土曜日にシネコンでハシゴ。「ハドソン川の奇跡」の初日と公開1週間後の「映画 聲の形」を見てきた。
「ハドソン川の奇跡」は良作であるけれど、これ、96分もやる必要のある内容だろうか。70分くらいがちょうどいいような気がする。
脚本はよくできていて、最後は盛り上がるし、9・11のニューヨークの悲劇のあと、このハドソン川の奇跡でようやくニューヨークにポジティブな光が灯る、それもニューヨークの多くの人たちの協力で、という設定もいいんだが、機長の若い頃のエピソードとか必要だったのか? もしも機長の人生を描くというのであれば、もっといろいろなエピソードが必要。でも、そこまで描こうとはしていない。
あと、最初からずっと疑問だったのは、機長の見る悪夢がニューヨークの摩天楼に突っ込む飛行機だということ。
機長はエンジン2機が停止し、近くの空港へ行く余裕はないと判断してハドソン川に不時着水するのだが、普通に考えると、機長の見る悪夢は着水が失敗する夢のはずなのだ。
それが摩天楼に突っ込む悪夢だというのは機長がもしも川に着水しなかったらという恐怖を抱いているということになり、着水を選んだことには何の疑問も持っていない、むしろ自信満々ということになる。実際、映画では機長はこのことについては確信を持っているのだが、着水が正しい判断だとしても失敗する可能性は相当あったはずだ。
確かに機長の技術がすばらしかったのだろうが、それでも失敗する可能性はあった。実際、機長は飛行機の中に乗客が残っていないか最後まで確認する。死者ゼロとわかってようやく安心する。
つまり、摩天楼に突っ込むシーンは機長の悪夢というよりは、9・11の連想とそこからの奇跡というモチーフのために存在するので、この辺、あざとい感じは否めない。機長の心理はもっと複雑だっただろうに。
機長と副機長が調査の対象になるのはこれはやむを得ないというか、今回は全員無事だったけれど死者が出た可能性はあるわけだし、着水が正しい判断だったのか調べるのは当然。そこで機械的なシミュレーションしかしない調査する側と、人間的なファクターを考慮すべきと主張する機長の対立になり、結果、機長が正しいとわかる。このあたりは非常に盛り上がる。そして、自分一人ではなくみんなが奇跡を起こした、という機長のせりふ。ここは感動したけれど、やっぱり9・11からの奇跡みたいな道筋が見えすぎてしまうのがなんともなあ、という感想でした。
「君の名は。」の3分の1の公開館ながら金曜まで2位につけていた「映画 聲の形」。実は試写状もらっていたのだけど、回数が少なく、見に行けなかった。予告編もいまいちピンと来なかったので見なくていいかな、と思っていたら、その後、いろいろとよい評判を聞き、見に行った。
「君の名は。」と同じく10代の若い人がいっぱいだが、こちらの方が重いテーマのせいか年齢が少し高く、中高年もちらほらいる。どこかの学校から20人くらいまとまって来ていたみたいで、始まる前はまるで学校の中みたいにうるさかったが、始まると静かになった。
聴覚障碍者の少女へのいじめと、いじめた側の少年の苦悩、当時の同級生たちのその後が描かれるが、思っていたほど重くなく、2時間以上の上映時間も長いと感じなかった。
原作は少年漫画だけど原作者も、映画の監督と脚本家も女性、ということで、女性キャラの1人1人がリアルでいい。今もまだいじめっ子の少女、ヒロインをかばっていたがよそへ行ってしまった少女、見て見ぬふりをしていた少女。ヒロインの聴覚障碍者が天使のような少女に描かれているのが批判の的になりそうな感じはするが、単に天使のような障碍者とその周囲の健常者という図式ではない。
主人公の少年と少女は初めて会ったときからお互いに惹かれあっていたのではないのか。だが、少年はそんな気持ちを正直に認めることができず、少女に執拗にいじめを繰り返す。やがて今度は少年がいじめの対象になり、そして彼はほかの人とコミュニケーションできない人間になってしまう。首から上が画面からはみだしているシーン、まわりの人間の顔にバツ印がついているシーン。そのバツが取れたりまたついたりして、主人公の周囲とのつながりと断絶が示される。
いじめっ子をやめられない少女はたぶん、主人公の少年が好きで、ヒロインに嫉妬しているのだろう。ヒロインをかばっていた子が途中でどこかに行ってしまうのはヒロインをかばいきれなくなったからだろう(彼女は自分は弱いと言う)。
天使のようなヒロインにしても、彼女がすぐにごめんなさいと言うのは、障碍者は人の手を借りなければならないことが多く、そのため常にごめんなさいと言う必要に迫られていること、そして健常者も無意識のうちにそれを要求しているのではないかと思わせる。いろいろと深いのである。
自殺未遂で始まり、自殺未遂で終わる。水に落ちるシーンが何度かある。仮の死を通して人は少しずつ変化成長していくということだろうか。
ヒロインのボーイッシュな妹、主人公の高校での親友など、魅力的なキャラクターが多い。原作はもっと複雑だという。ぜひ読んでみたい。
この映画を見たあと、非常勤講師をしている大学の授業に難聴の学生がいたことを思い出した。
それは英語のリーディングの授業だったが、リーディングは教師が口で文法や訳を説明するのが中心なので、難聴の学生にはむずかしいのではないかと思った。そこで教務課に何らかの配慮はできないのかとたずねたが、教務課の返事は、この学生は軽度の難聴なので日常会話には不自由しない、ゆっくり大きい声で授業をすれば十分との答えだった。
しかし、この学生は私が目の前で大きく口をあけてゆっくり話しても何を言っているか理解できなかった。また、その学生の発する言葉を私はどうしても聞き取ることができなかった。
隣にいた友人の学生が、自分がついているから大丈夫だというので、とりあえず授業をすることにしたが、次の週になると友人の学生はまったく来なくなった。
難聴の学生は優秀だったので、こんな状態でも試験ではみごとに合格点を取った。
大学側の対応に納得がいかなかった私は、ネットで、他大学がどのような対応をしているのか調べてみた。ある国立大は聴覚障害の学生に対する配慮が行き届いていて、1人の学生に3人の協力者をつけていた。3人の協力者が先生の講義をメモし、学生に渡すのだ。3人がメモすれば聞き逃しはほとんどないからだ。
当時、私は逃げてしまった友人の学生に対して無責任だと思ったが、3人の協力者がいて初めてできることをあの友人が1人でやろうとして、そしておそらく数日でギブアップしてしまったのだろうと、今にして思う。「聲の形」のヒロインをかばった少女が去ったのも、彼女1人では無理だったのだ。彼女はそれを「弱い」と言ったけれど、1人では無理なのだ。
授業料はしっかりとって、日常会話は可能などといいかげんなことを言い、あとは非常勤講師に丸投げとか、あのときの怒りを思い出してしまった。
最後に余談。
「聲の形」は岐阜県大垣市が舞台で、映画の最初に大垣市長のメッセージが流れる。が、映画の中の高校のモデルになったのは東京都文京区の駒込学園。実はこの学校のすぐそばに30年くらい住んでいたので、なつかしかった。あの建物の前に、春にはモクレンが咲き誇るんだよなあ、とか、校舎の壁にスポーツで優勝したり東大進学した人の名を入れた幕を下げてるところがそっくり、とか。