2016年12月30日金曜日

キャリー・フィッシャーとデビー・レイノルズ

レイア姫ことキャリー・フィッシャーの突然の訃報に続き、翌日には母デビー・レイノルズが亡くなったというニュースが。
レイノルズは高齢なので、大丈夫だろうかと思っていた矢先だった。
息子の家で葬儀の打ち合わせをしていたときに脳卒中で倒れたとのことで、やはり娘の死がショックだったのだろう。
デビー・レイノルズといえば、やっぱり「雨に唄えば」。当時はまだ新人で、歌も踊りも本職ではなく、歌は一部吹替えられてしまい、ダンスはジーン・ケリーにしごかれた、という話が伝わっている。本人も、クライマックスの涙はまだ演技が未熟で流せなかったので玉ねぎを使ったと告白している(今は流せる、と語っていた)。
その後、彼女は堂々たるミュージカル女優になり、西部劇「西部開拓史」では歌うヒロインで強い印象を残し、「タミー」や「ドミニク」といったヒットソングを歌い、「不沈のモリー・ブラウン」ではアカデミー賞にノミネート(このモリー・ブラウンは「タイタニック」でキャシー・ベイツが演じた女性と同一人物)。最近も「恋するリベラーチェ」などに出演していた。
一方、レイア姫で有名になり、その後は作家、脚本家として才能を発揮し、母デビーとの確執をもとにした小説を出版、その映画化「ハリウッドにくちづけ」ではシャーリー・マクレーンとメリル・ストリープが母娘を演じて話題に、といった、母とはだいぶ違う芸能人生を送っていたキャリー・フィッシャー。薬物依存とか精神の病とか、わりと暗い話題もあるキャリーに対して、デビーは明るいイメージを保ち続けていたように思う。だから高齢でも元気にしていたのだろうけど、娘の急死はこたえたのだろう。
キャリー・フィッシャーの方は、「スター・ウォーズ」の新しい三部作で再びレイア姫を演じ、「フォースの覚醒」では髪型と服装で損をしているので気の毒だなあと思った。ハン・ソロとレイアの息子がダークサイドに堕ちて、という話で、母であるレイアと息子とのかかわりが次作以降、どうなるのか気になっていた。次作の撮影は終了しているとのことなので、もう一度、レイア姫に会える。
思えば「スター・ウォーズ」は昔ながらの冒険活劇や西部劇をSFの世界に再現した映画で、ルークがダース・ベイダーに捕らわれたレイア姫を助けに行くという設定は昔ながらの王子様とお姫様の話で、それをひねったのがモーツァルトの「魔笛」。タミーノという王子が夜の女王に、ザラストロという男にさらわれた娘パミーナを助けてくれと頼まれ、パミーナの顔を見ただけで恋に落ちたタミーノがザラストロのもとへ行くと、実はザラストロと夜の女王は元夫婦で、悪いのは夜の女王の方、ザラストロは娘パミーナを守ったのだ、とわかる。
「スター・ウォーズ」の場合は、ルークがレイア姫に恋して助けに行くのとはちょっと違うのだけど(直接的には殺されたおじとおばの復讐)、囚われのお姫様を助けに行く騎士という王道の設定。それが後半、囚われのお姫様レイアが気が強くて、ルークと一緒に戦ったりするのが昔話と違う。そして、第1作ではルークとレイアがいい仲になりそうだったのに、次作「帝国の逆襲」ではレイアとハン・ソロが仲良くなり、ルークとレイアは兄妹だとわかり、と、昔話のパターンから逸脱していく。
最近の「フォースの覚醒」や「ローグ・ワン」では主人公は戦う女性になっているけれど、戦う女性の原点としてレイア姫がいる。
「雨に唄えば」も「スター・ウォーズ」最初の三部作もDVD持っているから、再見して、デビー・レイノルズとキャリー・フィッシャーを追悼したい。

2016年12月26日月曜日

来年のカレンダー

今年に続いて来年もまるちゃんです。
今年のカレンダーは今年に入ってからスーパーで750円(税抜)に値下げされていたのを買いました。
来年のカレンダーもそれを期待していたのですが、年末になってどんどん在庫がなくなり、残り1つになっていたので、定価(?)で購入。定価っていっても、ネットだと600円台のものもあって、どれが定価だかわかりませんが、とりあえずアマゾンのサイトに大きく出ている値段よりは安かったです。
今年のは値下げしてから何日も迷い、最後の1つになってやっと買ったので、相変わらず最後の1つにならないと買わないパターン。前日は2つあったのに、次の日行ったら1つだったので、あぶないところでした。
というわけで、妖怪ウォッチのカレンダーはやはり飾らずに終わりそうです。

2016年12月25日日曜日

ゆるやかにダイエットその後

9月からゆるやかにダイエット中ですが、クリスマスイヴに、ついに3.5キロ減を達成。
まあ、それからまた1キロくらい簡単に増えてしまうのですが、このゆるやかにダイエットって、けっこういいな、と思っています。理由は、
1 おなかがすいて困るということがない。
2 体重は一進一退だが、体脂肪率が順調に減る。
3 内臓脂肪も順調に減る。
4 胃が小さくなったようで、食欲が減る。
まあ、体脂肪率や内臓脂肪の数値はあまり信用してないのですが、胃が小さくなるのはものすごく実感してます。
松屋が定食30円引きでご飯ミニというのを導入してくれたのはとてもうれしいのですが、前はご飯ミニだと物足りなかったのに、今ではご飯ミニでも多いと感じます。
余談ですが、松屋のご飯ミニって、けっこう男性も食べてますね。松屋はお肉増量の定食も設定してますが、ご飯減らしてダイエットの人が多いのかな。
ゆるやかにダイエット、具体的にどういうことをしているかというと、
1 朝は起きるのが遅いのでブランチでカップラーメン。
2 夕方にしっかり定食で晩御飯。ライスは少な目。
3 夜遅くに3食目がほしくなるので、そこでロールパン2個。晩御飯の定食で野菜少ないときはスーパーで買ったサラダを食べる。
4 夜9時に近所のスーパーで千代田寿司とさぼてんが半額になるが、それを買わない(以前はこれを買って夜食に食べたので太ってしまった)。
ただ、今以上に痩せようと思うと、カップラーメンをカロリーの少ないものにするとかしないとだめみたいです。
あと、スパゲッティとかピザとか揚げ物とかお寿司とかできるだけ食べないようにしてるので、少しストレスかな。とんかつ定食はたまには食べることにしてます。
とはいえ、クリスマスイヴ、3.5キロ減がきいて、おなかがすいたので、久々にドトールのミラノサンドを食べて、そのあと自宅で野菜と肉がたっぷりの鍋をやってしまったので、クリスマス以降、少し体重が増えることが予想されます。でも、たっぷりの野菜と肉の鍋なら健康にはよいよね。
まあ、体重よりも体脂肪率が下がればいいわ。

2016年12月24日土曜日

大人買い



上は書店で新本。3巻で2099円。2000円はもらった図書券を使いました。
下はブックオフで1冊360円。あと少し早く行けばタイムサービスで2割引きだったのです。全部で500円くらい安くなったのに。でも、この値段でも全部で新品より1000円近く安いです。

「この世界の片隅に」の映画はまだ見ていません。試写状来たけど回数少なすぎて行けなかった。
なんで原作を先に読んだかというと(もう読みました)、映画の絶賛の一部というか、この映画は絶賛しかないのですが(不当な批判さえあった「君の名は。」や「シン・ゴジラ」や「映画 聲の形」と違って)、その絶賛の一部というか、絶賛している人の一部の考え方に対しての批判を目にしたからです。
原作は優れた作品ではあるのですが、問題点もあって、それが一部のゆがんだ絶賛が出てくる原因か、という感じはしました。特にこの漫画は説明しないところ、読者の理解力に頼っているところが多く(つまり、レベルが高い)、その辺が危うさを生んでいる感じもします。

