前から行ってみたいと思っていた谷津干潟。最寄駅は南船橋で、駅前にはイケアもあるので行こう行こうと思いつつなかなかチャンスがなかったのですが、トーホーシネマららぽーと船橋の「空海」インターナショナル版が金曜から夕方からの上映になったので、映画の前に谷津干潟とイケアへ行こうと昼過ぎに出発。
南船橋は直通運転の電車に乗れば早いのだけど、本数が少ないのがネックでしたが、時刻表を調べて出かけました。
谷津干潟は住宅街の真ん中にある四角い干潟で、ここだけなんとか残そうとしたのだけど、ラムサール条約に登録するために工事をしたら鳥が激減してしまったのだとか。登録しない方がよかったのだろうか。
南船橋の駅から歩道橋を渡って、干潟沿いの道をえんえんと歩いていくと、観察センターにたどり着きます。途中は桜が満開できれいでした。
こちらは南船橋駅近くの歩道橋から。上の写真の地図の一番左側のあたり。四角い干潟のまわりに集合住宅が建っているのがわかる。
途中でカモやサギなどの鳥が見られます。
野鳥を観察できる場所から。観察センターの建物は入館料が必要ですが、外から見るとさびれた感じでした(入っていない)。
最初の写真の場所を通ってさらに進みます。シラサギやカモメがいる。
南船橋駅から一番遠い場所。ぐるっとまわって駅に帰ります。
カモメ。今のカメラになってから鳥が飛ぶところが撮れるようになった。
シラサギが立っている様子から、水が浅いことがわかります。
「妖猫傳」を見に行く私の前に現れた猫2匹。
木道は公開されていなかった。入れる日にまた来たい。遠くにイケア。
最初の歩道橋から。遠くの右の建物は船橋競馬場、その左がららぽーとトーキョーベイ。
干潟をちょっと見て、そのあとはイケアを見ようと思っていたのだけど、ぐるっと一回りしたのでイケアを見る時間がなくなった。このままららぽーとへ行けば近いのだけど、少しだけでもイケアを見ようと、線路の反対側へ。
ららぽーとが船橋からトーキョーベイに名前を変えたので、イケアもトーキョーベイに変更。船橋競馬場は船橋のままです。トーホーシネマズもららぽーと船橋のまま。
イケアの中に入ったら、いつも行く新三郷のイケアとまったく同じ造りだった。これじゃどこのイケアに行っても同じだな、と思う。ただ、新三郷のビストロは椅子が少なく、立ち食いを余儀なくされるのだけど、ここのビストロは椅子もテーブルも多くて、座ってソフトクリームを食べられた。
おまけにカタログをもらうことができた。イケアの中のソファで撮影。
このあとららぽーとへ行き、フードコートで豚丼を食べてトーホーシネマズへ。
「空海」はインターナショナル版になってからお客さんの平均年齢がかなり下がり、女性が増え(今回はほとんど女性だった)、上映前に客席から中国語が聞こえるようになった。吹替えだけでは日本に住む中国人の客を逃す、ということはファンの間でも言われていました。
吹替えも入れると7回目、インターナショナル版は3回目ですが、ここ、便利だから毎日でも来たいくらい(それは無理だけど)。ネットを見ても、この映画にはまっていて熱く語る人がそこそこいるので、ファンを夢中にさせる映画であることは間違いありません。
せりふに頼っているという批判もありますが、映像も豪華絢爛だし、猫さんかわいいし、で、いいじゃないですか、そんなこと。中国語音声になってからほんと違和感がまったくなくなって、さらにはまっています。
「空海」を見たシネコンはここが5カ所目ですが、今回は今までで一番音響がよかった気がします。
2018年3月31日土曜日
2018年3月29日木曜日
「ザ・スクエア 思いやりの聖域」
郊外に転居してから試写室が遠くなり、行くのがおっくうになることが多くなった。
カンヌ映画祭パルムドールの「ザ・スクエア 思いやりの聖域」も、行くべきかどうか迷った。というのは、カンヌ映画祭で受賞した「ビガイルド」や「聖なる鹿殺し」がまあまあな出来で、映画祭の受賞の信頼度が私の中ではかなり崩れている。
そんなわけでこの映画もまだ試写があるからとなかなか行かず、ようやく最終日に行ったらやはり大混雑。運よく見られたけど、うーん、やっぱりまあまあな出来であった。
プレスシートに古市なんとかいう自称社会学者のマスコミ芸人の文章がはさまれていたが、高校生だってもっとまともな文章を書くだろうと思う。こういうのがあると余計映画の印象が悪くなる。
映画の内容は、美術館の参加型アートを企画するキュレーター、クリスティアンが美術館の前庭に四角いスペースを作り、そこを「信頼と思いやりの聖域」として、そこに入る人は誰でも平等に権利と義務を持ち、そこにいる人が助けを求めたら助けないといけない、と規定する。
過去に実際にそういうアートが展示されたことがあるそうだ。
映画ではこの四角いスペースの展示自体はあまり出てこない。むしろ、信頼と思いやりの聖域などと言いながら、実生活ではスマホと財布を盗んだ人物の居場所が貧しい移民の集合住宅であることをつきとめ、すべての部屋のポストに脅迫状を入れてスマホと財布を取り戻すとか、モラルも何もない非常識な男。普通は警察に連絡してなんとかするもんだろう。しかも脅迫状を出そうと提案した部下と変なノリで脅迫状を始め、あとになってどっちが投函しに行くかでもめたりとか、大人のやることか、って感じ。案の定、無実の少年が脅迫状で被害を受けたと抗議しにくるが、それに対する対応も全然モラルがない。
クリスティアンは後半になって良心に目覚め、少年に謝罪しようとするのだが、その集合住宅に行ってみると、というのが結末(ネタバレはなし)。
その間、アートの広告係が「思いやりの聖域」を宣伝するためにテーマとは全く逆の映像を作り、それをYouTubeに流して大問題になったり、クリスティアンはパーティでゴリラのまねをする男が傍若無人にふるまうような演出をしたり、と、アートにおける表現の自由なのかやりすぎなのかというテーマが描かれる。
広告係が作った映像は物乞いの少女と猫がその聖域の中で爆死するというショッキングなもので、人目を引くためには何でもするということを表しているのだが、ちょっと荒唐無稽で現実味がないし、このエピソードも発展しないで終わってしまう。むしろ、最近日本で問題になっている非常識なCMの方がメディアの怖さを感じるのだが、日本の場合は世界から見たら非常識すぎてネタにもならないのだろう。
パーティでゴリラのまねをする男のエピソードはクリスティアンが途中で終わりにしようとしてもだめで、ついには男が女性をレイプしようとして、止めに入った男たちが男に暴力をふるうという結果になる。が、これもその後どうなったかは何もなし。アートだと思って我慢していた客たちが突然暴力をふるう、という点がちょっと面白い程度。
その前に、講演会でおかしな客が悪口や卑猥な言葉を投げつけるが、これも制止するどころか、病気なので我慢してくれというふうになるというエピソードもあり、これとゴリラ男のエピソードがつながると言えばつながる。どこまで行儀よく我慢するかというテーマだ。
映画では物乞いをする人々があちこちにいる様子が描かれる。彼らは助けを求めているのだが、クリスティアンは無視することが多い(たまには何かしてやるが)。「思いやりの聖域」などないこと、助けを求める人がいてもたいていは無視することが描かれていると言える。
そうした中で、「思いやりの聖域」などというアートを展示することの偽善性が描かれているのだろうが、そもそも、四角いスペースの中では人助けしなければいけないということは、その外では助けなくていいということでもある。電車に優先席ができたら、それ以外の席は譲らなくていいようになった、という批判がかつてあったのを思い出した(当時はまだ優先席は優先席だったのだが、現在は優先席自体が優先席でなくなっている)。
