキラ透明な文体だと心地よかった。
ところが、「羊をめぐる冒険」では、文体が他の日本人作家と同じになっていたのだ。内容は確かに面白いし、羊の象徴するものも興味が尽きない。ミステリーのようにぐいぐい読ませるが、肝心な文体はもう、私の好きな村上春樹ではなくなっていた。
そして、新刊の「中国行きのスロー・ボート」を読んだあと、村上春樹を読むのをやめた。
それから33年、私が読んでいた頃よりはるかに有名で売れる作家になり、ノーベル賞候補と毎年のように言われたが、私は彼の本を手にとることさえなかった。
それが、一番新しい「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読みたいと思ったのは、タイトルに惹かれたからだろう。「ノルウェーの森」とか「海辺のカフカ」では読む気になれなかったのだが、この長いタイトルは中世ヨーロッパの宗教的な散文物語のタイトルのようで、気を惹かれた。リストの「巡礼の年」がモチーフになっているらしいのも興味を持った理由の1つ。内容はこれまでさんざん聞いていた村上春樹のワンパターンみたいだったので、内容に惹かれたわけではなかった。
読み始めてみると、傑作ではなさそうだが、面白いと思えた。前半は先の見えない展開で、物語がどう転ぶかわからない。こういう小説はとりあえず面白い。
ところが、真ん中くらいになって、主人公が高校時代の4人の親友に拒絶された理由が明らかになるあたりから、先がミエミエの展開になってしまった。
前半の先の見えない展開、ちょっと魅力的なエピソード(それは主人公・つくるの大学後輩、灰田にまつわるエピソードなのだが)が突然なくなり、主人公は付き合い始めたばかりの恋人の助言で、かつて自分を拒否し、自分を絶望させ、死の淵まで追いつめた4人の旧友に会いに行くことになる。ただ、4人のうち1人はすでに死んでいて、その死も謎。でも、なぜ拒絶されたのか、その過去と向き合わないと、あなたとはつきあえない、と今の彼女に言われて、つくるは故郷の名古屋へ、そして国際結婚した1人のいるフィンランドへ行く。
とにかくこの、恋人に言われて名古屋に行くあたりからもうまったくだめ。
見え透いた展開、人間としての肉付けがこれっぽっちもない登場人物。特に、すでに死んでいる1人(精神を病んでいたらしい女性)がだめ。つくるはこの女性が好きだったのだが、読んでいて、いったい、この女性は本当に存在したのだろうかと思ってしまった。フィンランドで再会したもう1人の旧友の女性がいろいろ説明しているけど、この女性の言うこと、全部信じていいの?と思ってしまう(嘘だったらどうするよ。だって、彼女しか知らないことをいろいろしゃべってるんだよ)。
名古屋で再会する男の旧友2人も、体育会系のセールスマンとスピリチュアル系のグルという型にはまった人物。主人公のつくるもそうだけど、人間が全然魅力がない。
多崎つくるは4人の旧友ではなく、大学の後輩で突然姿を消した灰田を探しに行くべきだったのではないだろうか。灰田のエピソード、そして灰田が語る彼の父親と緑川というジャズ・ピアニストの話は面白い。つくるは夢の中で2人の女性の旧友に誘惑され、死んだ方の女性と関係するのだが、彼の夢の中には灰田も出てきて、灰田がつくるにフェラするのだ。2人の女性は姓にそれぞれ白と黒という色が入っているけれど、白と黒をまぜると灰色になる。つくるが求めているのは本当は男の灰田なのでは? 実際、つくるは同性愛者と思われたくないので女性と付き合い始めたと言っている。
村上春樹はつくるが灰田を探しに行くという冒険をする気になれなかったのだろう。無難な女性との関係の方へ行ったのだろう。後半は本当につまらない。逆に言うと、前半の面白いところが生かされないのが惜しい。
登場人物は4人の旧友(男性2人はそれぞれ赤と青を姓に持つ)、灰田、緑川と、つくる以外は色彩を姓に持っている。つくるだけが色彩を持たないのだが、では色彩がないから透明なのかというと、全然不透明だ。私が好きだった村上春樹の透明な文体はもちろん、この作品にもない。やはり最初の2作で消えてしまったのだなと思った。その上、地に足のつかない日本語になっているような感じさえする。それは前半からすでにそうで、日本語をいちいち気にしながら読む状態だった。
リストの「巡礼の年」に関していえば、この小説は、ラザール・ベルマンの「巡礼の年」を聞いていた主人公がブレンデルの「巡礼の年」を聞いてある悟りを得る、と要約できる。でも、その悟りというのが、

中二病か?

