日曜日はシネコンで重い映画を2本ハシゴ。
まず午後は20世紀初頭のイギリスの女性参政権運動(サフラジェット=原題)を描いた「未来を花束にして」。
これ、Rottentomatoesでは評価が低くて、理由は、主義主張ばかりの映画だから。
確かにそういう面が強くて、ストーリーや人物に工夫がないのは否めないし、欧米ではサフラジェットはかなり有名らしいので、単にテーマがいいだけじゃだめ、な評価になるのはよくわかりますが、日本ではサフラジェットのことはほとんど知られていないので、勉強になります。
女性は参政権だけでなく、親権もなかったことも。
古い時代には女性に親権がないというのは「この世界の片隅に」の原作にもはっきり書かれています。
サフラジェットについては、私が初めて知ったのは、ケン・フォレットの「ペテルブルクから来た男」でした。良家の令嬢のヒロインが社会問題にめざめ、デモに参加するが、暴力で鎮圧されてしまう、というシーンがありましたが、映画の方ではサフラジェット側も暴力に訴えるほど過激になっている様子も描かれます。
なんにしても、自分的には専門分野の教養として見ておきたい映画だったのです。
そして夜はマーティン・スコセッシの「沈黙ーサイレンスー」。
原作も読んでいないし、70年代の日本映画版も見ていないので、とりあえず、気がついたことを。
まず、最初に強烈な印象を受けたのは、虫の声でした。
日本人は虫の声を音楽として聞くという、まさにそのことを表現するような、すばらしい音響の虫の声です。
台湾でロケしたというけれど、この虫の声は日本の自然そのものです。
沈黙なのに、要所要所で映画に響き渡る虫の声。
それは日本の八百万の神の声であり、日本の神は沈黙していない、ということでしょう。
八百万の神が沈黙していないので、キリスト教の神の声が聞こえないのか。
八百万の神の美しい虫の声の中で、宣教師は神の声を必死に聞こうとするけれど神は沈黙している。
宣教師を捕えた役人が、キリスト教の布教はむだだと説くシーンで、日本の信者はキリストと一体化していない、宣教師との絆があるだけだ、というようなことを言っていて、確かにそういう感じはします。宣教師は神やキリストと対峙しているけれど、日本の信者は宣教師を慕っている。これって、すごく日本的な感覚。というか、これが日本的な感覚だということは、西洋人のスコセッシの目を通すからわかるという奇妙な感覚もありました。
また、役人も、棄教させようとするときの理屈が日本的な建前と本音のような感じに見える。
棄教した宣教師はその後も棄教宣言書みたいなのを何度も書き、完全に棄教したようにふるまうけれど、実際は(以下ネタバレにつき自粛)。
キリスト教は古代ローマ時代にも迫害されているので、体制にとって都合の悪い宗教でもあるけれど、その一方で、キリスト教も異教徒の世界に布教という形で入り込んで、そこを支配しようとしたという歴史がある。また、この映画に描かれる拷問はキリスト教が行った魔女狩りに通じるものがあって、魔女狩りの場合は魔女だと白状するまで拷問し、白状すると死刑にする。
幕府がやってることを、キリスト教もやっていたという歴史がある。
日本の信者は貧しいから来世に希望を抱いて、それでキリスト教徒になったようにも見えるし、だから棄教するより死んで天国に行った方がいいと思っているようにも見えるけれど、後半は信者は棄教しているのに宣教師を棄教させるために信者を殺すような展開になっていて、日本の信者はちょっと置いてけぼりな感も?
その中でキチジローという男だけは、信仰を勝手に捨てるくせにまた宣教師に頼るという、信者の中では一番複雑な人物。
いろいろ考えさせられますが、まずは原作を読んで、できれば篠田監督の古い映画化も見てみたいです。
試写もぼちぼち見ていて、「ライオン 25年目のただいま」と「僕とカミンスキーの旅」が面白かったです。どちらも良作。「ライオン」のタイトルは***の○○だろうと思っていましたが、そのとおりでした(最後にわかります)。
「沈黙」についての追記(1月31日)
出演者の中では個人的には通辞を演じた浅野忠信が一番印象に残った。この役はもともと渡辺謙が配役されていたが、撮影開始が遅れたために出られなくなり、浅野にかわったと知って、いろいろと思うところがあった。
もしも渡辺だったら、この映画はもっと欧米的な作品になっただろう。宣教師と通辞の対決が今より欧米的な対決になったに違いないからだ。
渡辺謙は三船敏郎と同じく、非常に欧米的な個性の俳優で、だから2人とも欧米でスターになったのだが、浅野の演じる通辞は非常に日本的というか、剛の渡辺に対して柔の浅野という雰囲気が明らかにある。通辞が棄教を促すシーンが日本的な建前と本音と私が感じたのは、やはり通辞が浅野だからで、渡辺ではおそらく違っていただろう。
虫の声と同じく、浅野は日本そのものを体現していて、だから、この映画で一番際立っていると私は感じた。
しかし、欧米人には浅野のような演技よりもイッセー尾形のような演技の方が理解しやすいのだろう。だから尾形の方が評価されているのだと感じる。渡辺謙も尾形のような演技をしただろうから、もしも渡辺が通辞だったら同じタイプが2人になったことになる。しかし、浅野にかわったことで、2人が違うタイプになったのだ。
浅野は役によって印象が異なるので、今回は日本的な柔を表現するという演技設計で臨んだのだろう。みごとである。表向きは柔でありながらやることは冷酷という対比もすごい。キネ旬の浅野のインタビューを読むとさらに納得。
「硫黄島からの手紙」は全編日本人が日本語で演じているにもかかわらず、その感触はきわめて欧米的だった(そして主演は渡辺謙)。そのせいか、アメリカでは「父親たちの星条旗」より「硫黄島~」の方が高い評価を得ているのに、日本では逆だった(私は「硫黄島~」の方を高く評価している)。
スコセッシの「沈黙」は通辞に浅野を配したことで「硫黄島~」よりも日本に近づいたのではないか。八百万の神{自然)の虫の声とキリスト教の神の沈黙を対比させるなど、本質はやはり欧米的なのだが、それでも日本の精神を理解し、近づこうとし、実際にかなり近づいた作品だと思う。