とまあ、こういった内容の映画なのだが、見ている間、最近日本で起こったアートをめぐる2つの事件が頭を離れなかった。
1つは、どこかの工業大学の学生が作った木造のジャングルジムのアートで幼い子供が焼死したこと。子供が遊べる参加型のアートで、おがくずがまかれ、そこに強いライトを照らしたので火がつき、あっという間に燃えて、中にいた子供が亡くなったという悲惨な事故だ。
もう1つは、ある団体が企画したブラックボックスのアートで、参加者は1000円を払って中に入るが、そこはただの真っ暗な部屋。参加者はアートの展示中はほんとうのこと(中は真っ暗なだけ)を言わないこと、嘘はいくらついてもいい、という誓約書にサインさせられる。しかも、来た人全員が中に入れるのではなく、黒人男性が選別することになっていて、カップルだと男ははじかれ、女だけ入るとか、体育会系の男性グループは全員はじかれた、明らかに女を優先的に入れている、といった情報があった。そして、その暗い部屋の中で女性が痴漢にあうということが頻発し、警察沙汰にもなりかけた。
このほか、アートの展示の中でデリヘル嬢を呼ぶ、という企画が大きな批判を浴びて中止になったこともあった(デリヘル嬢はアートとは知らずに呼ばれるのだ)。
こんなふうに参加型のアートのいかがわしい事件をいくつか目にしていたので、この映画を見てもあまり衝撃的ではなかったというのが本当のところだ。むしろ、現実の方がずっと進んでいるように思えた。
もともとモラルのないいかがわしい男であるクリスティアンが、最後の最後になって良心に目覚める、そこが肝なのだと思うが、それまでのアートの表現の自由だの、思いやりだののテーマがどうにも上滑りしているようにしか思えなかった。
カンヌ映画祭パルムドールの「ザ・スクエア 思いやりの聖域」も、行くべきかどうか迷った。というのは、カンヌ映画祭で受賞した「ビガイルド」や「聖なる鹿殺し」がまあまあな出来で、映画祭の受賞の信頼度が私の中ではかなり崩れている。
そんなわけでこの映画もまだ試写があるからとなかなか行かず、ようやく最終日に行ったらやはり大混雑。運よく見られたけど、うーん、やっぱりまあまあな出来であった。
プレスシートに古市なんとかいう自称社会学者のマスコミ芸人の文章がはさまれていたが、高校生だってもっとまともな文章を書くだろうと思う。こういうのがあると余計映画の印象が悪くなる。
映画の内容は、美術館の参加型アートを企画するキュレーター、クリスティアンが美術館の前庭に四角いスペースを作り、そこを「信頼と思いやりの聖域」として、そこに入る人は誰でも平等に権利と義務を持ち、そこにいる人が助けを求めたら助けないといけない、と規定する。
過去に実際にそういうアートが展示されたことがあるそうだ。
映画ではこの四角いスペースの展示自体はあまり出てこない。むしろ、信頼と思いやりの聖域などと言いながら、実生活ではスマホと財布を盗んだ人物の居場所が貧しい移民の集合住宅であることをつきとめ、すべての部屋のポストに脅迫状を入れてスマホと財布を取り戻すとか、モラルも何もない非常識な男。普通は警察に連絡してなんとかするもんだろう。しかも脅迫状を出そうと提案した部下と変なノリで脅迫状を始め、あとになってどっちが投函しに行くかでもめたりとか、大人のやることか、って感じ。案の定、無実の少年が脅迫状で被害を受けたと抗議しにくるが、それに対する対応も全然モラルがない。
クリスティアンは後半になって良心に目覚め、少年に謝罪しようとするのだが、その集合住宅に行ってみると、というのが結末(ネタバレはなし)。
その間、アートの広告係が「思いやりの聖域」を宣伝するためにテーマとは全く逆の映像を作り、それをYouTubeに流して大問題になったり、クリスティアンはパーティでゴリラのまねをする男が傍若無人にふるまうような演出をしたり、と、アートにおける表現の自由なのかやりすぎなのかというテーマが描かれる。
広告係が作った映像は物乞いの少女と猫がその聖域の中で爆死するというショッキングなもので、人目を引くためには何でもするということを表しているのだが、ちょっと荒唐無稽で現実味がないし、このエピソードも発展しないで終わってしまう。むしろ、最近日本で問題になっている非常識なCMの方がメディアの怖さを感じるのだが、日本の場合は世界から見たら非常識すぎてネタにもならないのだろう。
パーティでゴリラのまねをする男のエピソードはクリスティアンが途中で終わりにしようとしてもだめで、ついには男が女性をレイプしようとして、止めに入った男たちが男に暴力をふるうという結果になる。が、これもその後どうなったかは何もなし。アートだと思って我慢していた客たちが突然暴力をふるう、という点がちょっと面白い程度。
その前に、講演会でおかしな客が悪口や卑猥な言葉を投げつけるが、これも制止するどころか、病気なので我慢してくれというふうになるというエピソードもあり、これとゴリラ男のエピソードがつながると言えばつながる。どこまで行儀よく我慢するかというテーマだ。
映画では物乞いをする人々があちこちにいる様子が描かれる。彼らは助けを求めているのだが、クリスティアンは無視することが多い(たまには何かしてやるが)。「思いやりの聖域」などないこと、助けを求める人がいてもたいていは無視することが描かれていると言える。
そうした中で、「思いやりの聖域」などというアートを展示することの偽善性が描かれているのだろうが、そもそも、四角いスペースの中では人助けしなければいけないということは、その外では助けなくていいということでもある。電車に優先席ができたら、それ以外の席は譲らなくていいようになった、という批判がかつてあったのを思い出した(当時はまだ優先席は優先席だったのだが、現在は優先席自体が優先席でなくなっている)。
とまあ、こういった内容の映画なのだが、見ている間、最近日本で起こったアートをめぐる2つの事件が頭を離れなかった。
1つは、どこかの工業大学の学生が作った木造のジャングルジムのアートで幼い子供が焼死したこと。子供が遊べる参加型のアートで、おがくずがまかれ、そこに強いライトを照らしたので火がつき、あっという間に燃えて、中にいた子供が亡くなったという悲惨な事故だ。
もう1つは、ある団体が企画したブラックボックスのアートで、参加者は1000円を払って中に入るが、そこはただの真っ暗な部屋。参加者はアートの展示中はほんとうのこと(中は真っ暗なだけ)を言わないこと、嘘はいくらついてもいい、という誓約書にサインさせられる。しかも、来た人全員が中に入れるのではなく、黒人男性が選別することになっていて、カップルだと男ははじかれ、女だけ入るとか、体育会系の男性グループは全員はじかれた、明らかに女を優先的に入れている、といった情報があった。そして、その暗い部屋の中で女性が痴漢にあうということが頻発し、警察沙汰にもなりかけた。
このほか、アートの展示の中でデリヘル嬢を呼ぶ、という企画が大きな批判を浴びて中止になったこともあった(デリヘル嬢はアートとは知らずに呼ばれるのだ)。
こんなふうに参加型のアートのいかがわしい事件をいくつか目にしていたので、この映画を見てもあまり衝撃的ではなかったというのが本当のところだ。むしろ、現実の方がずっと進んでいるように思えた。
もともとモラルのないいかがわしい男であるクリスティアンが、最後の最後になって良心に目覚める、そこが肝なのだと思うが、それまでのアートの表現の自由だの、思いやりだののテーマがどうにも上滑りしているようにしか思えなかった。
2018年3月25日日曜日
2日連続「空海」インターナショナル版
昨日に続き、今日もさいたま新都心へ「空海」インターナショナル版を見に行ってしまった。