2016年12月22日木曜日

シネコン2本立てで大がっかり

久々にシネコンでハシゴ。「ローグ・ワン」と「マダム・フローレンス!」を見てきたのですが、どちらも全然面白くなくて、半端ないがっかり感に襲われています。
「ローグ・ワン」はねえ、予告編を何回も見せられたのですが、その時点でほとんど興味持てなかった。「フォースの覚醒」も見るかどうかずっと迷っていて、その理由は見たいけどがっかりするに違いないという確信からだったのですが、2月になって見てみたら、これがエピ4原理主義者の私にとってはうれしすぎる内容。有頂天になって書いた記事は2月のところにあります。
が、今回は最初から期待はまったくなくて、でもその分、がっかりはあまりしないかもしれないと思って見に行ったら、なんじゃこりゃ!
エピ4に出てくるデススターの設計図を反乱軍側が手に入れていた、という設定を1つの映画にしたものですが、その設計図を奪いに行く長いクライマックスはスター・ウォーズ感満載だし、映像的にも魅力的で、ここはまあよいです。が、その前がとにかく退屈。
公開直後にネットに、戦争映画としてよくできているとか、これほどレベルの高いものを作ってしまったら次が大変とか、絶賛が出てたのですが、要するにステマだったのかよ?
なんつうか、こういったタイプの戦争映画の面白いやつはキャラが曲者ぞろいで、そこがドラマを面白くしてたんですが、この映画はキャラがだめ。全然立ってない。曲者とかいないし、どこかで見たキャラのつまらない焼き直しでしかなかったり、キャラとしてくすんでいて目立たなかったり。
ヒロインもルークや「フォースの覚醒」のレイやカイロ・レンの二番煎じ、三番煎じで、相変わらず父と子の対立のワンパターン(レイはまだわからんが、なんとなくその予想)。今回は実の父と育ての父の2本立てですが、どっちも中途半端。実父はごひいきのマッツ・ミケルセンですが、ぱっとしないままクライマックスの前で終わってしまう。
比較的楽しめたクライマックスも、結局最後は大義のための玉砕みたいになっていて、なんだかなあ。エピ4のなつかしキャラも複数登場しますが、ベイダー様もずいぶんと安っぽくなられておられる。最後のあの殺戮シーンて、わざわざベイダー様が出ていくところか? つか、ベイダー様が出ていって、殺戮しただけで何の成果もなく終わるって、おい!
エピ4にきれいにつながった、とかネットに書いてあったけど、全然きれいじゃねーよ。
エピ4の前にこんな悲惨な話というか、悲惨なはずなのに悲惨に見えないのがまたなんとも安っぽさ満開なんだけど、こんな話でつなげるなと言いたい。
(追記 結局、この映画の主要キャラは全員使い捨てなんだよね。)

というわけでかなり頭に来たあと、夕食を食べて、次は「マダム・フローレンス!」。これ、あまり興味なかったのですが、監督がスティーヴン・フリアーズなので少し気になっていて、「ローグ・ワン」のあと夕食食べて見られるからと予約。2本とも映画館ガラガラでしたけどね。「ローグ・ワン」はああいう内容だから客層が相当狭まってます。「マダム・フローレンス!」はほんとにガラガラ。
で、「マダム」の方は食事した直後のせいか眠くなってしまった。
3人の主役は好演してるのですが、なんといってもコンセプトが古い。へたくそな歌が面白いといって受けてしまうという話をなんのひねりもなく描いているからちっとも面白くならない。役者はいいけれど、彼らの演技をもってしても、主役の3人の人物がドラマチックに迫ってこない。隔靴掻痒というか、そんな感じの映画でした。

冬じたく@台東区

台東区谷中の玄関口、日暮里駅は荒川区なのですが、恒例のクリスマスツリーが。にゃっぽりだからか猫のぬいぐるみが多い。

ツリーの下には人形がいっぱい。

谷中の天王寺。早くも門松。




上野公園の恒例のイルミネーション。右は西郷隆盛の像。

レストランの前の恒例の木のイルミネーション。

なんか最近アパホテルがあっちこっちにできている。

スカイツリーもクリスマスカラー。一日おきに赤と緑になります。

上野公園はこども遊園地を撤去させた上、巨木を何本も切り倒して駅から動物園への直通通路を作るらしい。世界遺産とか言って、だいじなものをどんどんなくしていっているような気がする。上野の森とは名ばかりに。

2016年12月21日水曜日

ヴァンサン・カッセルの2本の新作

試写で見たヴァンサン・カッセル主演の2本の新作。
1つはカナダのフランス語圏の若手グザヴィエ・ドランの「たかが世界の終り」。
もう1つはフランスの女性監督マイウェンの「モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由」。
前者はカンヌ映画祭でグランプリ。後者は同じくカンヌで主演女優賞(エマニュエル・ベルコ)。
もはやジャン・ピエール・カッセルの息子とか、モニカ・ベルッチの彼氏(当時)とかいった呼び方はされない、国際的な名優カッセルですが、この2本で見せたまったく正反対の男の演技に驚かされます(演技力や役柄の広さはわかっていたけれど)。

舞台劇の映画化である「たかが世界の終り」でカッセルが演じるのは、家族と疎遠にしていた劇作家(ギャスパー・ウリエル)の兄。死期が迫った劇作家がそれを家族に知らせるために久々に実家に帰る。実家には母(ナタリー・バイ)、兄(カッセル)、兄嫁(マリオン・コティヤール)、妹(レア・セドゥ)がいるが、母と兄と妹は口論が絶えない。兄嫁はおろおろするばかり。理由は兄が家族の会話にいちいちけちをつけるからで、要するに、彼はコミュ障なのである。
原作の劇ではこの兄は弟になっているというのだが、兄の方がリアルな感じがある。弟だと、ちょっと問題のある弟という感じだが、兄だと、父がいない家の家長的存在だが、人間としての大きさがなく、ただ家長の威厳を保ちたくていちいち家族に文句を言う、そういう感じがよく出ている。こういう中高年男性って、時々見るから。
この映画は高い評価を得ているけれど、私はドランが少し背伸びをしているような気がした。若いドランには、この題材は完全に自分のものとして扱えないのではないかと思った。実際、兄の造型はカッセルの演技によるものが大きく、ドランの描き方はいくぶん不十分にも感じる。
映画の前半の家族の口論と、クライマックスからラストの家族の口論は明らかに雰囲気が違っていて、劇作家が自分の死を告げたあとだとわかるのだが、このときの兄の態度が前半とは完全に異なっている。
5人のスターを使って家族のドラマを作り上げたドランの手腕はわかるが、カッセルの演技がなければこれほどの効果はなかったかもしれない。

「モン・ロワ」の方は、主演のカッセルとベルコ、そして監督のマイウェンがほぼ同い年で、監督自身の世代の物語として作られている。カッセルとコティヤール、そして「美女と野獣」のカッセルとセドゥは年が離れていたが、この映画の主演2人は1歳違い。同世代の大人の男女の愛を描いている。ドランがやや背伸びしているように見えたのに対し、こちらはまさに等身大。
この映画のカッセルは女にもてる男の典型だ。女性だけでなく周囲を笑わせ喜ばせる。子供に対しては父親としての愛を目一杯注ぐ。元カノはモデルだったが、新たに愛し、結婚した女性(ベルコ)は弁護士というキャリアウーマンだが容姿は平凡。しかし、2人は切っても切れない関係になる。
カッセルは元カノと切れておらず、それがベルコを激怒させるのだが、元カノが精神不安定で、別れたあとも彼を頼っているので心配、と言われると、結局許してしまう。その後、夫がクスリをやっていたり、見知らぬ女性と浮気していたりで、離婚するのだが、離婚したとたん、「離婚したんだからまた結婚できる」と言うカッセル。その後も2人は会い続け、子供と3人で旅行にまで出かけ、と、離婚しても切れることができないカップル。そんな10年間を、スキー事故で大けがをしたベルコがリハビリをしながら回想するという形式になっている。
この映画のカッセルはとにかく明るい。明るくて、立ち直りが早くて、子煩悩で、料理もできる。ベルコが、出版社社長が妻を殺害した事件で被告の弁護を担当できることになった、有名な事件で名前が売れる、と喜ぶと、カッセルは、妻を殺した男の弁護か、最高だね、と皮肉る。彼は女性や被害者の味方なのだ。いろいろ欠点があっても、こういう男は女にもてる。
ラスト、リハビリを終えたベルコがカッセルと再会するシーンのカッセルが最高に魅力的で、それをベルコがうっとり眺めてしまう。女性監督による女性のための映画だ。
マイウェンはリュック・ベッソンの元妻で、ベッソンの映画にも出演した女優でもあるとのこと。離婚の理由はミラ・ジョヴォヴィッチとしか考えられないのだが(?)、結婚したベッソンとミラがあっという間に離婚したのが当時は驚きだった。
ヒロイン役のベルコも女性監督として活躍している。