というようなシロモノ。全体に中二病という言葉がぴったりの小説であった。

2016年3月2日水曜日

「クリーピー」(小説、少しネタバレ)

シネコンに行くといろいろな予告編をやっているのですが、その中に黒沢清監督の「クリーピー」があった。公開は6月頃でまだまだ先なのだが、これは映画より小説の方が自分向きかな、と思ったので、原作(前川裕)を読んだ。
犯罪心理学の大学教授の自宅近辺で奇妙な出来事が次々と起こり、高校時代の同級生で今は刑事をしている男が教授を訪ねてくるが、その後、刑事は行方不明に。刑事は以前、別の場所で起きた一家失踪事件を調べていたが、その場所と教授の住む場所の家の配置が似ているのだ。
で、やがて、人当たりはいいがどこか変な隣人の男が怪しくなって、というか、映画の予告見ればこいつが怪しいのはデフォ。で、そのとおり、サイコパスの連続殺人になっていく。
前半はとにかく、いろいろな出来事や事件が出てきて、これらがどう関係していくのか先が見えない面白さがあった。後半、犯人がその素顔をあらわしたあとも次々と事件が起きて飽きさせない。
まあ、あんまり詳しいことは書けないけど、最後にもう一つどんでん返しがあったりと、なかなかよくできたプロットだった。
ただ、主人公の教授がどう見ても犯罪心理学者に見えないというか、実際、教授が授業をしているシーンは1つだけで、その内容はシャロン・テート事件なので、なんかあまりリアルじゃないというか、手垢がついてる感じ。教授は美人女子大生の卒論指導をよくやっているのだが、これもあまり具体的な指導のシーンはなく、指導のあとに彼女と食事をしながら疑似恋愛みたいな気分に浸るシーンが何度も出てくる。妻を裏切る気は全くなく、妻とは良好な関係なので、こちらは全然危険なにおいがしない。ちょっとネタバレなんだけど、犯人が教授と女子大生の「交際」を利用しようとするのがイマイチよくわからん。おまけに後半(またネタバレですが)教授が犯人と思われる男の部屋に学生と乗り込んでいくのも、それまで犯人の異常な殺人を間近に見ていたのに用心なさすぎ。武器になるものを何も持っていかないのもねえ。
そんなわけで、この人とあの人は死ぬ必要なかったんじゃない?と思うところがあって、後味が悪い。
あと、やっぱり、登場人物が平板で魅力がないことだな。女はとりあえず美人、男はとりあえず三高って感じですかねえ。
と、欠点ばかり指摘してしまいましたが、面白かったのは事実です。一読の価値あり。
映画はきっと原作より怖いと思います(最近、怖いの苦手)。

2015年9月16日水曜日

「屍者の帝国」試写会

行ってきました、「屍者の帝国」アニメ映画の試写会。
公開が迫っているせいか、補助椅子を出すほどの盛況。
しかし、終わったあと、「わからない」という声が。
でしょうね。これ、原作読んだ人だけを対象にしている感じで、最後の部分なんか、原作知らない人にはさっぱりだと思います。
その一方で、原作もかなり変えていて、レット・バトラーなど、人物もかなり減らされてます(バトラーは出してほしくなかったので、出てこないのはよいのだが)。
ワトソンとフライデーのボーイズ・ラブ的アニメになってるのかな、と思いましたが、そこまではやってないので、消化不良だし。
死んだ親友フライデーをよみがえらせたい、というワトソンの欲望をメインにしているので(原作と違いすぎる)、結果、ケネス・ブラナーの「フランケンシュタイン」に近づいています。あの映画のクライマックス、死んだエリザベスをフランケンシュタインが女の怪物としてよみがえらせるシーン(原作にはもちろん、ない)。
ブラナーの「フランケンシュタイン」は最初から、死んだ愛する人をよみがえらせたいという感情が出ていて、この辺が原作と違ってましたが、こういう感情は観客に受けやすいので、映画ではよく使われます。でも、小説ではちょっと手垢がついてる感じがあるので、円城塔が完成させた「屍者の帝国」ではこうしたセンチメンタリズムは徹底的に排除されてます(そして、最後にだけ、ちょっと出てくるから効果的なんだが)。
というわけで、原作ファンのみを相手にしている映画ですが、原作ファンがこれで満足するとは到底思えないのです。