昨日は字幕の訳が吹替えと同じなところが多く、中国語を聞きながら頭の中で吹替えの日本語が響いてくるというハイブリッドな鑑賞になっていた上、そのあとに見た「リメンバー・ミー」がハンパないガッカリ度だったので、欲求不満が残り、今朝は早くから目が覚めて二度寝ができない。
さいたま新都心はとにかく電車賃が高い。時間的には六本木や新宿よりやや近いのだが、電車賃は片道200円くらい高いと思う(全部JRだから)。しかし、休日に六本木へ行くのはためらわれるし、さいたま新都心ならMOVIXの6回見たら1回タダが使える。そういやトーホーの6回見たら1回タダも「空海」吹替え版を見たのだけど、これじゃ興収や動員に貢献できないなあ、と思いつつ、インターナショナル版をタダで見る。
昨日はちょっと前すぎたので少し後ろにしたら自分的にとてもよい位置だった。
昨日のように日本語吹替えの声が頭によみがえることもほとんどなく、ようやく吹替え版がリセットされて中国語版を楽しめた。音響もこの前は前すぎてよくなかったな。
昨日ほどではないけど今日もけっこう入っていた。
都内はトーホー新宿が昨日は夜の部が完売したようだけど、今日は夜の部がなく朝だけという、トーホー、おまえ、この映画に何か恨みでもあんのか?と思ってしまう。首都圏のトーホーはレイトだけだったり朝と昼だけだったり、かろうじて新宿が平日の夜に見られるといったひどい扱いで、トーホーじゃないMOVIXが土日に都合のよい午後の部になっているという。都心はシャンテシネあたりで終日上映すべきなのではないか。(追記参照)
この映画は「君の名は。」と同じで、見れば見るほど新しい発見があり、画面をくまなく見てしまい、一見荒唐無稽に見えながら実は非常に緻密に構成された脚本で、見れば見るほど奥深さがわかるという映画なのだ。
最後の「マウンテン・トップ」の歌も「君の名は。」の最後の「なんでもないや」と似た感じで、チェン・カイコー、「君の名は。」を見たのかな、と思ったり(RADWIMPSを推薦したのは角川側だろうけど)。
この歌はやはり日本から旅してきた空海のことをまず第一に歌っていると思うが、この映画には孤独な人物が何人もいて、空海も白楽天も白龍も丹龍も楊貴妃も阿倍仲麻呂もある意味、孤独を抱えた人物で、彼らがいろいろな意味で山の頂をめざすというふうにもとれる。
空海が楊貴妃の生と死から密教の教えを学んだと最後に述べるけれど、実は途中の日本での師匠とのシーンで、師匠が「生と死を超える教えを唐から持ち帰れ」と言っている。そこからつながっていたのだ。だから、空海が最後に寺に招き入れられるのは、彼がその教えを悟ったと丹龍がわかったからで、丹龍は最初から空海を見守っていたことになる。
その丹龍が、白龍に「おまえには俺しかいない」みたいなことを言うのは、身寄りのない白龍を義理の弟して見守ってきた丹龍の思いであって、しかし、白龍は自分には楊貴妃がいると言ってしまう。この男と男と女の関係は(空海と白楽天と楊貴妃もだけど)、「さらば、わが愛」と似た構図で、ただ、同性愛がここにはまったくないのと、男を見守る男の方が大人で、白龍と白楽天はまだ青いというか、白楽天がかわいいという意見がネットにけっこうあるけど、ほんとにそうだ。
黄鶴が白龍を親に金を払って引き取ったのは白龍に妖術師としての強いパワーがあると感じたからだろう。
この映画、男が目をうるうるさせたり涙を流したりするシーンが多くて、女は逆に毅然としている。また、殺される女はすべて絞殺。
最初の日本独自の歴史解説はあってもまあいいんだけど、ナレーションにかぶせて歌を流すのはRADWIMPSに対して失礼な感じがする(吹替え版のシーンで流すのも同様)。ずっと中国語、時々少し日本語で、最後に中国語でも日本語でもない英語の歌が出てくれば効果的だけど、英語の歌はそれ以外流すべきではないと思った。この「シェイプ・オブ・ミラクル」は映画にはないイメージソングとして別に売った方がよかった。
あと、映像や音響の技術面は日本が主導でやったみたいだけど、猫のCGはGJだと思う。最後は同情させないといけないからかわいさは最初から表現しないといけないけれど、化け猫だからかわいすぎてもいけない。その辺がすごくうまくできている。猫らしくない動きもあるけど、元は人間だからいいんだし、涙を腕でぬぐう動作、あそこが泣けるんだから。
「ルドルフとイッパイアッテナ」のかわいいけど不自然な黒猫に比べても非常によい出来だと思う。
吹替え版4回見たからインターナショナル版も4回以上見ようと思い始めたけど、いつまでやっているのか、来週以降、今よりひどい時間帯になってしまうのか、いろいろ心配。もう、交通費とか気にせず、都合のいい時間のところへ行かねば。つか、字幕版やってほしかった人は片道2時間かかっても、新幹線に乗っても見なければいかん。そうでないと、やっぱり字幕版は需要がないと思われてしまう。
追記 そういえば、「君の名は。」がロングランしていたときも東宝の映画だから他の映画に影響が出ないようにと東宝系ではあまりよい時間に上映されず、MOVIXの方が「君の名は。」を優遇していたようなところがあった。「空海」も東宝だからそれがあるのかもしれないけど。
昨日は字幕の訳が吹替えと同じなところが多く、中国語を聞きながら頭の中で吹替えの日本語が響いてくるというハイブリッドな鑑賞になっていた上、そのあとに見た「リメンバー・ミー」がハンパないガッカリ度だったので、欲求不満が残り、今朝は早くから目が覚めて二度寝ができない。
さいたま新都心はとにかく電車賃が高い。時間的には六本木や新宿よりやや近いのだが、電車賃は片道200円くらい高いと思う(全部JRだから)。しかし、休日に六本木へ行くのはためらわれるし、さいたま新都心ならMOVIXの6回見たら1回タダが使える。そういやトーホーの6回見たら1回タダも「空海」吹替え版を見たのだけど、これじゃ興収や動員に貢献できないなあ、と思いつつ、インターナショナル版をタダで見る。
昨日はちょっと前すぎたので少し後ろにしたら自分的にとてもよい位置だった。
昨日のように日本語吹替えの声が頭によみがえることもほとんどなく、ようやく吹替え版がリセットされて中国語版を楽しめた。音響もこの前は前すぎてよくなかったな。
昨日ほどではないけど今日もけっこう入っていた。
都内はトーホー新宿が昨日は夜の部が完売したようだけど、今日は夜の部がなく朝だけという、トーホー、おまえ、この映画に何か恨みでもあんのか?と思ってしまう。首都圏のトーホーはレイトだけだったり朝と昼だけだったり、かろうじて新宿が平日の夜に見られるといったひどい扱いで、トーホーじゃないMOVIXが土日に都合のよい午後の部になっているという。都心はシャンテシネあたりで終日上映すべきなのではないか。(追記参照)
この映画は「君の名は。」と同じで、見れば見るほど新しい発見があり、画面をくまなく見てしまい、一見荒唐無稽に見えながら実は非常に緻密に構成された脚本で、見れば見るほど奥深さがわかるという映画なのだ。
最後の「マウンテン・トップ」の歌も「君の名は。」の最後の「なんでもないや」と似た感じで、チェン・カイコー、「君の名は。」を見たのかな、と思ったり(RADWIMPSを推薦したのは角川側だろうけど)。
この歌はやはり日本から旅してきた空海のことをまず第一に歌っていると思うが、この映画には孤独な人物が何人もいて、空海も白楽天も白龍も丹龍も楊貴妃も阿倍仲麻呂もある意味、孤独を抱えた人物で、彼らがいろいろな意味で山の頂をめざすというふうにもとれる。
空海が楊貴妃の生と死から密教の教えを学んだと最後に述べるけれど、実は途中の日本での師匠とのシーンで、師匠が「生と死を超える教えを唐から持ち帰れ」と言っている。そこからつながっていたのだ。だから、空海が最後に寺に招き入れられるのは、彼がその教えを悟ったと丹龍がわかったからで、丹龍は最初から空海を見守っていたことになる。
