2017年2月16日木曜日

「マリアンヌ」&「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」

水曜日はシネコンでハシゴ。
ティム・バートンの「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」とロバート・ゼメキスの「マリアンヌ」。
どちらも本国で評判芳しくなく、この2名の監督も昔の名前になってしまった感があるので、わざわざ見に行くほどかなあ、スルーしようかなあ、と思ったけれど、題材的に興味があったので見に行った。偶然だが、どちらも第二次大戦中の話で、「ペレグリン」が1943年、「マリアンヌ」が1942年。どちらも空襲が出てくる。
「ペレグリン」の方を先に見たのだけど、言いたいことの多い「マリアンヌ」から。

「白い帽子の女」に続くブラッド・ピット主演のメロドラマかと思いきや、昔なつかしいスパイ・サスペンスであった。どうりでレディスデーなのにガラガラで、女性を中心に10人くらいしか客がいなかったわけだ。女性向けのラブストーリーみたいに売っていたけれど、これは女性向けとは言えない。
もちろん、ラブストーリーでもあるのだが、たとえば、「カサブランカ」が女性向けのラブストーリーかと言ったら、それは違う。
物語は第二次大戦中のモロッコ、カサブランカから始まるが、「カサブランカ」には特に似てるところはない。それより驚いたのは、舞台がイギリスに移ってから、ピットがベッドに横たわりながらグレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」を読んでいるシーンがあったことだ。
つい最近、図書館からグリーンの本を3冊借りてきて、高校大学以来久々にグリーンを読んでいる、とここにも書いたけれど、その借りてきた3冊は「密使」(1939年)、「恐怖省」(1943年)、そして「第三の男」などが収録された本。「密使」は1930年代のファシズムの台頭、特にスペイン内戦を想起させるスパイもので、ラストはちょっと「カサブランカ」に似ていたが、映画よりこの小説の方が早い。「恐怖省」はまさに第二次大戦中のイギリスの話。そして映画のために書かれた「第三の男」は終戦直後。ピットが読んでいた「ブライトン・ロック」は未読だけど(今度借りてこよう)、この系列の作品ではないと思うが、それでもグリーンの小説を映画の中に登場させたのは、この映画が「密使」や「恐怖省」のようなグレアム・グリーン的サスペンスをめざしたということではないかと思う。
実際、上にあげたグリーンの3作は、どれも男女の愛が重要なモチーフになっている。特に「密使」と「恐怖省」の主人公と妻の関係は(これ以上書くとネタバレになるので自粛)。
というわけで、グリーンを借りたのは運命だったのか、と驚いたのだが、しかし、映画は、困った。
「ペレグリン」もそうなのだけど、最近は上映時間が2時間10分以上の映画が多い。そして、「マリアンヌ」も「ペレグリン」もその分、無駄が多く、冗漫になっている。
「マリアンヌ」の場合、それは冒頭のモロッコのエピソードだ。
ここで大使暗殺の任務についた男女が恋に落ち、任務のあと結婚となるのだが、結婚したあとに妻にスパイ容疑がかかる、という内容が宣伝で拡散されているから、この任務で2人が死なないとわかっているのだが、にもかかわらず、無駄にハラハラドキドキのサスペンスを何度も入れているのだ。最初にドカンと派手なシーンを入れたいのはわかるが、もっと簡潔にやるべきだった。
暗殺のシーンで赤い服の女性がマリアンヌを驚いたように見るシーンは伏線になっていて効果的だし、マリアンヌがカナダ人のマックス(ピット)をケベコワ(ケベック人)と呼ぶのはラストに生きるのだけど、とにかくこのエピソードが無駄な部分が多い。
ケベコワというのはカナダのフランス語圏であるケベック州の住民のことだが、マックスはマリアンヌに自分はオンタリオの出身だと言う。オンタリオ州はトロントやオタワのある州で、もちろん英語圏だが、実はオタワにはフランス系住民の住む地域があるそうで、そこの住民はフランス語と英語のバイリンガルになるようだ。おそらくマックスはオンタリオ州のフランス系で、それで英語とフランス語が話せるのだろう。でも、こういうのがわかっても別に映画が面白くならないのがなんとも。
で、本題はイギリスに移ってからなのだけど、そこからもあまり盛り上がらない。というか、感動させようとしてるのに全然感動できない。
なぜかというと、マリアンヌがどういう女性なのか、最後までわからないからだ。
マックスを愛していることはわかる。マックスとの間に生まれた娘を愛していることもわかる。が、それ以外は何もわからないというか、肝心な人物造型をきちんとやっていないのだ。
マックスの方も、カナダのオンタリオ州出身で英語とフランス語のバイリンガルだということはわかるが、それ以外のことは何もわからない。マリアンヌと娘を愛していることしかわからない。
マックスは行動し、苦悩しているからまだいいのだが、マリアンヌの方はもう、マリオン・コティヤールの表情演技だけでようやくキャラになっているというか、コティヤール様様なのだ。
というわけで、脚本から練り直して来い、と言いたい映画なのである。
追記 次の記事「2月22日は猫の日」で物語の欠陥について書きました。

「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」も無駄に長いところが多い。
まず、ペレグリンの屋敷に行くまでが長い。
最後の戦いが長い。いろいろ工夫して戦っているが、1つ1つの戦いはさほど面白くなく、だらだらと長い。
ティム・バートンの映画はだいぶ前から見限っているので、それほどがっかりはしないのだけど、この映画では「シザーハンズ」のモチーフが出てくるのが気になった。
たとえば、黒髪で黒い衣装のミス・ペレグリンは明らかにエドワード・シザーハンズの末裔である。
彼女の屋敷はエドワードの住んでいたお城にそっくりだし、そこで人造人間の製造をしているのも「シザーハンズ」をグロテスクにしたよう。
1943年の9月3日を毎日繰り返すループの中のこどもたちは年をとらないが、ループの外に出た人は年をとり、結婚し、子供や孫ができる、というのは「シザーハンズ」の年をとらないエドワードと、外の世界で年をとり、孫に物語を聞かせるキムと同じだ。
ペレグリンは人を殺すこともあると言われるが、エドワードも最後に、正当防衛的ではあるが、殺人を犯す。
違うのは、ペレグリンは自信に満ちた保護者であり、エドワードのような悲しい目をしていないことだ。また、異能者であるこどもたちもエドワードのような悲しい目をしていない。ハサミの手ゆえに人気者になり、誤解されて迫害されるエドワードとは違い、自分の能力を使いこなしていて悩まない。
ティム・バートンがエドワードの悲しい目を年とともに失ったのはわかっていた。ただ、ジョニー・デップが出ていると、エドワードの記憶がよみがえって、まだ残っているような錯覚に陥っていたような気がする。クライマックスでペレグリンが表舞台から姿を消し、闘いがこどもたちに託されたとき、エドワードの悲しい目はとっくにバートンには無縁になっているんだと思い知る。バートン自身が異能の人ではなくなっていたのだ。
この映画はタイムスリップもので、「君の名は。」と同じく、主人公は好きな女の子のために戦い、過去を変えさえもする。同じようなパターンで、この映画の方が複雑な設定だけど、「君の名は。」の方が素直に感動できるよなあ。