2016年12月18日日曜日

妖怪ウォッチのカレンダー

土曜に公開された「妖怪ウォッチ」の新作。これの予告編を何度見せられたことか。
だいたい、「ルドルフとイッパイアッテナ」を9回も見た上、「シン・ゴジラ」、「君の名は。」、「聲の形」等々、いろんな映画で予告編をやっている。たぶん15回くらいは見てるんじゃないだろうか。
で、その映画はあまり興味ないのですが、マクドナルドで商品を買うと490円で買える「妖怪ウォッチ」カレンダーには発売前から興味があったのです。
DVDがついていて、そこに「ジバニャン誕生の秘密だニャン」というエピソードの回が丸々入っているらしい。
まあ、別に、ツタヤで借りて見てもいいわけですが、ツタヤは電車に乗らないと行けない。
どうしようかな、でも、「妖怪ウォッチ」のカレンダーください、なんて恥ずかしくて言えないなあ、と思っていたら、近所のマクドナルドでハンバーガー無料券3枚つきになっていました。
ハンバーガー無料券3枚だと300円相当なので、実質190円。こ、これは買いか?と思ったのですが、やっぱり恥ずかしい。
と、迷っていたのだけど、「空飛ぶクジラとなんとかだニャン」の映画が始まったので、思い切って買いました。
マックにあるカレンダーの広告だと、ジバニャンたちがマックでハンバーガーを食べている絵が出ているので、毎月マックじゃいやだな、と思っていましたが、隣の駅のそばのマックですべての絵を展示していて、それを見たらけっこういい絵もあったので、買う気になったのです。ただし、その隣の駅のそばのマックではカレンダーには無料券がついていない。ついているのは一部の店舗です。
で、これがカレンダーと、左上がDVD、その下がシール。シールはいらんなあ、と思ったけど「はるやすみおわり」とか「なつやすみはじめ」とかは使えそう。ハンバーガー無料券はどの店でも使え、使用期限もありません。


今年の12月の絵。

来年1月の絵。

2月の絵。札幌雪祭りですね。

8月の絵。ちょっと「君の名は。」ふう?

10月のハロウィーン。

10月の日付の部分。

12月、クリスマス。

これ、壁にぶら下げると1枚1枚だんだんはがれてしまいそうな感じです。壁に飾るのは別のカレンダーにしようかな。月によってはあまり飾りたくない絵も。
DVDの方は、コマさんたちのマック訪問は退屈でしたが(マックの宣伝だし)、「ジバニャン誕生の秘密」は面白かったです。かなり笑ってしまいました。最後に新作映画の予告編があったので、また予告編を見せられてしまった。

2016年12月14日水曜日

「家族の肖像」と「ハワーズ・エンド」

ルキノ・ヴィスコンティの「家族の肖像」が来年2月に岩波ホールでリバイバルされるとのことで、試写会に行ってきた。
1978年の初公開時にもちろん岩波ホールで見ていて、と思ったら、岩波ホールでは見ていなくて、翌79年、新宿武蔵野館で見たのが最初。その後すぐに大宮でも見て、今回が3度目だった。
当時は「ベニスに死す」がコケたあと、「ルートヴィヒ」が公開見送りになり、その後、岩波ホールでこの映画が公開されて大ヒット、他の映画館でも上映されたのだ。新宿武蔵野館は今の小さい映画館ではなく、大きな映画館だったと思う。
ヴィスコンティの映画の中では一番好きな映画だった。
しかし、40年近くたった今、あのとき何に感動し、一番好きな映画になったのか、再見しても思い出せない。いい映画であることは確かで、今回も面白く見たが、初めてのときの自分の情熱をどうしても思い出せないのだ。
あの頃、私は大学院にいて、E・M・フォースターで修士論文を書く準備をしていた。以前から「インドへの道」はデイヴィッド・リーンに映画化してほしいと思っていて、それは数年後に現実になったのだが、「家族の肖像」を見て、「ハワーズ・エンド」はヴィスコンティに映画化してほしかったと思った。ほしかった、というのは、その前、76年にヴィスコンティは亡くなっていたからだ。
今回再見してみても、「ハワーズ・エンド」との共通点をいくつか感じる。「家族の肖像」はイタリアの貴族や上流階級の斜陽のような雰囲気があって、主人公の教授は裕福な上流階級で、絵画に造詣が深く、家族を描いた肖像画を集め、それを自分の家族のようにして暮らしている。そこへ伯爵夫人とその娘とその恋人と夫人の若い愛人が強引に転居してきて、隠遁生活をしていた教授は彼らに悩まされることになる。
昔見たときは、ドミニク・サンダが演じる教授の母が登場するシーンが印象的で、このシーンを見て、「ハワーズ・エンド」の霊的な女性(ジェームズ・アイヴォリーの映画ではヴァネッサ・レッドグレーヴが演じた)が頭に浮かんだ。あの役には当時のサンダは若すぎるのだが、教授の城のような屋敷を守る霊的な存在感があった。
そして、バート・ランカスター演じる教授とヘルムート・バーガー演じる伯爵夫人の愛人コンラッドが初めて顔を合わせたとき、教授が彼に惹かれたような表情をする。コンラッドは上流階級ではなく、大学で美術史を学んでいたが、学生運動から左翼の過激派になった男で、美術に詳しいことから、教授は彼に自分の教養を受け継がせたいと思う。ラスト近くではコンラッドが教授への手紙に、「息子より」と書いている。
ぎりぎりのところでホモセクシュアルを回避して、父と息子のような関係にしているが、その背後にはホモセクシュアルな要素があると思わせるが、これもフォースターが公にはゲイであることを隠し、発表する小説では男女の恋愛を描き、そしてホモセクシュアルの深読みができる兄弟愛や「インドへの道」の男同士の友情を描いたのを連想させる。
そして、上流階級の中にただ一人、労働者階級出身の若者をまぎれさせ、彼が混乱を起こしていくのも「ハワーズ・エンド」に似ている。
シルヴァーナ・マンガーノ演じる伯爵夫人とその娘という2人の自我の強い女性たちはフォースターの世界とは無縁に思えるが。
フォースターはイギリスの非常に裕福で家柄も高い上流中産階級の出身で、人生の後半はケンブリッジ大学の役職を得て、教育の仕事はせずに研究やノンフィクションの執筆をしていたが、それも教授の隠遁生活にどこか似ている気がする。
というわけで、ヨーロッパの裕福な貴族的インテリの世界という共通点が、フォースターの研究にどっぶりだった私を「家族の肖像」に惹きつけたのかもしれない。そして今、その情熱は過去のものになったのだと気づいた。
(一部、記憶違いを訂正しました。)

ゆるやかにダイエット中

ここ数年で体重が増えてしまったので、9月からゆるやかにダイエット中。
食べる量はそれほど減らしてないが、余計なものを食べないようにしている。
それで3か月たったところで3キロ減になり、喜んでいたら、その後、2.5キロ減のあたりをうろうろしている。
どうやら、今の食生活ではこれ以上は減らない?
4キロ減を目標にしていたのだけれど、なかなかむずかしいかもしれない。低血糖症なので、おなかがすくことに弱いから、あまり食べる量は減らせない。

さて、今日、というか、日付変わったので昨日になるけど、久々にココイチのカレーが食べたいなあと思い、JRのターミナル駅から徒歩5分くらいのところのココイチに向かって歩いていた。
すると、途中に、新規開店したやよい軒が。
都心にいた頃、たまに入っていたやよい軒。なつかしさからつい、入ってしまった。
これが大失敗。
やよい軒はご飯が超まずいのです。
やよい軒、何度か行ったけど、行かなくなったのはご飯がまずすぎるから。そのことを忘れていた。
昨日はカップラーメン1個とマックのソフトクリームしか食べてなくて、さすがに夜になっておなかがすいていたけれど、やよい軒のまずいご飯を一口食べただけで食欲が一気に失せた。
ダイエットには最適の、やよい軒のまずいご飯。おなかがすいたらやよい軒のご飯を一口食べれば体重はどんどん減るであろう(?)。
以前の経験で、最初に出てくるご飯は超まずいが、おかわり自由のご飯はそれほどまずくなかったので、まずいご飯の上におかわりのご飯を少し載せて食べてみたら、これは食べられた。それを食べたあと、またおかわりのご飯を載せて食べたら、今度は最初のご飯と同じで、まずくて食べられない。同じ釜の中でも食べられる部分と食べられない部分があるようです。
これでおかずがおいしければ救われるのだけど、おかずもまずかった。ご飯がまずいのは知ってたけど、おかずもこんなにまずかったっけ?
やっぱりココイチに行くべきだったと激しく後悔したが、やよい軒はこんなにまずいご飯を出しているのになぜ客が来るのか不思議に思い、ググってみた。
すると、まずい、と言う人と、好きだ、と言う人の両方がいることがわかった。
あと、おかわり自由だからたくさんご飯を食べたい人が行く店、という意見もあったが、あのご飯が喉を通るというのが私には信じがたい。あのご飯じゃ食べ放題でも意味ない。
正直、松屋や吉野家などのご飯はとてもおいしいです。日高屋はご飯はイマイチだと思うが、それでも食べられないほどではない。
やよい軒のご飯は、べちょっと固まって、餅状になっているのですね。そこが気持ち悪い。
ご飯というよりは、ご飯をべちょべちょに固めたようなシロモノ。
これに似たご飯は、大学の食堂に時々あるけれど、大学の食堂の方がまだマシ。ただ、やよい軒のご飯が好きな人は大学の食堂のご飯も好きらしい。蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものだ。
というわけで、やよい軒のご飯のせいで少しは体重が減るでしょうか? おかずがカロリー高そうだったので無理かな。結局、カップラーメン1個とマックのソフトクリームとやよい軒のご飯少しとおかずしか食べていないのにおなか減っていません。