その丹龍が、白龍に「おまえには俺しかいない」みたいなことを言うのは、身寄りのない白龍を義理の弟して見守ってきた丹龍の思いであって、しかし、白龍は自分には楊貴妃がいると言ってしまう。この男と男と女の関係は(空海と白楽天と楊貴妃もだけど)、「さらば、わが愛」と似た構図で、ただ、同性愛がここにはまったくないのと、男を見守る男の方が大人で、白龍と白楽天はまだ青いというか、白楽天がかわいいという意見がネットにけっこうあるけど、ほんとにそうだ。
黄鶴が白龍を親に金を払って引き取ったのは白龍に妖術師としての強いパワーがあると感じたからだろう。
この映画、男が目をうるうるさせたり涙を流したりするシーンが多くて、女は逆に毅然としている。また、殺される女はすべて絞殺。
最初の日本独自の歴史解説はあってもまあいいんだけど、ナレーションにかぶせて歌を流すのはRADWIMPSに対して失礼な感じがする(吹替え版のシーンで流すのも同様)。ずっと中国語、時々少し日本語で、最後に中国語でも日本語でもない英語の歌が出てくれば効果的だけど、英語の歌はそれ以外流すべきではないと思った。この「シェイプ・オブ・ミラクル」は映画にはないイメージソングとして別に売った方がよかった。
あと、映像や音響の技術面は日本が主導でやったみたいだけど、猫のCGはGJだと思う。最後は同情させないといけないからかわいさは最初から表現しないといけないけれど、化け猫だからかわいすぎてもいけない。その辺がすごくうまくできている。猫らしくない動きもあるけど、元は人間だからいいんだし、涙を腕でぬぐう動作、あそこが泣けるんだから。
「ルドルフとイッパイアッテナ」のかわいいけど不自然な黒猫に比べても非常によい出来だと思う。
吹替え版4回見たからインターナショナル版も4回以上見ようと思い始めたけど、いつまでやっているのか、来週以降、今よりひどい時間帯になってしまうのか、いろいろ心配。もう、交通費とか気にせず、都合のいい時間のところへ行かねば。つか、字幕版やってほしかった人は片道2時間かかっても、新幹線に乗っても見なければいかん。そうでないと、やっぱり字幕版は需要がないと思われてしまう。
追記 そういえば、「君の名は。」がロングランしていたときも東宝の映画だから他の映画に影響が出ないようにと東宝系ではあまりよい時間に上映されず、MOVIXの方が「君の名は。」を優遇していたようなところがあった。「空海」も東宝だからそれがあるのかもしれないけど。
2018年3月24日土曜日
「空海」インターナショナル版
本日24日から公開の「空海」(妖怪猫傳)インターナショナル版(中国語音声日本語字幕)。もう楽しみで楽しみで、前の晩よく眠れなかった。
首都圏では一都三県6劇場で上映なのだが、六本木と新宿が1日2回、他は1日1回で、レイトショーだったり夜の部だったり午前中だったりとひどい時間割。なんかもう、劇場側が、今頃字幕とかやりやがって、と意地悪しているみたいな時間割なのだ。
結局、午後の時間で、駅のそばで、「リメンバー・ミー」字幕版とハシゴできるという理由で選んだのがさいたま新都心のMOVIXさいたま。1時間ちょっとで行けると思ったら1時間20分くらいかかり、交通費がバカ高い。レイトしかない近場のシネコンの3倍近い交通費。しかしレイトのシネコンだと帰りの電車がほとんどない状態なので、ここはあきらめるしかない。
というわけで、行ってきました、さいたま新都心。新都心っていうわりにはパッとしない雰囲気だった。
それはともかく。
インターナショナル版、おそらく日本語吹替え版の最初の歴史解説はそのまま入っているだろうと思ったら、そのとおりだった。
そして、それが終わると、メインタイトルは中国国内版と同じ、キャストが中国語で出てくる。こちらはホアン・シュアンが最初で次が染谷将太。松坂慶子の漢字が中国語になっているあたり、とても味がある。
キャストのメインタイトルが終わると、黒猫と春琴のプロローグ。ここで中国語のせりふが出てきて、中国語版を実感する。そのあとの空海の独白「なつかしい太鼓の響き」は中国版でも日本語だったが、これにかぶさるスタッフの文字が日本語になっていて、ここは残念。中国語で見たかった。
また、エンドロールも日本語吹替え版がそのまま使われていて、最後に翻訳と字幕の担当者の名前が出る。ここは中国版だともっと情報量が多く、中国のスポンサーのロゴもたくさん出てくる。主題歌「マウンテン・トップ」はどちらも同じで、これは空海と白居易のことにもとれるし、黒猫=白龍にもとれる。
楊貴妃と阿倍仲麻呂が語り合うシーンで、日本語吹替え版はRADWIMPSの挿入歌を入れてしまっているが、インターナショナル版ではこれはなし。かわりに他のシーンでも流れている曲が流れ、2人のせりふやナレーションに集中できる。吹替え版もここに歌を入れさえしなければよいのだが。2人の阿吽の呼吸みたいなのが歌でだいなし。インターナショナル版でやっと2人の心情が心にしみた。
字幕は急いだのか誤植が少しある。字幕の大部分は吹き替えとほぼ同じなのだが、一部に違っているところもあり、そういうところは字幕の方がよかった。ただ、黒猫の最後のせりふ「わかっていたよ、あきらめきれなかっただけだ」(吹替え)が字幕では「死んだのはわかっていた。あきらめきれなかっただけだ」となっているのは吹き替えの方がいい。黒猫の声優の演技がここはとてもよいのだが、字幕でも「死んだのは」を入れなくてもわかる。ちょっと余計な感じになってしまった。
丹龍が白龍に言う「おまえを理解しているのは俺だけだ」(吹替え)が字幕では「おまえには俺しかいない」になっていて、このあと白龍が「俺には貴妃様がいる」となるのは字幕の方が効果的な気がした。また、李白が楊貴妃に会ったあと、吹替えでは「俺の詠んだ詩のとおりの人だ」というようなせりふだが、字幕では李白が詠んだ詩をもう一度暗唱する。これは口の開きに合わせると吹き替えのようにせざるを得ないのだろう。これ以外にも字幕の方がよいと思うところがいくつかあった。
インターナショナル版は日本人俳優のせりふの多くが中国語吹替えなのだが、吹替えの技術を比べてみて、日本がかなり劣っていると思わざるを得なかった。空海が楊貴妃の棺に入ったあと、楽天の名を呼ぶのだが、中国語ではこのせりふがいかにも棺の中からの声になっていたが、日本語吹替え版ではそういう音作りがまるでなされておらず、ただ同じ音量で声を入れているだけだということがわかった。日本の吹替えの問題は俳優の演技よりはむしろ、音響効果をきちんとやっていないことではないかと思う。日本語吹替えではたまに聞き取れないせりふもあったが、こういうのも音響効果でなおせるのではないか。
今まで見た吹替え版4回はすべて大きなスクリーンで、美しい映像を堪能したが、今回は小さいスクリーンなので映像的には少し見劣りした。が、そのかわり音声的には文句なくすばらしかった。白楽天が「李白になれないのはわかっているが、長恨歌を偽りとは言わせない」と涙ながらに語るシーンは、ホアン・シュアンの声と映像の一体感がすごくて、これは吹替えではだめ。染谷と松坂は自分の日本語と中国語吹替えがあるが、どちらも違和感ないのもすごい。口も声とよく合っている。阿部寛の吹替えは阿部が中国語しゃべったらこういう声だろうと思わせる声(毎回思うのだが、「空海」の前に「蚤取り侍」の予告は見たくない)。
あと2回は見に行きたいが、来週は少しは見やすい時間にしてくれるのだろうか。また、いつまでやっているのかも気になる。今日はお客さん、けっこう入っていたけれど。
内容についてはこれまでも何度も書いてきたけれど、この映画、主人公は空海、白楽天(白居易)、白龍、丹龍の4人なのだな、と思った。