2015年9月9日水曜日

「屍者の帝国」の試写

伊藤計劃原作の小説3作のアニメ化の話は知っていましたが、「虐殺器官」、「ハーモニー」、「屍者の帝国」の順で公開されると思っていたら、「屍者の帝国」の試写状がいきなり来たのでびっくり。
つか、この3作、どれも試写状来るとは思ってなかったので、なんで来たのか不明ですが、前の前の住所からまわりまわって来たようです。
10月2日公開とのことで、試写の回数も少なく、なんとか行ければ行きたいですが、果たしてどうなることか。
絵を見ると、ちょっと原作(伊藤計劃のアイデアを円城塔が完成させたもの)とイメージが違うような。
「フランケンシュタイン」の原作には言及してないので、原作小説とのタイアップはしないのね。それでよいと思いますが。つか、タイアップしだすとカラマーゾフとか風と共にとかいろいろあって、収拾がつかなくなりそう。

7月末に引越して以来、まず腰痛になり、それがなんとか治ったと思ったら、また腰痛になり、そしてついにぎっくり腰になってしまい、この夏は腰痛との戦いで、何もできませんでした。ぎっくり腰になると歯科の治療も中断、美容院にも行けなくて、髪はぼさぼさ。
しかも、今回の引越はいまだかつてないほどの大失敗だったので、すぐにも次を探したいのに、腰痛でそれも思うように行かず。それでもUR賃貸をネットで探して、見に行ったりもしていて、先日見てきたのに決めようかと思ってますが、ここも必ず大丈夫という自信はありません。ただ、今の部屋があまりにもひどいので、ここにいたら体調がどんどん悪くなるから、とりあえずの避難場所として住んでみようかな、と、そういう感じです。

試写も時々見させていただいてまして、非常によい作品、思いがけず気に入った作品もあるのですが、なかなかじっくり書く余裕がありません。いずれまとめて書きたいと思います。

2015年5月6日水曜日

GW最後の日

ゴールデン・ウィークもいよいよ最終日。
このところ話題もなく、写真ブログの更新ばかりしてましたが、最近目に入ったトピックから。

伊藤計劃原作の「虐殺器官」、「ハーモニー」、円城塔が引き継いだ「屍者の帝国」の3作がアニメ化予定、という話は聞いていたけれど、いったいいつ?と思っていたら、公開日の発表があったようです。
「虐殺器官」10月、「ハーモニー」11月、「屍者の帝国」12月とか。
このうち、「虐殺器官」と「ハーモニー」のポスターが出ていましたが、なんだか文庫の表紙の絵の方がよいかなあ。
「虐殺器官」は読んだんですよ。
面白いことは面白いんですが、元ネタに使った映画の数々がいちいち頭に浮かぶんで、気が散ってしょうがなかったです。
元ネタの映画の方が小説よりインパクトがあるから。
元ネタ映画の連想に頼るのはもう少し控えた方がよかったかと。
物語は、途上国が内戦などしていてくれた方が先進国に対してテロを起こさないから先進国の人たちは安心、という、先進国のエゴ丸出しの考え方に対する痛烈な批判になっていて、そこは非常によいと思いました。そこからのどんでん返しのラストもよかったです。
あと、描写が映画的というよりはアニメ的、特にゲームのアニメを連想します。
その辺の生でない感じというか、そこが物足りないと言うと、年だと言われそう。
アニメ化はどうなんでしょうね?
あまりお金をかけられそうにない感じですが。劇場公開も、一応公開して、あとはDVD&ブルーレイでの展開が中心という感じ。
「ハーモニー」はまだ読んでいませんが、「屍者の帝国」はアニメ的でないので、どうなのかな。
昔の文学や歴史の有名人総出演がアニメか。レット・バトラーをクラーク・ゲーブルに似せると肖像権の問題が出そうな気がしますが、全然別の顔にするとイメージくるっちゃうだろうしな。