2016年12月13日火曜日

上野公園のイルミネーション

11月2日に携帯写真で撮った上野公園のイルミネーション。
この日から数日やっていたようです。たまたま通りかかったら、桜並木のイルミネーションにレーザー光線を当てるカウントダウンをやっていました。このあと、NHKの首都圏ローカルで放送がある、と言ってましたが、私はこの国立博物館のイルミネーションを撮りに。







門は閉まっていて、門にはりついて撮りました。その手前には光のオブジェがいろいろ展示されています。その中の1つ。

 こちらは先日、上野公園を歩いていたときにデジカメで撮った写真。
10月に「夜の遊園地」と題してアップした記事のこども遊園地の現在。
10月の記事はこちら。http://sabreclub4.blogspot.jp/2016/10/blog-post_21.html
遊具はすべて撤去され、この建物だけが残っています。

無残な姿が映らない唯一の角度からの写真。後の木の隣に月が。

11月のイルミネーションのときにもあった桜並木のイルミネーション。国立博物館が前方に。

久しぶりに御徒町まで歩きました。去年もあった富士山のイルミネーション。右が駅。

2016年12月8日木曜日

余韻にひたりたくなる「ラ・ラ・ランド」(ネタバレあり)

アカデミー賞大本命と言われるデイミアン・チャゼルの「ラ・ラ・ランド」を見てきた。
終わったあと、最近にしてはめずらしく余韻にひたりたくなり、汐留から新橋駅を超えて内幸町の方までしばし歩いた。
よかった、面白かった、考えさせられた、という映画はたくさんあったが、余韻にひたりたくなってしばらく歩いたのは久しぶり。
チャゼルは前作「セッション」が、私にはコンセプトに疑問を感じるところがあって、世間ほどは高く評価しなかったのだが、この映画も途中まではそんなにすごいのかなあという感じがあった。でも、最後の部分で、この映画のコンセプトがしっくりと来て、これは支持したいと思った。
「雨に唄えば」などの50年代のMGMミュージカルや、60年代のジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」や「ロシュフォールの恋人たち」を意識したミュージカルで、カラフルな色彩といい、ミシェル・ルグランふうの歌曲といい、どっちかというとジャック・ドゥミの方かな、と思っていたら、最後は「シェルブールの雨傘」だった、と書いてしまったら、これでもうネタバレですね。
ただ、「シェルブールの雨傘」の結末が戦争の影響によるものだったのに対し、この映画は成功の代償、夢の代償のような感じになっている。
最後のミュージカルシーンは「雨に唄えば」や「巴里のアメリカ人」のダンスシーンのようで、それまでのシーンでこうなっていたら、みたいなパラレルワールドが展開。
その前のシーンでは、夢や成功を選ばなければこうなっていたかもしれない普通の幸せが表現される。
でも、ヒロインのエマ・ストーンがオーディションで歌う歌のように、夢を追いかけ、成功させることが大事、という映画の流れからすれば、こうなったのは少しほろ苦いけれど、彼女も彼も納得できることなのだ。
その一方で、夢や成功を得られなくても普通の幸せもいいよね、と思わせてくれる。ニクイ。
冒頭の渋滞する車の列でのダンスシーンはとてもカラフルだけれど、ここは「シェルブールの雨傘」の冒頭のカラフルな傘ではなく、むしろグザヴィエ・ドランが描いたカラフルな服が舞うシーンを連想した。ロサンゼルスだからシェルブールと違って乾いている。
ジャズ関係者から評価されなかった「セッション」だが、この映画もライアン・ゴズリング演じる主人公のジャズへのこだわりが強く描かれていて、ジャズ関係者はこちらをどう見るだろうかと思った。
「理由なき反抗」が出てくるから、ワーナーブラザースのカフェ?
でも、エンドマークはパラマウントのものだ。
シネマスコープも色彩も、50年代のハリウッド映画を意識している。
でもやっぱり60年代フランスの「シェルブールの雨傘」に一番近い気がするのだよね。
エマ・ストーンは最後の部分で表情や雰囲気ががらりと変わり、演技力を感じさせる(5年間の変化を演じているのだ)。ライアン・ゴズリングにはそういう変化はないが、彼は好感度抜群。そういえば、「シェルブールの雨傘」でも変化を見せたのはカトリーヌ・ドヌーヴの方だった。
LAの聖地巡礼がしたくなるような名所の数々。映画によく登場する浜辺の桟橋のシーン、天文台、ケーブルカー、壁画などなど、「君の名は。」のような聖地になりそうな雰囲気の場所だ。

2016年12月5日月曜日

ベルナルド・ベルトルッチ

ベルトルッチはもともと好きな監督じゃないので、どうでもいいのですが、「ラストタンゴ・イン・パリ」がマリア・シュナイダーに対するレイプに等しいものだったというニュース。
もともと2013年に行われたベルトルッチのインタビューで話したことが今になって急にニュースになっていて、しかも、シュナイダーに対する本番レイプが行われたかのような書き方になっていて、いくらなんでも本番はないだろう、と思っていましたが、その後の続報で、2007年にマリアが本番ではなかったが、レイプされたような気持になったと語っていることがわかりました(マリアはすでに故人)。
どういうことかというと、クライマックスのバターを使ったアナルセックスシーンが脚本になかったのに、直前になってマリアに知らされ、まだ19歳だった彼女は弁護士やエージェントに連絡することも思いつかず、撮影にのぞみ、ベルトルッチと共演者マーロン・ブランドにレイプされたような気持になった、ということらしい。
映画は若い頃に見ましたが、流れとして、クライマックスにマリアの演じる女性がレイプされるのはおそらく最初から脚本にあったと思います(そうでないとあのラストにはならないだろう)。
ただ、それは通常のセックスのレイプシーンの演技だったのが、バターセックスに変えられていた、ということではないのか。
その想定外のことにショックを受けた彼女は、レイプされたように思い、その後も精神を病んでしまったらしい。
父親が有名とはいえ、まだ無名の19歳の女優に、権力を持つ監督と俳優がいやがることをごり押ししたわけで、これ自体、許されないことですが、今回、世間が反感を感じているのは、ベルトルッチのこのことについての反応です。
ベルトルッチはヒロインの恐怖や屈辱を女優として演じるのではなく、少女として感じてほしかったと言っています。芸術のためにはそれは必要とまで言っている。
しかも、マリア・シュナイダーもマーロン・ブランドも死んでいて、死人に口なしの状態で。
もしもベルトルッチが、演技としてマリアにあのシーンを演じてほしいと思えば、ドッキリカメラみたいなやり方ではなく、きちんと説明し、納得してもらった上で撮影したでしょう。
まあ、確かにドッキリカメラみたいなやり方を好む監督もいて、普通の映画でさえこれだから、AVでいろいろな問題も起きてるわけで。
それはともかく。
私はベルトルッチって、芸術のためには、とか言えるほどの監督なのか、と思ってしまうのです。
確かに「ラストエンペラー」はアカデミー賞作品賞とってるし、ベルトルッチはカンヌのパルムドールもとってるし、「暗殺のオペラ」とか「1900年」とかは私も好きですが、「ラストエンペラー」以後の映画はぱっとしないし、「暗殺の森」も、私はそれほど感心しなかったし、「ラストタンゴ」に至っては、若い頃に見て当惑しか感じませんでした(なんでこれがあんなに受けてんの? やっぱりマリアの気持ちを踏みにじったあのシーンのおかげ? 当時も今も「ラストタンゴ」といえばこのシーンなので、「芸術」としては成功したシーンなわけ?)
まあ、好きな人もけっこういるみたいですが、イタリア映画の他の監督に比べて、それほどすごくない、作家としてもそれほどすごくない、と感じています。
というわけで、今回のニュースも、こいつを許すならポランスキーをそろそろ許してやれ(被害者もすでに許してるし)と思っちゃうんですよ。