ネットを見ていると、「楊貴妃は生きているのか死んでいるのか、死体はあるのかないのか、というのは弘法大師信仰につながるものだから、これは空海映画だ」という意見があった。確かに空海は楊貴妃の生と死に密教を感じ取ったと言っている。また、「白居易は鶴と関係が深かったから主役は白楽天」という意見もあった。私はプロローグのあとすぐに空海のアップとモノローグがあるので、どちらかというと空海の方が主役としてやや上かな、と思っているが、ラストは長恨歌についての悩みから解放されて昼寝する白楽天で、そのあと、楊貴妃に抱かれた黒猫の絵で終わる。空海と白楽天は対等の主役、で、本当の主役は猫=白龍ということにもなる。
ちなみに、空海と丹龍は仏の道に教えを見出そうとするという共通点があり、白楽天と白龍は楊貴妃を愛するという共通点がある。白楽天と白龍が世俗の愛という信仰にとらわれているのに対し、空海と丹龍は仏の道の信仰に生きる。世俗と仏門という違いはあるが、信仰であるという点では同じ。中国版ポスターでは空海の側に丹龍、白楽天の側に白龍がいるのはそれを表している。
また、空海が白楽天を見守るのに対し、丹龍が白龍を見守るという共通点もある。そして、丹龍は空海をも見守っていたことがわかるのだ。
「空海」のあとは「リメンバー・ミー」字幕版。この映画、あまり興味が持てず、近場では吹替えしかないのでスルーしようかと思っていたが、「空海」インターナショナル版とハシゴできるので見ることにした。
確かに絵はすばらしいし、音楽もいいが、内容は結局家族がだいじというテーマで深みも何もない。死者の国へ行って帰ってくるというのもこれまでの同種の映画に比べて軽い感じ。
併映がアナ雪外伝だったが、これも本編は家族がだいじというテーマのアニメで、外伝もその延長にあるが、あまり面白くない。「リメンバー・ミー」がわりと夏っぽいのに(日本のお盆ふう)これがクリスマスというのも季節感が変(それを3月に公開する日本)。
先日見た「アイ、トーニャ」で、トーニャ・ハーディングが審査員から「アメリカの幸福な家族を表現しないからだめ」と言われ、毒母に虐待されて育った彼女は「どこにそんな家族が」というが、世の中には毒親毒家族など家庭の問題を抱えた人が多いのに家族が一番というテーマを気安くやる風潮にも疑問を感じる。
あと、英語ではスペイン語式にエクトルと発音しているのに字幕はヘクターと英語読みなのも気になった。吹替えもヘクターなのかと思うと、やれやれ。
首都圏では一都三県6劇場で上映なのだが、六本木と新宿が1日2回、他は1日1回で、レイトショーだったり夜の部だったり午前中だったりとひどい時間割。なんかもう、劇場側が、今頃字幕とかやりやがって、と意地悪しているみたいな時間割なのだ。
結局、午後の時間で、駅のそばで、「リメンバー・ミー」字幕版とハシゴできるという理由で選んだのがさいたま新都心のMOVIXさいたま。1時間ちょっとで行けると思ったら1時間20分くらいかかり、交通費がバカ高い。レイトしかない近場のシネコンの3倍近い交通費。しかしレイトのシネコンだと帰りの電車がほとんどない状態なので、ここはあきらめるしかない。
というわけで、行ってきました、さいたま新都心。新都心っていうわりにはパッとしない雰囲気だった。
それはともかく。
インターナショナル版、おそらく日本語吹替え版の最初の歴史解説はそのまま入っているだろうと思ったら、そのとおりだった。
そして、それが終わると、メインタイトルは中国国内版と同じ、キャストが中国語で出てくる。こちらはホアン・シュアンが最初で次が染谷将太。松坂慶子の漢字が中国語になっているあたり、とても味がある。
キャストのメインタイトルが終わると、黒猫と春琴のプロローグ。ここで中国語のせりふが出てきて、中国語版を実感する。そのあとの空海の独白「なつかしい太鼓の響き」は中国版でも日本語だったが、これにかぶさるスタッフの文字が日本語になっていて、ここは残念。中国語で見たかった。
また、エンドロールも日本語吹替え版がそのまま使われていて、最後に翻訳と字幕の担当者の名前が出る。ここは中国版だともっと情報量が多く、中国のスポンサーのロゴもたくさん出てくる。主題歌「マウンテン・トップ」はどちらも同じで、これは空海と白居易のことにもとれるし、黒猫=白龍にもとれる。
楊貴妃と阿倍仲麻呂が語り合うシーンで、日本語吹替え版はRADWIMPSの挿入歌を入れてしまっているが、インターナショナル版ではこれはなし。かわりに他のシーンでも流れている曲が流れ、2人のせりふやナレーションに集中できる。吹替え版もここに歌を入れさえしなければよいのだが。2人の阿吽の呼吸みたいなのが歌でだいなし。インターナショナル版でやっと2人の心情が心にしみた。
字幕は急いだのか誤植が少しある。字幕の大部分は吹き替えとほぼ同じなのだが、一部に違っているところもあり、そういうところは字幕の方がよかった。ただ、黒猫の最後のせりふ「わかっていたよ、あきらめきれなかっただけだ」(吹替え)が字幕では「死んだのはわかっていた。あきらめきれなかっただけだ」となっているのは吹き替えの方がいい。黒猫の声優の演技がここはとてもよいのだが、字幕でも「死んだのは」を入れなくてもわかる。ちょっと余計な感じになってしまった。
丹龍が白龍に言う「おまえを理解しているのは俺だけだ」(吹替え)が字幕では「おまえには俺しかいない」になっていて、このあと白龍が「俺には貴妃様がいる」となるのは字幕の方が効果的な気がした。また、李白が楊貴妃に会ったあと、吹替えでは「俺の詠んだ詩のとおりの人だ」というようなせりふだが、字幕では李白が詠んだ詩をもう一度暗唱する。これは口の開きに合わせると吹き替えのようにせざるを得ないのだろう。これ以外にも字幕の方がよいと思うところがいくつかあった。
インターナショナル版は日本人俳優のせりふの多くが中国語吹替えなのだが、吹替えの技術を比べてみて、日本がかなり劣っていると思わざるを得なかった。空海が楊貴妃の棺に入ったあと、楽天の名を呼ぶのだが、中国語ではこのせりふがいかにも棺の中からの声になっていたが、日本語吹替え版ではそういう音作りがまるでなされておらず、ただ同じ音量で声を入れているだけだということがわかった。日本の吹替えの問題は俳優の演技よりはむしろ、音響効果をきちんとやっていないことではないかと思う。日本語吹替えではたまに聞き取れないせりふもあったが、こういうのも音響効果でなおせるのではないか。
今まで見た吹替え版4回はすべて大きなスクリーンで、美しい映像を堪能したが、今回は小さいスクリーンなので映像的には少し見劣りした。が、そのかわり音声的には文句なくすばらしかった。白楽天が「李白になれないのはわかっているが、長恨歌を偽りとは言わせない」と涙ながらに語るシーンは、ホアン・シュアンの声と映像の一体感がすごくて、これは吹替えではだめ。染谷と松坂は自分の日本語と中国語吹替えがあるが、どちらも違和感ないのもすごい。口も声とよく合っている。阿部寛の吹替えは阿部が中国語しゃべったらこういう声だろうと思わせる声(毎回思うのだが、「空海」の前に「蚤取り侍」の予告は見たくない)。
あと2回は見に行きたいが、来週は少しは見やすい時間にしてくれるのだろうか。また、いつまでやっているのかも気になる。今日はお客さん、けっこう入っていたけれど。
内容についてはこれまでも何度も書いてきたけれど、この映画、主人公は空海、白楽天(白居易)、白龍、丹龍の4人なのだな、と思った。
