「天使よ故郷を見よ」のトマス・ウルフと、その小説を世に送り出した編集者パーキンズを描く映画「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」。
映画はRottentomatoesではかなり評価が低かったが、英米文学やってる人間としては見ないわけにはいかない。もっとも、トマス・ウルフも「天使よ故郷を見よ」も名前は知っていたが、読んだことはない。
ウルフの時代はヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナー、スタインベックがアメリカ小説四天王で、日本でもこの4人が人気が高い。私もこの4人はよく知ってるんだけど、ウルフは名前だけ、なのだ。
ウルフという人はかなりの変人で、こういう人がそばにいたら迷惑だろうな、と思ってしまう。小説もとにかく書きまくるので異常に長く、これではだめだ、ということで、編集者パーキンズが指導して大幅に削除させ、出版。そして「天使よ故郷を見よ」はベストセラーになる。
その後もパーキンズとの二人三脚が続くが、ウルフには18歳年上の恋人がいて、彼にとっては母親のような存在なのだろうが、父親のような存在のパーキンズと知り合ってしまうと、彼の人生はパーキンズがすべてになってしまい、恋人は激しく嫉妬する。
実際、この映画のウルフは30代にもなって子供みたいだ。
一方、パーキンズもワーカホリックで、家庭を顧みない。自宅にいてもソフト帽を脱がないとか、こちらも変人っぽい。
パーキンズはフィッツジェラルドやヘミングウェイも世に送り出した編集者で、この2人も登場する。面白いのは、ウルフを演じるのはジュード・ロウ、パーキンズはコリン・ファース、フィッツジェラルドはガイ・ピアース、ヘミングウェイはドミニク・ウェストと、全員イギリス人。まあ、イメージは合ってると思いますが、古い時代だとイギリス人俳優の方が似合うのか? 映画は一応、イギリス映画ということになっていて、監督もイギリス人だけど、やっぱり違和感はある。女優はニコール・キッドマン、ローラ・リニーと、アメリカ生まれ。
ウルフの時代、フィッツジェラルドは「グレート・ギャツビー」も売れず、新作も書けず、ハリウッドへ行っても売文家に徹することができず、という状態だが、20年代には人気を得たフィッツジェラルドだけれど、大不況時代の30年代には彼自身の作風が合わなくなってきているように見えた。それに対し、戦争に取材して書くヘミングウェイはまさに時代の申し子だろう。
とまあ、いろいろ興味深い映画ではあるけれど、あまり深みはないし、劇的な展開もないので、映画としての評価が低くなるのはやむを得ないかと思う。父を乗り越えるというのはアメリカによくあるテーマだが、ウルフはパーキンズという父を乗り越えるところまで行っていない。最後まで子供のままだ。脚本は「グラディエーター」などのジョン・ローガンで、2人の男の対立みたいなテーマはローガンの得意とするところだと思うし、実際、ローガンが長年温めてきた企画でプロデューサーも兼ねているのに、監督の選択を誤ったか、あるいは、脚本がそもそもよくなかったのか。
それはともかく、作家と編集者が作品を作っていくというのは20世紀後半以降の出版ではよくあることだと思うが、パーキンズのように産婆の役に徹する編集者ならいいけれど、編集者が書きたいことを作家に書かせようとする本末転倒な編集者も多いようで、「ルドルフとイッパイアッテナ」の斉藤洋もそういう編集者は自分で作品を書けとエッセイで言っている。ウルフとパーキンズの場合も、映画では、もしかして自分の好きなように変えてしまったのではないかとパーキンズが思ったり、パーキンズのおかげでいい本ができたと世間から言われてウルフが悩むとか、そういう部分も出てくるのだけれど、出てきただけで終わってしまっている。
パーキンズはトルストイの「戦争と平和」を愛読書にしているが、「戦争と平和」は章ごとに物語と作者の薀蓄というかお説教が交互に出てくる。このお説教の部分を飛ばして読んでも物語はわかるのだが、飛ばせば当然、作品は軽薄になってしまう。もしも編集者が、お説教の部分を削除した方が売れると思ったら、そうなってしまう可能性があるのだ(オードリー・ヘップバーン主演の映画「戦争と平和」はこのお説教を削除したものと言っていい)。
本当はこのあたりを追求すべきだったのじゃないか。あるいは、恋人が母、編集者が父である子供のような人間ウルフの物語に徹するべきだったか。どちらも中途半端なのだ。