そういえば、娘が過激なセックスシーンのある映画に主演するとわかった富司純子(藤純子)が、「映画の現場なんていうのは、最初はこの程度と思っても、どんどん過激なことを要求される。私も「緋牡丹お竜」に出たときはそうだった」というようなことを言って反対したという話がありましたが、確かに映画の現場は想定外の過激なことを女優にどんどん要求するのがデフォルトなところがあって、それがAV強要の下地になっているということはあるのかもしれません。

追記 スウェーデン映画の「ミレニアム」第1作で、リスベットがアナルレイプされる過激なシーンがありますが、リスベット役の女優が、相手役の俳優は尊敬する舞台の名優なので、共演者と監督を信頼していたから撮影は問題なかった、と語っていて、こういうシーンには共演者と監督に対する信頼が重要であることを認識させられます。

2016年12月1日木曜日

クラーナハ展

始まった頃から気になっていた、上野の西洋美術館で開催されているクラーナハ展へ行ってきました。
ルネサンス期のドイツの画家ルカス・クラーナハ(父)の作品と、デューラーなど同時代の画家の作品、ピカソなどによるクラーナハの絵をもとにした作品などが展示されています。
ルネサンス期ということで、肖像画や聖書や物語の絵が多いのですが、なんといってもこの人の魅力は女性の絵。
上はポスターなどに使われている「ユディット」。女性の顔の部分だけを切り取って看板などにしていますが、実は剣を持ち、切り落とした男の首をつかんでいるという絵。
ヨハネの首を皿に載せたサロメの絵もありました。
女性の裸体画も多いですが、豊満なヌードとは少し違う表現。
また、女性の表情が独特で、これはほかの画家ではあまり見ないというか、クールでいて、どこか小悪魔な目が魅力的。気の強そうな女性の絵が多いです。

版画ではこれが気に入りました。ごちゃごちゃ描きこんでいてわけわからんので、じっと見ていたら中心に聖アントニウスがいて、そこに彼を誘惑する怪物がごちゃごちゃとくっついている。現場ではやはり細部を見るのに限界があり、絵葉書買ってじっくり見ました。

デューラーの絵が何枚かあって、どれも見たことあるな、昔行ったデューラー展で見たものだな、と思いましたが、そもそもそれらは西洋美術館所蔵の絵でした。
クラーナハの絵をもとにしたピカソの絵も何枚もあり、その他、クラーナハの作品をもとにした写真とか、クラーナハの絵を現代の画家がアレンジして描いた絵が大きな壁一面に何枚も貼りだしてあったりと、普通の美術展とはかなり違う雰囲気。
カラヴァッジョ展を見に行った直後に西洋美術館が世界遺産になり、その後人が急激に増えたそうで、入口あたりは確かに人が多かったですが、世界遺産目当ての人は安い常設展に行くようで、クラーナハ展はわりとすいていました。ただ、すいていたけど、絵の前でいつまでも動かない人が多くて、必ずしも見やすくはなかったです。5時終了かと思ってあわてて見て、5時前に出てしまったけど、そのあと、実は5時半までだとわかり、しまった、と思いました(見たのは11月30日で、12月からはどうかわかりません)。
西洋美術館はクラーナハ展をやっている場所はあとから造られた部分で、世界遺産の対象になっているのはそれ以外の部分。常設展の場所は私は大好きで、非常に効率よくまわれて、最後に吹き抜けのところに出るのがすばらしいので、ここが認められるのはうれしいですが、でも、世界遺産というほどのものでもないような気が。うーん、世界遺産安売りしすぎ。
クラーナハ展の方は、肖像画や人物の衣装の表現がみごとで、これは写真ではわからないです。布や糸がキラキラ光っているのです。
その一方で、ワタクシ的にはインパクトはイマイチというか、カラヴァッジョ展ほどは感動しなかったなあ。でも、いろんな傾向のある特異な画家であることはよくわかりました。

2016年11月28日月曜日

「シークレット・オブ・モンスター」(ネタバレあり)

まだ半分もすぎていないのに、カップルが1組、映画館から出て行った。
やっぱりむずかしかったのね。
「風と木の詩」のジルベールのような美少年の顔で売っている映画だから、何か別のものだと思ったのでしょう。
そして、キネ旬の今月号の星取り表、3人の評者が3人ともみごとに的をはずしている。
やっぱりむずかしかったのね。
だいたい、「シークレット・オブ・モンスター」というタイトルがいけない。全然中身と合ってない。なのにThe Secret of a Monsterと英語までつけている。
本当の原題は、The Childhood of a Leader。「一指導者の幼年時代」。
サルトルの同名の小説にヒントを得たそうですが、読んでません。で、ネットで読んだ人の感想を見たら、これはやはりヒントを得た程度のもののようです。
でも、「一指導者の幼年時代」というタイトルはこの映画にはぴったりです。
星取り表の3人の批評家は、そしておそらく多くの人は、この映画を少年が独裁者になる話だと思っているでしょう。

違うのです。

サルトルの方はそういう面がありそうですが、この映画では、主人公の少年はある時代と社会の象徴なのです。
独裁者になる1人の人間ではなくて。
少年(終わり近くになってようやくプレスコットという名前だとわかる)は、明らかに両親に愛されていません。
父親は女の子がほしいと言います。
しかし、母親は、少年を生んだとき大変だったからと言って、夫を拒否している。
でも、本当の理由は、後半、少年の家庭教師が少年に拒否され、クビになるときにわかります。
母親は若い女性である家庭教師に、自分は結婚したくなかったし子供も持ちたくなかった、だが、夫が何度もプロポーズするので結婚してしまった、と言います。そして、あなたも私と同じ気持ちでしょう、だから教師になって自活しなさい、というようなことを言います。
父親は政治の仕事で忙しく、少年にかまっている暇はないし、少年を愛しているようにも見えません。他方、母親は少年といつも一緒にいて、しかも愛していないので、少年は苛立ちの種でしかない。
少年は家政婦を慕いますが、母親は家政婦が息子を甘やかしていると言って、彼女をクビにしてしまう。このとき、家政婦が一家を呪ってやる、と言うのですが、その後の一家は描かれないので、呪われたかどうかは不明。
少年はなぜか髪をのばし、少女のような服を着ているので、女の子に間違われます。そして、女の子に間違われると嘔吐したり、腹いせに裸で歩き回ったりします。
時代は第一次大戦終戦直後、女性の参政権運動が盛んでもあった時期。
少年の苛立ちは、結婚や家庭に縛られたくなかった母親のような女性たちの苛立ちの反映ではないかと思えます。
少年は家庭教師に髪を切った方が男らしくなると言われますが、拒否します。少女のような服を着ているのは親の趣味なのか(「小公子」の主人公のような格好をさせるのが流行った時期があるそうです)、少年自身が男でも女でもない存在で、それがまた彼の苛立ちの原因なのか。
そして、重要なのは、第一次大戦終戦後、戦勝国が敗戦国のドイツから賠償金をとろうとしているということ。
第一次世界大戦まで、戦争では勝った方が負けた方から領土や金を奪うのが普通でした。第一次大戦後、ドイツは戦勝国から多額の賠償金を要求され、それがナチス誕生につながります。
少年の父親と他の政治家たちは、まさにナチス誕生につながることをやっているのです(この反省から、第二次大戦後は敗戦国に賠償金を求めなくなります)。
一方では男たちがナチス誕生につながる政治的なことをしていて、他方では女性たちが男社会の理不尽に苦しんでいる。そういう構図が見える映画なのです。
ラスト、ナチスを思わせるシーンに登場した「私生児プレスコット」は、スキンヘッドにひげという男っぽい姿をしています。彼はあの女の子のような姿をしたプレスコット少年と同一人物なのか?
プレスコット少年は私生児ではありません。私生児(バスタード)にはくそ野郎とか、そういう意味もありますが、ここはやはり字幕どおり、私生児が正しいでしょう。
第一次大戦後の政治家の男たちと、男社会に苦しむ女たちの間に生まれた私生児、それが独裁者、ということではないでしょうか。
少年はこの時代と社会を象徴する存在で、1人のリアルな人間としては描かれていない、そういう象徴的な映画なのだと思います。一指導者の幼年時代とは、擬人化されたファシズムの幼年時代であり、ファシズムの時代がこの「幼年時代」に育まれたことを意味しているのです。