ネットを見ていると、「楊貴妃は生きているのか死んでいるのか、死体はあるのかないのか、というのは弘法大師信仰につながるものだから、これは空海映画だ」という意見があった。確かに空海は楊貴妃の生と死に密教を感じ取ったと言っている。また、「白居易は鶴と関係が深かったから主役は白楽天」という意見もあった。私はプロローグのあとすぐに空海のアップとモノローグがあるので、どちらかというと空海の方が主役としてやや上かな、と思っているが、ラストは長恨歌についての悩みから解放されて昼寝する白楽天で、そのあと、楊貴妃に抱かれた黒猫の絵で終わる。空海と白楽天は対等の主役、で、本当の主役は猫=白龍ということにもなる。
ちなみに、空海と丹龍は仏の道に教えを見出そうとするという共通点があり、白楽天と白龍は楊貴妃を愛するという共通点がある。白楽天と白龍が世俗の愛という信仰にとらわれているのに対し、空海と丹龍は仏の道の信仰に生きる。世俗と仏門という違いはあるが、信仰であるという点では同じ。中国版ポスターでは空海の側に丹龍、白楽天の側に白龍がいるのはそれを表している。
また、空海が白楽天を見守るのに対し、丹龍が白龍を見守るという共通点もある。そして、丹龍は空海をも見守っていたことがわかるのだ。
「空海」のあとは「リメンバー・ミー」字幕版。この映画、あまり興味が持てず、近場では吹替えしかないのでスルーしようかと思っていたが、「空海」インターナショナル版とハシゴできるので見ることにした。
確かに絵はすばらしいし、音楽もいいが、内容は結局家族がだいじというテーマで深みも何もない。死者の国へ行って帰ってくるというのもこれまでの同種の映画に比べて軽い感じ。
併映がアナ雪外伝だったが、これも本編は家族がだいじというテーマのアニメで、外伝もその延長にあるが、あまり面白くない。「リメンバー・ミー」がわりと夏っぽいのに(日本のお盆ふう)これがクリスマスというのも季節感が変(それを3月に公開する日本)。
先日見た「アイ、トーニャ」で、トーニャ・ハーディングが審査員から「アメリカの幸福な家族を表現しないからだめ」と言われ、毒母に虐待されて育った彼女は「どこにそんな家族が」というが、世の中には毒親毒家族など家庭の問題を抱えた人が多いのに家族が一番というテーマを気安くやる風潮にも疑問を感じる。
あと、英語ではスペイン語式にエクトルと発音しているのに字幕はヘクターと英語読みなのも気になった。吹替えもヘクターなのかと思うと、やれやれ。
2018年3月23日金曜日
トーニャ・ハーディングの映画
トーニャ・ハーディングを描く映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」の試写に行くために、久々に千代田線に乗ったら、二重橋前の駅名に(丸の内)という副題がついていた。
千代田線は以前から明治神宮前に(原宿)という副題をつけていたが、ここは原宿への乗換駅なので別に違和感はなかった。半蔵門線の押上には(スカイツリー前)という副題がついているけれど、これもスカイツリーへ行くお客さんの便宜のためだろうと思っていた。
しかし、丸の内って、いったい、なぜ?
そもそも明治神宮前とか二重橋前とか、何かの前っていう名前がバス停みたいではあったのだが、それでもかつては明治神宮や二重橋はそれなりに知名度があったのだろう。が、いまや知名度は原宿や丸の内が上なのか?
原宿はまだわかりますが、丸の内って、どうよ?
それはともかく、「アイ、トーニャ」の試写を見た。
トーニャ・ハーディングがなぜ今映画に、という疑問があるが、出演者の好演もあってアカデミー賞にノミネートされ、助演女優賞受賞。「ウィンストン・チャーチル」もそうだったが、有名人の映画は人気があるのか試写室は混んでいた。
マーゴット・ロビー演じるトーニャは私の記憶にあるトーニャとはかなり違って、鋭い表情をしたきつい女性だった。
私の記憶にあるトーニャはもっとかわいい顔の女性で、そのかわいい顔でいろいろ同情を引いたりして立ち回ってきたのだろうと思うタイプだった。
映画の最後に登場する本物のトーニャ(記録フィルム)は記憶どおりの表情をしている。
トーニャ・ハーディングが非常に貧しい、まさにプア・ホワイトの家に生まれたということは当時から知っていた。ライバルのナンシー・ケリガンも裕福ではなかったが、家族に恵まれ、マサチューセッツ州というアメリカの上流階級の地域でトーニャに比べたら比較的恵まれた環境にあったことはわかる。それに対し、トーニャは今で言う毒母に相当するひどい母親から虐待され、ただフィギュアスケーターとしての才能があったのでそれだけを頼りにのしあがった。ケリガンが受けていたような家族の援助などはなかったようだ。
トーニャの関係者によるケリガン襲撃事件はよく覚えているが、当時、私が感じたのは、トーニャの周辺にいる男たちはごろつきみたいなやつばかりだということ、オリンピックでメダルをめざすような選手がなぜこんな連中を、ということだった。
そして、映画にも描かれるリリハンメル五輪での靴紐事件も、彼女がこういう行動をして生きてきたようなずるい女性という印象を持った。
映画はトーニャと元夫ジェフなどへのインタビューをもとに作られたが、彼らの主張が真実とは限らない。映画はそれぞれの人物を演じる俳優がインタビューを再現し、ドラマ部分でも人物が突然カメラの方を向いて意見を言うといった、ある種の再現ドラマのように進行する。
トーニャの元夫ジェフは妻に暴力をふるうDV男だが、トーニャも反撃して殴ったりしており、妻が一方的に殴られるDVとは少し違うようだ。また、ジェフはスケートに専念するトーニャのために家事もしていて、夫の内助のような面もあったようだ。
結局、まずいのは夫の友人のショーンという男で、この男が自分は秘密諜報部員だと思い込んでいる妄想男で、彼がケリガン襲撃を勝手にやってしまったというように映画は描いている。ただ、この妄想男はすでに亡くなっていて、反論できないのだが。
映画ではまずトーニャにある大会に出場したら殺すという脅迫状が来て、それでトーニャは棄権する。その後、妄想男がかわりにケリガンを脅迫しようと言いだし、トーニャと元夫もそれは支持する。が、妄想男は脅迫のかわりにケリガン襲撃をしてしまった、というのが映画のストーリーだ。
このあたり、どこまでが真実かはわからない。ケリガンを脅迫して出場させないようにしようとしたなら結局同じことではないかとも思える。しかも映画では、トーニャを脅迫したのは実はその妄想男だったということになっている。
このあたりの展開はどうも眉に唾をつけないといけない感じがするのだが、この映画で興味深いのはむしろ前半。フィギュアスケートの世界が非常に保守的で、女性らしさを売り物にしないトーニャが評価されないといったジェンダーのテーマが出てくるところ。フィギュアスケートの世界はごく最近まで、女性はフリルやリボンをつけない男性的な衣装で滑ることを禁じられていたし、ジャンプを得意とするパワフルなスケーターが不利な扱いを受けるということがあった。ナンシー・ケリガンもまた、リリハンメルでは芸術点の高いロシアの選手に負けて銀メダルだったのだ(映画の中でトーニャは、銀メダルなのに仏頂面をしているとケリガンを批判する)。
こうしたジェンダーの問題、女性らしさとか、あるいはトーニャの所属する世界でのマッチョ主義とかいったテーマと、毒母であるトーニャの母を描いているけれど、全体としては今ひとつ焦点が定まらない中途半端な感じがする映画になっているのが残念。
千代田線は以前から明治神宮前に(原宿)という副題をつけていたが、ここは原宿への乗換駅なので別に違和感はなかった。半蔵門線の押上には(スカイツリー前)という副題がついているけれど、これもスカイツリーへ行くお客さんの便宜のためだろうと思っていた。
しかし、丸の内って、いったい、なぜ?
そもそも明治神宮前とか二重橋前とか、何かの前っていう名前がバス停みたいではあったのだが、それでもかつては明治神宮や二重橋はそれなりに知名度があったのだろう。が、いまや知名度は原宿や丸の内が上なのか?