鴻巣友季子氏がツイッターで、古典名訳文庫を作れと前から言ってるのにどこもやらない、というようなことをつぶやいたそうです。
古典名訳文庫。
定義がむずかしい。
森鴎外の「即興詩人」とか、坪内逍遥の「ハムレット」とか、二葉亭四迷のツルゲーネフとか、そういうのじゃないですよね?
かくいう私は高校時代に森鴎外の「即興詩人」を読んでいたく感動した覚えがあります。普通の翻訳ですでに読んでいたので、ストーリーはわかっていたのですが、鴎外が訳すとものすごい格調の高さでした(オリジナルは文学史的にはさほど高い評価は受けていなくて、メロドラマみたいな感じですが、私は好きでした。あ、作者の名前、書いた方がいいかな、アンデルセンです)。
たぶん、新訳が次々と出るので絶版になりつつある、大久保康雄や中野好夫といった過去の名訳者の翻訳のことを言っているのだろう、と誰もが思うと思いますが、このあたりの人の翻訳って、確かに新訳が出たために絶版になっているのもあるけど、現役のものもまだまだ多くて、たとえば「大久保康雄全集」は当分できそうにないのが現状だと思います。
それでも「大久保康雄全集」はいずれできるかもしれないな、と思いますが、このあたりの人の翻訳を出す古典名訳文庫は現状からしてまず無理でしょう。
講談社が自社の文学全集に入っていた名作の翻訳を学芸文庫みたいなところで出していますが、売れてないのか、定価は高いし、「鳩の翼」とかもう絶版じゃないかな?
もっとも、新潮文庫の「風と共に去りぬ」新訳は5冊全部買うと3500円超えそうだし、岩波文庫の「風と共に去りぬ」新訳は6冊全部買うと5000円超えそうです。
だったら、定価も高くしても、と思っても、やっぱり売れないだろうな、と。
出版社は在庫を抱えると税金がかかるから、電子書籍にしたり、オンデマンドで印刷するみたいなやり方でないとだめじゃないかな?
しかし、若い頃に愛読した岩波文庫のフィールディングの「トム・ジョウンズ」(朱牟田夏雄の名訳)が絶版状態らしいのを思うと、なんとかしてよ、とは思うんですけど。
それと、なんで今、古典新訳ブームかというと、光文社の「カラマーゾフ」がものすごく売れたのがきっかけらしいんですが、この「カラマーゾフ」の翻訳がいろいろ問題があるようで、ほかにも光文社の新訳には問題があるものがいろいろあるようで、その上、新潮文庫の新訳にも問題のあるものが少なくないみたいなのに、それでも新訳と銘打てば売れるから次々新訳が出てきてるわけなんだけど、ではなんで新訳と銘打てば売れるかというと、それは、日本人は新しいものが好きだから、としか思えん。
実際、旧訳をのぞいてみると、それほど古くないんです。え、これでもいいじゃん、と思うものが多い。たぶん、1950年以降の名訳は実はあまり古くなっていないような気がします。
だから、新訳ブームは新しいもの好きな日本人の嗜好が大いに関係してるんじゃないかと。
賃貸住宅だって新築がやたら人気だし、ナントカと畳は新しい方がいいということわざ(?)もあるし。
西洋は石造りの長持ちする家を作るが、日本は木造の家を作り、短いサイクルでどんどん新しく作り変えていくから、日本人はなんでも新しいものが好きなのだ、ということをもうだいぶ前にどこかで読んだのですが、新訳ブームも結局そこなんじゃないか、そして、この古典新訳ブーム自体が新しくなくなり、新訳だからといって売れるわけではなくなるのではないか、と思うのです。
光文社の古典新訳文庫の定価の高さを見ると、新訳という言葉はしだいに売りにならなくなっているのではないかと思います。
で、そのとき、新訳が出て絶版にされた過去の名訳はどうするよ、って、困りましたねえ。でも、もともと、需要がなかったんでしょうね。