2016年11月24日木曜日

「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」

CGを使って3D展開する最近のハリウッド大作はほとんどスルーしているのですが、J・K・ローリングが脚本を書いた「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」は一応ファンタジーだし、5部作になるというからとりあえず最初は見ておいた方がいいと思って、初日に見に行きました。
ハリー・ポッターの魔法学校で使われている教科書の著者の青年が魔法動物の入ったトランクを持って禁酒法時代のニューヨークにやってくる、という話。ハリ・ポタの用語やら何やらがいろいろ出てきてますが、あまり詳しくない私でもついていけます。
ローリングの魔法世界というのはやはり独特で、いろいろ工夫されたユニークな世界ですが、でも、このあとずっと続編を見続けるかというと、かなりビミョー。
エディ・レッドメイン演じる主人公は正直、間抜けな魔法使いだと思うのですが、その間抜けな魔法使いが後半はきっちり仕事しているあたりの整合性のなさというか。彼がトランクを間違えた相手、魔法を使えない普通の人間である太った男性の方が人物としては面白く、やせたレッドメインと太った彼が凸凹コンビみたいになっているあたり、面白いんだけど、笑えるほどじゃない。
この太った彼と、彼を好きになる魔法を使える美女の部分が一番魅力的で、だから最後もこの2人で締めます。
あとはまあ、子供の虐待とからめた魔法の悪の力とか、魔法動物がそれぞれ役に立つシーンがあるとか、このあたりは定番ですが、たとえば、禁酒法時代のアメリカでは魔法も禁止されていて、お酒を禁止することと魔法を禁止することが対になっているとしたら面白いのだけど、そういうのはまったくなし。魔法使いと普通の人間との確執みたいなのが重要なモチーフかと思いきや、途中から普通の人間はどうでもよくなり、魔法使いたちの戦いになっていきます。
「ハリ・ポタ」も全部見ているわけじゃないし、特に好きでもなかったですが、「ハリ・ポタ」にはまだわくわくするものを感じたけど、こちらはそういうわくわくがないです。
あの太った男と彼女、次回も出るのかな。出るなら見てもいいけど、レッドメインだけだったらパスになりそうです。

2016年11月21日月曜日

「ルドルフとイッパイアッテナ」のDVD

「ルドルフとイッパイアッテナ」のDVDが来年2月22日に発売されるそうです。
本編だけのスタンダード・エディションが3000円以上、2枚組のスペシャル・エディションが5000円近く、そして、オリジナル・トートバッグつきのアマゾン限定商品がこれ。
https://www.amazon.co.jp/Amazon-co-jp%E9%99%90%E5%AE%9A-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%8A-DVD-%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BB%98-%E4%BA%95%E4%B8%8A%E7%9C%9F%E5%A4%AE/dp/B01MXISY25/ref=sr_1_5?s=dvd&ie=UTF8&qid=1479657118&sr=1-5&keywords=%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%8A+dvd
トートバッグって、現物見てみないとなんともなあ。
あと、2枚組の方の映像特典が面白そうじゃない。
この映画、かなり早い時期からチラシがシネコンに置いてあったり、ゴジラとコラボの東宝シネマズの映像があったりと、力入ってたのは知ってましたが、いろいろ特番もあったのね(日テレだから当然)。
でも、興味ない。舞台あいさつとかも興味ないな。俳優さんのファンならあるだろうけど。
しかし、本編だけでも3000円ちょっとするのか(これでもアマゾンの割引価格)。洋画だと少し待てば1000円くらいになるけど、邦画はだめそう。ジブリのDVDとか高い。
まあ、結局、DVD買うことになるだろうけど、せめてあと1回、映画館で見たいな。どこかでやってくれないだろうか。

「ルドルフとイッパイアッテナ」は興収15億の手前くらいみたいで、期待をかなり裏切ったのではないかと思うけれど、「ファインディング・ドリー」や「ペット」には勝てないどころか足元にも寄れなかったのだね。キネ旬に普通の人が洋画を見ないと書いてあったけど、この手のアニメだけは別じゃないのだろうか。「ズートピア」も大ヒットしたし。あ、洋画邦画というときにはアニメ入ってないというか、アニメはまた別ジャンルってことで?
キネ旬最新号に「君の名は。」特集があって、期待したのだけど、なんかはずしてると思ったのは私だけだろうか。世界が違うのかな、うーん。

このところ、「五日物語」へのアクセスがものすごく多いです。「みたび「君の名は。」」も細々とですが、読まれているのでうれしい。

2016年11月18日金曜日

人身事故

今、おもに使っている路線は30年間都心に住んでいたときにおもに使っていた路線と同じ、というか、同じ路線なので下見がしやすくて決めたようなところがあるのだけれど、以前からこの路線は人身事故が多いと思っていました。
実際、都心に住んでいたときに利用していた駅でも人身事故が最近数年で3回もあるらしい。
ここだけの話だけど(?)、その駅って、30年間利用してきたわけですが、電車が入ってくるとなんとなくふらっと引き寄せられるような感じがするんですよね。なにか霊でもいるんでしょうか? 私はその駅では電車が完全に入るまでベンチに座っているようにしてました(こんな経験はほかの駅ではありません)。知り合いが風圧が大きい駅だと言ってましたが、そのせいもあるのか?

で、日付変わって昨日の夜のことになりますが、ついにこの路線の至近距離で人身事故に遭遇。1時間半電車に閉じ込められました。
駅は上に書いた駅とは違います。
人身事故に遭遇といえば、若い頃、北海道を旅行していたとき、網走と釧路を結ぶ釧網線に乗っていたとき、いきなりガツンという衝撃が来て、列車が急停車。窓から顔を出して見たら、前方に軽トラが。踏切に入り込んできた軽トラと衝突したようです。
あのときは1時間くらい停まりました。夏の昼間で、外は観光地の原生花園が近く、車内には人が少なく、とにかく待つしかないという感じでしたが、あとで新聞を見たら、運転手は亡くなったようです。
今回は事故があった駅の手前を走っていたとき、突然停まって、電車が向かっている駅で人身事故とのアナウンス。1つ前の電車はすでにその駅に着いているはずなので、上りの電車に飛び込んだか何かしたのだなと思いましたが、まさにそのとおりで、駅に着くと救急車のサイレンが。
座席に座っていたのでそのままじっとしていましたが、立っていた人たちは次々と降りていき、どうやら救助活動を見る野次馬に加わったよう(?)。「写真を撮らないでください」という駅員の叫び声が何度も聞こえてきました。
振り替え輸送をやっていたので、人はどんどん減っていきましたが、この駅からでは別の路線で帰るのは時間がかかるので、とにかく待つ。そのうち空っぽの事故車両が前の前を走っていく。そのあともなかなか走り出さない。救助活動が終わっても現場検証とか線路の点検とか車両の点検とかいろいろあって、やっぱりJRは人身事故が起こるとそう簡単には動かないのだなとわかりました。
快速が並行して走っているのですが、この間、快速も停まっていました。各駅の線路と快速の線路が並んでいるので、事故処理が終わるまで両方停まるのは前からわかっていました。
うーん、しかしこの路線(各駅の方)は今年人身事故7件目だそうで、去年と一昨年はそれぞれ4件だったというから今年は2倍か。
両隣の駅だったら暇をつぶせる場所があるのに、別の路線で帰りやすいのに、と思いつつ、他のお客さんが人身事故の報を聞いたときからずっと冷静で、むしろ慣れているような感じさえしたのにはちょっと驚き。
まあこの路線、各駅も快速も人身事故も多いけど、それ以外の理由で停まることもけっこう多いのです。都心だったらバスを乗り継いで帰るとか、場合によっては歩いて帰ることもできるけど、郊外だと何かあったら本当に立ち往生です。

2016年11月17日木曜日

「スノーデン」(ネタバレあり)