原宿はまだわかりますが、丸の内って、どうよ?
それはともかく、「アイ、トーニャ」の試写を見た。
トーニャ・ハーディングがなぜ今映画に、という疑問があるが、出演者の好演もあってアカデミー賞にノミネートされ、助演女優賞受賞。「ウィンストン・チャーチル」もそうだったが、有名人の映画は人気があるのか試写室は混んでいた。
マーゴット・ロビー演じるトーニャは私の記憶にあるトーニャとはかなり違って、鋭い表情をしたきつい女性だった。
私の記憶にあるトーニャはもっとかわいい顔の女性で、そのかわいい顔でいろいろ同情を引いたりして立ち回ってきたのだろうと思うタイプだった。
映画の最後に登場する本物のトーニャ(記録フィルム)は記憶どおりの表情をしている。
トーニャ・ハーディングが非常に貧しい、まさにプア・ホワイトの家に生まれたということは当時から知っていた。ライバルのナンシー・ケリガンも裕福ではなかったが、家族に恵まれ、マサチューセッツ州というアメリカの上流階級の地域でトーニャに比べたら比較的恵まれた環境にあったことはわかる。それに対し、トーニャは今で言う毒母に相当するひどい母親から虐待され、ただフィギュアスケーターとしての才能があったのでそれだけを頼りにのしあがった。ケリガンが受けていたような家族の援助などはなかったようだ。
トーニャの関係者によるケリガン襲撃事件はよく覚えているが、当時、私が感じたのは、トーニャの周辺にいる男たちはごろつきみたいなやつばかりだということ、オリンピックでメダルをめざすような選手がなぜこんな連中を、ということだった。
そして、映画にも描かれるリリハンメル五輪での靴紐事件も、彼女がこういう行動をして生きてきたようなずるい女性という印象を持った。
映画はトーニャと元夫ジェフなどへのインタビューをもとに作られたが、彼らの主張が真実とは限らない。映画はそれぞれの人物を演じる俳優がインタビューを再現し、ドラマ部分でも人物が突然カメラの方を向いて意見を言うといった、ある種の再現ドラマのように進行する。
トーニャの元夫ジェフは妻に暴力をふるうDV男だが、トーニャも反撃して殴ったりしており、妻が一方的に殴られるDVとは少し違うようだ。また、ジェフはスケートに専念するトーニャのために家事もしていて、夫の内助のような面もあったようだ。
結局、まずいのは夫の友人のショーンという男で、この男が自分は秘密諜報部員だと思い込んでいる妄想男で、彼がケリガン襲撃を勝手にやってしまったというように映画は描いている。ただ、この妄想男はすでに亡くなっていて、反論できないのだが。
映画ではまずトーニャにある大会に出場したら殺すという脅迫状が来て、それでトーニャは棄権する。その後、妄想男がかわりにケリガンを脅迫しようと言いだし、トーニャと元夫もそれは支持する。が、妄想男は脅迫のかわりにケリガン襲撃をしてしまった、というのが映画のストーリーだ。
このあたり、どこまでが真実かはわからない。ケリガンを脅迫して出場させないようにしようとしたなら結局同じことではないかとも思える。しかも映画では、トーニャを脅迫したのは実はその妄想男だったということになっている。
このあたりの展開はどうも眉に唾をつけないといけない感じがするのだが、この映画で興味深いのはむしろ前半。フィギュアスケートの世界が非常に保守的で、女性らしさを売り物にしないトーニャが評価されないといったジェンダーのテーマが出てくるところ。フィギュアスケートの世界はごく最近まで、女性はフリルやリボンをつけない男性的な衣装で滑ることを禁じられていたし、ジャンプを得意とするパワフルなスケーターが不利な扱いを受けるということがあった。ナンシー・ケリガンもまた、リリハンメルでは芸術点の高いロシアの選手に負けて銀メダルだったのだ(映画の中でトーニャは、銀メダルなのに仏頂面をしているとケリガンを批判する)。
こうしたジェンダーの問題、女性らしさとか、あるいはトーニャの所属する世界でのマッチョ主義とかいったテーマと、毒母であるトーニャの母を描いているけれど、全体としては今ひとつ焦点が定まらない中途半端な感じがする映画になっているのが残念。
2018年3月22日木曜日
雨の日はパンダを見に
21日春分の日は一日中雨。それもみぞれまじりや時々雪もぱらつく。
祝日だけどさすがに上野動物園のパンダ母子観覧整理券ははけないだろうと思い、またまた午後に出かけてみた。
上野駅に着くと、駅のすぐ外で「整理券配布中」の札を持ったおじさんが。いつもは動物園の入場口の列ができるあたりにいるのに、よっぽどお客さん少ないのだろうと思ったら、午後1時50分に入って2時10分の整理券。パンダ舎の前をうろうろしているうちに入場時間が来た。
前回までは五重塔の前で整理券を受け取り、列に並んで父パンダ、リーリーのいる運動場の隣の運動場の前から入ったのだけど、先週からやり方が変わり、表門を入ってすぐのところで整理券を受け取り、列に並んで前回とは反対側から入る。
2月に行ったときは母のシンシンと子供のシャンシャンは運動場にいたので、そこで見て、あとはパンダの部屋の前を通って出たが、3月上旬のときは雨で母子は部屋にいたので、部屋を見ただけで終わり。
が、今回はパンダの部屋2つを公開していて、どちらの部屋の前でもパンダが見れる。
最初の部屋にパンダがいる。前回パンダがいたのは左側の部屋で、右側の部屋は公開されていなかった。
シャンシャンは動き回っていた。
隣の部屋の前から。
シンシンは寝ている。
何かを口にくわえているシャンシャン。竹か?
手に持っている。今回は正面の顔が撮れなかった。
動物園はガラガラだったけれど、パンダ母子観覧はさすがに列ができているので、見られる時間はわずか。今回は運動場の前を通って外に出るのだけど、多くの人がパンダを見たらさっさと帰ってしまうのでびっくり。父パンダ、リーリーが今日はお休みで見られず残念。
上野はもう桜が咲いている。パンダ以外のところはほんとガラガラでほとんど人がいない。
ホッキョクグマのオスとメスが同居している。
ツキノワグマ。
今日のハイライトは実はここだった。アビシニアコロブスというオナガザルの1種。左のサルが赤ちゃんを抱いている。今日はすいてたので思い切りたくさん写真が撮れたが、いつもは人がいっぱいかもしれない。大人と同じ毛並みになった子供のサルもいて、動き回るので写真がうまく撮れず。赤ちゃんは大人のサルみんなが面倒を見ているみたいだった。
西園の爬虫類館へ。爬虫類は苦手なのでこれまでずっとスルーしてきたが、雨で寒いので中に入ってみた。が、寒い外から湿った暖かい部屋に入ったのでレンズが曇り、写真が撮れるまでしばらく待つことに。
色鮮やかなトカゲ。
小さい金色のカエル。かわいい。
イグアナが舌を出している。
小獣館へ。ミーアキャットが後ろ足で立っている。
マヌルネコ。前回までは2匹いたのに1匹しかいない。
と思ったら地下の暗い部屋にいた。上の部屋も薄暗くしているけれど、地下は本当に暗くなっていて、赤いランプがあるところはかろうじて写真が撮れる。
これもかわいい。
上野駅。
祝日だけどさすがに上野動物園のパンダ母子観覧整理券ははけないだろうと思い、またまた午後に出かけてみた。
上野駅に着くと、駅のすぐ外で「整理券配布中」の札を持ったおじさんが。いつもは動物園の入場口の列ができるあたりにいるのに、よっぽどお客さん少ないのだろうと思ったら、午後1時50分に入って2時10分の整理券。パンダ舎の前をうろうろしているうちに入場時間が来た。
前回までは五重塔の前で整理券を受け取り、列に並んで父パンダ、リーリーのいる運動場の隣の運動場の前から入ったのだけど、先週からやり方が変わり、表門を入ってすぐのところで整理券を受け取り、列に並んで前回とは反対側から入る。
2月に行ったときは母のシンシンと子供のシャンシャンは運動場にいたので、そこで見て、あとはパンダの部屋の前を通って出たが、3月上旬のときは雨で母子は部屋にいたので、部屋を見ただけで終わり。
が、今回はパンダの部屋2つを公開していて、どちらの部屋の前でもパンダが見れる。
最初の部屋にパンダがいる。前回パンダがいたのは左側の部屋で、右側の部屋は公開されていなかった。
シャンシャンは動き回っていた。
隣の部屋の前から。
シンシンは寝ている。
何かを口にくわえているシャンシャン。竹か?
