やだなあ、年をとると、と思うのはやはり物忘れ。
見たことのある映画を見ていないと思ってDVD借りてしまうとか(まだ2回しか経験してませんが)。
そしてついにやってしまった、読んだことのある本をまだ読んでないと思って図書館で借りてしまう。これは初めて。
「映画もまた編集である ウォルター・マーチとの対話」は、「イングリッシュ・ペイシェント」の原作者マイケル・オンダーチェがこの映画の編集をしたウォルター・マーチと語り合った本。
最近、急に、この本をまだ読んでいない、読まなければ、という思いに駆り立てられ、ネットで調べたら、同じ県内の遠くの図書館にあることが判明。近くの県立図書館で予約するとそこまで本を届けてくれるのでネットで予約。
が、予約したあとになって、あれ、この本、前に住んでいた某区の図書館で借りて読んだ覚えがある。それも近所の図書館。
そう思ってかつての近所の図書館を検索したら、やはりあった、この本。
うわあ、どうしよう、と思ったら、すぐに本が到着したという知らせ(メールで知らせてくれる)。せっかく届けてくれたのだから読みなおそうと思い、借りた。
読んでから何年もたっているので、さすがに覚えているところは少なく、新しい発見もあり、借りてよかったと思った。
数年前には読み流していただろうと思うところで、今は非常に印象に残る箇所がいくつもあった。
オンダーチェは小説を書いているときは自分をコントロールしない方がいいと言う。小説家にはプロットをきっちり決めてから書くタイプと、先が見えない状態で書くタイプがいる。最近続けて何冊も読んでいた奥田英朗や斉藤洋はオンダーチェと同じタイプのように見える。特に奥田は本当に先が見えない状態で書くらしい。「ルドルフとイッパイアッテナ」の斉藤はだいたいの輪郭は決めて、あとは成り行きみたいだ。
実は私はすべてきっちり決めて、ほとんど設計図を作り上げてから書くタイプで、評論も、それから趣味で書いていたファンタジー小説もそうだった。でも、そういうやり方だと自分の文章に限界がある、もうそのやり方ではだめだ、という気がしていた。そう思い始めたのは最近なので、オンダーチェのこの言葉は今だから印象に残る。
偶発性がだいじで、まとめるのは編集。だから小説も映画も編集が重要、というのがオンダーチェの主張だ。
もともと私はウォルター・マーチの監督した映画「オズ」が大好きで、だから前に読んだときはマーチの言葉ばかり読んでいた気がする。が、今回はむしろオンダーチェの言葉、オンダーチェのやり方に目が行った。
最後の方で、オンダーチェは、最初からコントロールしすぎてしまうとだめ、だから私はアニメーションが好きになれない、百パーセント事前の計画どおりに作り上げるから、と言っている。
私自身はアニメも好きだし、アニメには実写映画のような偶発性がないのかどうかはわからないが、完全に編集できない演劇と、偶発性と編集のある映画と、偶発性がないと彼が主張するアニメの対比は面白いと思った。もっとも、マーチの監督した「オズ」にはクレイ・アニメーションが含まれているのだが。
もうひとつ、今回だからこそ印象的だったのは、「ゴッドファーザー」のある場面のフレーミングについてマーチが語るところ。
マイケルが父親を病院に訪ねようとするとき、恋人のケイが一緒に行きたがる。が、マイケルはケイを置いて一人で出かける。このシーンをマイケルのせりふや行動ではなくフレーミングで彼がケイを拒否して出ていくシーンとして描いているとマーチは言う(マーチは「ゴッドファーザー」三部作すべてにかかわっている)。左端にマイケルがいて、その右側の大きな空間を彼は横切って歩き去る。その空虚な空間が目に見えないファミリーへの入口となって、ファミリーの大きな存在感を暗示している、とマーチは言う。
ここを読んで真っ先に思い浮かべたのは、「シン・ゴジラ」の私にとって最も印象的だったシーン。国連がゴジラに対して熱核攻撃を決めたあと、主役の男女2人が核攻撃をなんとか避けようと話し合うシーンだ。ここは石原さとみの独壇場なのだが、祖母が広島で被爆したという彼女は、日本に3つ目の核爆弾を落とさせてはならないと力説する。そのとき、カメラは2人の人物から遠ざかり、どんどん左に移動していく。2人は画面の右に追いやられ、ついには石原さとみの姿が一部しか見えなくなる。その左の大きな空間には、廃墟を思わせる建造物がある(1度しか見ていないので、うろ覚え。もしかしたら違うかも)。
このシーンで「三度許すまじ原爆を」の歌が脳裏をよぎって泣いた、という人もいる。石原さとみの役はアメリカ人で大統領特使だから、それまではアメリカ第一主義だったのだが、このシーンで彼女は自分の将来を棒に振っても核爆弾を使わない方法を推進する決意をし、周囲の人々も日本側の考えた作戦を遂行しようと懸命にがんばる。
「ゴッドファーザー」とは意味が違うけれど、やはりフレーミングによって石原さとみの人物の変化を表現しているのだ。実際、石原が英語が下手だろうがなんだろうが、このシーンは日本人の日本語じゃないとだめなのだよ。祖母が被爆、三度許すまじ原爆を、なんだから。
というわけで、読んだことを忘れてわざわざ遠くの図書館から届けてもらった価値があったのでした。ありがたや。
ところで、意外な大ヒット「シン・ゴジラ」のさらに上を行く意外な大ヒット「君の名は。」。私が見に行ったのは公開から1週間後の土曜日だったけれど、そのときにすでに大ヒットだったのに、その後さらに入場者数が増えて、この3連休はこれまでで最高の入りだったらしい。「アンナとアントワーヌ」のついでに見に行ってよかったというか、普通はヒット作はすぐに行かない主義なのに、このときはどうせついでだから行っちゃえと、出かける直前にネットで席予約して行ったのだった。この日の上映は完売じゃなかったけど、今は完売に次ぐ完売らしい。運命というものは、必要なときに必要なものを与えてくれるものなのかもしれないな。