オリヴァー・ストーン監督の「スノーデン」を見てきました。
元CIA職員のエドワード・スノーデンが、アメリカが世界中の人々のメールや通話などを極秘に情報収集していたという事実を暴露したあの大事件の映画化で、今年、すでにアカデミー賞を受賞したドキュメンタリー「シチズンフォー」が公開されていますが、このドキュメンタリーの方はまだ見ていない。公開はもう終わってしまったみたいで、DVDが出るのは来年。こっちを見ないとなんとも言えないのですが、輸入のDVD買おうかな。
ストーンはモスクワにスノーデンを3度も訪ねていって、スノーデンの協力のもとに映画化していて、ご本人も映画には満足とのこと。最後のインタビューシーンにはご本人が出演しています。
映画はスノーデンが特殊部隊の訓練を受けているところから始まり、そこで大けがをして特殊部隊を断念。その後CIAやNSAに入り、コンピューターの才能を認められて極秘任務につくのですが、最初はガチガチの体制派だったのが、リベラルな恋人の影響と、そして現場で行われている理不尽なことへの疑問から、真実の告発へと至る姿が描かれています。
もともとストーンがガチな体制派で、ベトナム戦争は正しいと信じて従軍、そこで現実に目覚めて反戦派、アメリカ批判派に変わったという人物なので、スノーデンのような最初はガチな体制派で、アメリカ政府のために働きたいという人物がアメリカの悪を告発する人間に変化する話は自分自身にも重なり、また、「7月4日に生まれて」などの映画にも重なるもの。
CIAに入るとき、好きなものを聞かれたスノーデンがアイン・ランドの名をあげますが、ランドは公共の福祉など必要ないという、弱肉強食の資本主義支持者で、映画「摩天楼」の原作「水源」や「肩をすくめるアトラス」といった小説でその思想を描いた作家。「スノーデン」には「肩をすくめるアトラス」の名が出てきます。ランドの思想はリベラル派からは当然批判されているのですが、信者も多く、アメリカ人に非常によく読まれている作家で、日本にも信者がいます。
ここでランドの名が出てくるのは、ストーンが20世紀末からのアメリカがこうしたランドの考える資本主義になってきていると考えているからでしょう。
アメリカがひそかに行っている情報収集に疑問を感じたスノーデンは、ブッシュをモロンと呼ぶリベラルな恋人の影響もあり、オバマ大統領の誕生に期待します。が、大統領がブッシュからオバマにかわっても事態は変わらず、別の目的で作ったプログラムがドローンによる殺人に使われていることもわかり、ついに告発を決意、そして、「シチズンフォー」を監督することになるローラ・ポイトラスに連絡をとり、そこから衝撃的なニュースが世界に伝わることになります。
映画はまず、香港でスノーデンがポイトラスに会うところから始まり、スノーデンが過去を語るという形で展開しますが、スノーデンがなぜ告発しようとしたかというと、それは、こういう事実について人々が考えないと、次の指導者が選ばれたあとに独裁が起こる可能性があるからだ、ということです。
そして、最後の方に、「スノーデンを死刑にしろ」と叫ぶあのトランプの姿が。
ストーンが今年の大統領選を見据えて作ったのは明らかですが、この映画に描かれるアメリカが世界の覇権を握り続けるためにしているありとあらゆることが、トランプが大統領になったあと、いったいどうなるのか。オバマの時代でもこうなのに、と考えてしまいます。
スノーデンが機密ファイルを持ち出した方法は明らかにされておらず、それも含め、映画はフィクションの部分も多いだろうと思いますが、現実がストーンの映画の斜め上を行っちまってる感もあります。いろいろと考えさせられます。

2016年11月13日日曜日

紅葉

始まっています。人が多くて全景がアップできない。




コサギが帰ってきた。餌をとったところ。

この鳥はわりとどこにもいる。小さいのでなかなかうまく撮れないが、これはわりとうまく撮れた。

明日は超特大のスーパームーン。明日の夕方は外に出られないので、今日の月を撮っておいた。

無名時代

雑誌や出版物に名前と文章が出るのが年に1回あるかないかになっている今日この頃。
ある意味、無名時代に戻った感じです。
「フランケンシュタイン」の解説が世に出てから、自分の名前と文章が雑誌等に載るのが普通になっていて、一時期、キネマ旬報にまったく書けなくなったときも医療系の雑誌で映画紹介の連載をしたり、知り合いを通してエスクアイアに書けるようになったりと、途切れることはありませんでした。
そして、第2のキネ旬時代が来て、この時代にキネ旬で優遇されてしまったせいか、他の場所で書くことが非常に少なくなり、そしてキネ旬とあまり縁がなくなってしまうと、無名時代が到来したのです。
もちろん、雑誌等に書いているときも別に有名じゃなかったけれど、有名ではない無名と今の無名は相当に違います。
では、今の無名は不利なことばかりなのか、というと、そうでもない。
ある意味、自由ではないか、と気がつきました。
あの人は映画評論家で、こういう映画が得意で、こういう文章を書く人、みたいな、固定観念から解放されるのです。
私が何者か知らない人が多数いて、そこでは私は何にでもなれる、という感じ。
いろんな賞に応募してみたいなあ、と、考えています。
私が応募できないのは翻訳の新人賞くらいですから。
非常勤講師の仕事に追われていると何もできないので、コマ数減らされるのは書くチャンスと考えるようにします。

2016年11月11日金曜日

やばい

非常勤講師先の大学からコマ数減らすという連絡が次々と来ている。
1日1コマにする、というところは、要するにやめてくれというのと同じ。
実際、すでにやめた人もいるのだが、学生に人気のある授業で、受講者数も多いのに、少ないコマにして大教室で授業を、とか言ってくる。
大教室にしたら設備も悪くなり、以前と同じようには授業ができなくなり、自分もつまらないし、学生もつまらないから、やめた方がいいのだろうが、今突然コマ数減らすと言われてもやめて次を探すのは無理。
とりあえず、自営業の仕事を探すのが一番いいのだろうと思うが。

あと1年ちょっとくらいで非常勤講師が1年契約から無期契約に変更してもらえるので、それを避けるために非常勤講師切り捨てを画策している大学は少なくない。それはわかっていたので、執筆や翻訳の仕事を探さねば、と思っているのだが、昔ほどこういう方面に勘が働かなくなってる。若い頃のような柔軟さもなくなってきている感じだ。なんとかしないと来年度からは食べていけなくなる。

2016年11月10日木曜日

ヒラリーの敗因(追記あり)

1 女だから。

すでに言われてますが、黒人8年の次は女かよ、と思った人多いでしょう、特に白人男性。白人女性も多かったかもしれない。

2 ヒラリー自身があまり好かれてない。

これ、なんとなく感じてはいたんですが、マイケル・ムーアが何か月も前に書いていた。
ビル・クリントンの妻っていうのも二世みたいで、ブッシュ父の次はブッシュ息子みたいなやな感じ、しかも妻、ってのがあったのかもな。
ヒラリー自身も、よいこともしてきたけれど、あまりよくない面もいろいろあった模様。

アメリカは上院も下院も共和党が制し、これで大統領、上院、下院とトリブル勝利なのですが、実はトランプは共和党の政治家とは仲悪いらしい。
ふーむ、なんとなく小池百合子っぽいな。

都知事選の場合、鳥越俊太郎の敗因は、

1 年よりだから。
2 鳥越氏自身が実はあまり好かれてなかった。

そして、ヒラリーにしろ鳥越氏にしろ、リベラルだけど、こういう人は自分たちの味方ではないと思われたふしがある。

アメリカ初の女性大統領は、誰かの妻や誰かの娘ではない人でなければならないのだろう。オバマが政治家の息子ではなかったように。

そういえば、「シン・ゴジラ」を見たアメリカ人が、石原さとみ演じる女性に大統領になってほしいとか書いていたけど、彼女も政治家の娘なんだよね。

トランプはまあ、実際の政治は側近や官僚がやるだろうけど、まわりにちゃんとした人をそろえられるのかどうか。
トランプがいやだからヒラリーに、という人、そして、ヒラリーがいやだからトランプに、という人が多かったんじゃないだろうか。
そして、安全パイのヒラリーよりもわけわかめなトランプに票がいっちまったのか。
つか、日本もアメリカも差別的な暴言を吐く人が人気だというのがなんとも。
マイケル・ムーアが数か月前に出した警告の文章が実によく当たっていたのだけど、そのムーアも直前には、女性の大統領を迎える心の準備をせよ、などと楽観的なことを書いていた。どちらもハフィントン・ポスト。警告の文章はこちら。
http://www.huffingtonpost.jp/michael-moore/5-reasons-why-trump-will-win_b_11254142.html
上の記事でムーアもちょこっと、トランプの錯乱した指が核のボタンに触れたら終わりだ、と書いてますが、トランプは戦争起こす気がなくても押しちゃうんじゃないかという、そういう恐怖はありますね。
大学の映画の授業でスピルバーグの映画を続けてやってきて、次は「AI」にする予定だったけど、スピルバーグは今の映画で終わりにして、ここは核のボタンを押す恐怖を描いた「未知への飛行」に変更した方がいいかもしれない。

追記
ヒラリーの敗因は民主党支持者が投票に行かなかったから、というツイッターあり。
2012年、オバマ6590万票、ロムニー6090万票。
2016年、クリントン5930万票、トランプ5910万票(ブッシュがゴアに勝ったときと同じく、トランプは得票数は下回ったが、選挙人数で勝った)。
一方、トランプにはこれまで選挙に行かなかった層が投票したとの見方もあり、共和党支持者でトランプに入れなかった(棄権した?)人の分、そっちが増えたということなのか。
クリントンはオバマに比べ、得票数がかなり少ない。
クリントン圧勝という事前予想のせいだろうか。

2016年11月9日水曜日

無知の罪PART2:無知にさせておく罪

アメリカ合衆国。。。

ツイッターから

「まだどっちが勝つかわからないが「金は持ってねえが頭数はいるぜ層」をこれだけかっさらったトランプは凄いし、バカもエリートも1票は1票という民主主義の恐ろしさを思い知った。教育や格差是正に真剣に取り組まないと、国は傾くのだ」

イギリスのEU離脱とか、都知事選とか、前触れはすでにあったのだが、世界全体がFランク化。。。

無知な人をたくさん作って安く働かせたいエリートや富裕層が痛い目に合わないとだめかも。。。

昨日、「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」というドキュメンタリーを見に行ったら、「未来を花束にして」という映画の予告編をやっていて、チラシも配っていたのだが、そこに、2016年は台湾に女性総統、初の女性都知事、そして初の女性アメリカ大統領、と書いてあって、すごい違和感を感じたのだが、
女性という共通点しか見ないFランクな考え。。。

2016年11月7日月曜日

無知は罪

神宮外苑の火災事故の件で、「無知は罪」という言葉が出ている。
子供がやっと入れるくらいの木造のジャングルジムにおがくずを入れ、そこに電球(LEDだと製作した学生は言っているらしい)を入れることの危険性に、製作した大学生たちも、学生を指導する立場の大学と教員たちも、展示を許可した主催者たち(東京デザインウイーク)も気づいていなかったこと。(追記 白熱電球の投光器を設置していたことがわかった。また、LED電球でも火災は起こるとのこと。)
その日本工業大学が偏差値38の、いわゆるFランク大学であること。
その製作物の説明の英文がひどすぎること。

最初からおかしいのだが、一番ひどいのが、
「私は素に戻りたい」を「I wont to return to nature」と書いている。
wontではなく、もちろんwantが正しい。
こういう間違い(中二の英語)に誰も気づかない、注意しない。
そこからすべてが始まっているように思える。
学生だけでなく、大学も主催者も無知なのだろう。

昨日は、「無知は無知のままにしておけ」という記事を書こうかと思っていた。
その前に「マンスプレイニング」という、男が女を無知と思い込んでいろいろ教えてやるという迷惑行為について書かれていて、私も人に教えてやるという上から目線をいやがられることが多いので、無知は無知のままほって置けばいいんだ、その方が平和なんだ、と心底思ったのだ。
私の場合、相手が本当に知らないので教えてあげようとするのだが、それでいつも迷惑がられる。
さすがに私も相手が迷惑なことにだんだん気づいてきたので、最近は余計なことを言わない、コメントしないよう気をつけている。

でも、あの展示を見た人の中には、これ、もしかして危険じゃない?と思った人もいたのではないか。実際、そばにいた学生に安全性について尋ねた女性がいたようだが、学生にせせら笑われたのでそれ以上何も言わなかった、とネットに書いてあった。
何か言ってトラブルになるより、無知は無知のままにしておけ。
たぶん、そういうふうな風潮があって、世の中がますます劣化しているのだろう。

相手を勝手に無知と決めつけて、という、教えてやる本人の方が無知をさらしているおせっかいは私はそれほどしていなかったと思うのだけど、でも、相手が本当に無知でも教えてやる必要はない、という考えになったのは比較的最近のことで、相手が迷惑がるから、というだけでなく、こっちが面倒になってきたからだ。
大学の学生に社会問題を扱った映画を見せる授業をしていると、学生の無知をたくさん知ることになるが、それをいちいち訂正している時間がないのだ。社会に対する学生の無知は本当に多くて、それを解決するにはそれ自体を目的とした授業をしなければならないだろう。
などと考えて、面倒だから無知は無知のままにしておけ、になってしまっている。

悲惨な事故やひどい事件はいろいろあるけれど、今回は大学とか大きなイベントとかが関係していて、無知じゃすまされない人たちが関わっていたのに、無知は罪を地で行く事故が起こってしまったことに愕然としている。

日本工業大学(東京工業大学ではない)。

日本工業大学が展示した素の家という木造のジャングルジムの中におがくずを入れて電球をつけたものが炎上し、5歳の子供が亡くなったという悲惨なニュースですが、

日本工業大学は、東京工業大学ではありません!

なんかすでに風評被害になっているらしい。

しかも、日本工業大学はHPを削除、キャッシュまで削除している?

なんなんだ、これは!

展示を許した主催者にももちろん罪はあるが、大学の対応はなに、これ?

もう怒りしかありません。

追記 HPにアクセスできた人もいるようで、アクセス殺到で表示されなかったのかもしれません。
今回の事故については、次のブログが参考になりました。主催者の東京デザインウィークの問題点を指摘しています。
http://musica-report.com/archives/565
追記2 上のサイトの564の記事のリンクを削除しました。
理由は、出展した大学生の氏名が追加されていたからです。
東京デザインウィークのサイトに記されていた氏名であり、すでにネットで拡散されているから実害はないとブログ主は書いていますが、彼らの中には責任の重い者もいれば軽い者もいるだろうし、未成年者と成人の両方がいるのは確実です。その区別もせずに氏名を書くことには反対です(というか、学生の名前を出すこと自体に反対)。
このブログ主は過去に出展した経験からこのイベントそのものを批判していて、それは有意義なのですが、それならイベントの過去・現在の関係者責任者の氏名を出すべきだと思います。学生の名前だけ出すのはおかしい。
565に続く566の記事も、このイベントが以前から燃えやすい展示を行ってきたことに写真入りで触れており、よい記事だと思うのですが、それだけに残念です。(当のブログ記事にコメントしたのですが、やり方がまずかったのか、反映せずに消えてしまいました。)



話変わって、今出ているキネマ旬報の評論家100人が選ぶ期待の映画監督特集に投票だけ参加しているのですが、この特集の記事の1つにとんでもない間違いがあったらしい(つか、あったのだが)。
ガス・ヴァン・サントとマット・デイモンが近作のすべてでコラボしているという間違いを書いてしまったらしい(じゃなくて、書いてしまったのだ)。
誤植とか誤記とか細かいミスとか記憶違いとかいうレベルを超えているので正直、驚いた。
筆者は一応、この業界では名前を知られた人。
この人が間違えたのか?
編集者は誰も気づかなかったのか?
それとも、別人が書いたの?
ちょっと、普通では考えられないミス。
まあ、刷り直しになった淀川長治本のような例がすでにあるのですが、それでも淀川本は時間切れとか校正係を雇う予算がないとか、いろいろ推測はできるのだけど、今回はなんか邪推したくなるような出来事です。

いずれにしろ、日本社会のあらゆる面で劣化が起こっているというのかな。
間違ったことやよくないことが支持されてしまう、という風潮も非常に多く目にします。

2016年10月31日月曜日

秋の風景

夏日もあった10月も今日で終わり。さすがに寒くなってきました。
まだそれほど寒くなかった頃に撮った写真から。
柿の木。


以前、花が咲いていたカラタチに実がなっていた。


稲も収穫時。

コスモス。

雀のお宿。

今年の秋は昆虫が少ない。

県立図書館の前庭にあるランチハウス。利用者がお弁当を食べるところ(館内にもスペースがありますが)。


遠くの県立図書館から映画がらみの本を2冊取り寄せて借りたのですが、1冊が大学教授が研究論文などをまとめた本。惹句が興味深そうだったので借りてみたのですが、これが羊頭狗肉ってやつで、あまりのがっかりに2日くらい落ち込んでいました。
大学の研究者が自分の研究の参考として映画を利用、というのは最近流行っているらしいのですが、その映画の解釈がもっぱら著者の都合のいい解釈で、しかも取り上げている映画が私にとっては青春の思い出である映画が多く、それらが間違った解釈や背景を無視した解釈がなされているのにはもう愕然としました。
その上、論文としても中身がないというか、お題目を掲げただけで終わりみたいな感じ。研究そのものが役に立つなら映画の解釈がおかしくても大目に見られるのだけれど、これではまともな研究書とは言えない。
自分が研究をあきらめてきただけに、大学教授の研究書がこんなものだと本当に落ち込む。
若い頃は、なんだこれは!と怒りながらも奮起したものだけど、最近はこんなものがまかり通っているのかと落ち込むばかり。いかんなあ。落ち込むならせいぜい1日にしろよ、そして若い頃のように奮起しろよ、と自分に言い聞かせ、3日目には回復。
1冊目があまりにひどかったので、2冊目もひどい本に見えてしまい、読まずに返そうかと思ったけれど、せっかくだからと読み始めたら面白かった。こちらは翻訳もの。装丁が読みにくそうだったけれど、中身は読みやすい。が、固有名詞の表記に間違いがある。ハーマン・メルヴィルをヘルマン・メルヴィルって、ありえないだろう。映画関係者の名前にも間違いがある。その他、なんでここにこんな注を入れるのか、っていうところもあって、映画に疎い出版社なのだろうか? 面白かったけれど、そこが残念。