手に持っている。今回は正面の顔が撮れなかった。
動物園はガラガラだったけれど、パンダ母子観覧はさすがに列ができているので、見られる時間はわずか。今回は運動場の前を通って外に出るのだけど、多くの人がパンダを見たらさっさと帰ってしまうのでびっくり。父パンダ、リーリーが今日はお休みで見られず残念。
上野はもう桜が咲いている。パンダ以外のところはほんとガラガラでほとんど人がいない。
ホッキョクグマのオスとメスが同居している。
ツキノワグマ。
今日のハイライトは実はここだった。アビシニアコロブスというオナガザルの1種。左のサルが赤ちゃんを抱いている。今日はすいてたので思い切りたくさん写真が撮れたが、いつもは人がいっぱいかもしれない。大人と同じ毛並みになった子供のサルもいて、動き回るので写真がうまく撮れず。赤ちゃんは大人のサルみんなが面倒を見ているみたいだった。
西園の爬虫類館へ。爬虫類は苦手なのでこれまでずっとスルーしてきたが、雨で寒いので中に入ってみた。が、寒い外から湿った暖かい部屋に入ったのでレンズが曇り、写真が撮れるまでしばらく待つことに。
色鮮やかなトカゲ。
小さい金色のカエル。かわいい。
イグアナが舌を出している。
小獣館へ。ミーアキャットが後ろ足で立っている。
マヌルネコ。前回までは2匹いたのに1匹しかいない。
と思ったら地下の暗い部屋にいた。上の部屋も薄暗くしているけれど、地下は本当に暗くなっていて、赤いランプがあるところはかろうじて写真が撮れる。
これもかわいい。
上野駅。
2018年3月21日水曜日
映画評
キネマ旬報4月上旬号に「ウィンストン・チャーチル」映画評を執筆しました。
映画評っていうよりはチャーチルの解説がメインです。
表紙は「ペンタゴン・ペーパーズ」ね。まだ見てません。
筆者紹介に「「妖猫傳」中国語版を見たい」と書いたのですが、雑誌が出る前にインターナショナル版公開が決定した「空海」。週末からのスケジュールが各地のシネコンで出ていますが、都内の新宿と六本木は2回上映だけど、他の地区は1日1回。しかも私が行こうと思っていた近場のシネコンはなんとレイトショーで終わるの10時35分。ここは駅から15分くらい歩くらしいので(まだ行ったことない)夜道をそんなに歩いて帰るのいやじゃ、てことで、他を探しましたが、六本木は午前中とお昼の回、新宿はレイトではないけど夜の部。いろいろ探したら、1時間ちょっとのところの他県のシネコンが都合のいい時間なので、そこに決定。
しかし、予想どおり、どこも小箱です。それもそのシネコンで一番小箱に割り当てられている。そんなに客来ないのかなあ。六本木や新宿で満員になれば少しは変わるだろうか。今まで吹替え版を定員300人以上の大箱でやるところを探しに探して見ていたので、小箱の小さなスクリーンはものすごく残念。まあ、前の方の席が好きだからいいか。
ところでインターナショナル版は日本語吹替え版と同じ131分とシネコンでは表示されています。ということは最初の歴史解説はインターナショナル版にも入れてあるのか? 別にあってもかまわないのでいいですが。しかし、ああいう解説を最初に入れなければならないほど空海は実はさほどの集客力はなかったってことで、やっぱり最初から字幕版も公開して、猫と美青年と美少年と美女と、そして楊貴妃をめぐる愛の物語を強調してればよかったのに、とつくづく悔やまれます。
映画評っていうよりはチャーチルの解説がメインです。
表紙は「ペンタゴン・ペーパーズ」ね。まだ見てません。
筆者紹介に「「妖猫傳」中国語版を見たい」と書いたのですが、雑誌が出る前にインターナショナル版公開が決定した「空海」。週末からのスケジュールが各地のシネコンで出ていますが、都内の新宿と六本木は2回上映だけど、他の地区は1日1回。しかも私が行こうと思っていた近場のシネコンはなんとレイトショーで終わるの10時35分。ここは駅から15分くらい歩くらしいので(まだ行ったことない)夜道をそんなに歩いて帰るのいやじゃ、てことで、他を探しましたが、六本木は午前中とお昼の回、新宿はレイトではないけど夜の部。いろいろ探したら、1時間ちょっとのところの他県のシネコンが都合のいい時間なので、そこに決定。
しかし、予想どおり、どこも小箱です。それもそのシネコンで一番小箱に割り当てられている。そんなに客来ないのかなあ。六本木や新宿で満員になれば少しは変わるだろうか。今まで吹替え版を定員300人以上の大箱でやるところを探しに探して見ていたので、小箱の小さなスクリーンはものすごく残念。まあ、前の方の席が好きだからいいか。
ところでインターナショナル版は日本語吹替え版と同じ131分とシネコンでは表示されています。ということは最初の歴史解説はインターナショナル版にも入れてあるのか? 別にあってもかまわないのでいいですが。しかし、ああいう解説を最初に入れなければならないほど空海は実はさほどの集客力はなかったってことで、やっぱり最初から字幕版も公開して、猫と美青年と美少年と美女と、そして楊貴妃をめぐる愛の物語を強調してればよかったのに、とつくづく悔やまれます。
2018年3月18日日曜日
「空海(妖猫傳)」&試写2本
木曜日は「空海」こと「妖猫傳」吹替え版4回目を見て、翌金曜日は試写のハシゴ。
「空海」は前日に中国語版日本語字幕が24日から上映されると知りましたが、木曜の分をすでに予約してあったので見に行きました。
吹替え版はこれが4度目で、最初の週はどこも大箱で上映していたけれど次の週からどんどん小箱にされていて、2回目と3回目(2週目)は1回目とは別のシネコンがまだ大箱だったのでそこへ行き、3週目はそこも小箱になったので、またまた別のシネコンを探してそこを予約(4回目)。もう、これはほんとに大きいスクリーンで見ないとだめです。
中国語版もこの時期だと小箱になってしまうかもしれないから、吹替えでもとにかく大箱のところへ行っておけてよかった。
私の場合、「空海」は、
1 吹替えしかやらないのか、じゃあ、見るのやめた。
2 猫映画? じゃ、見よう。
3 その世界にはまる。
4 ネットで中国語版を見る。
5 中国語の雰囲気がわかったので、それを頭に入れて吹替え版をリピート。
という推移ですね。あとはもう映画館で中国語版を見るのが楽しみ。
さて、中国語版日本語字幕ですが、字幕版ではなくインターナショナル版となっているのは、日本語吹替え版がインターナショナル版とは違う、日本国内版だからです。
インターナショナルの反対はドメスティックっていうんですが、国内版のことです。
他の例では「ブレードランナー」が初公開されたとき、アメリカ国内版とインターナショナル版の両方が作られ、日本ではインターナショナル版が公開されました。どこが違うかというと、当時はアメリカは残酷なシーンへの規制がきびしく、他の国はそうでなかったので、インターナショナル版の方には国内版にない残酷シーンがあるのです(今は日本も含め、世界的にきびしい)。
「空海」は日本国内版は132分、インターナショナル版は129分となっていますが、この3分は最初の歴史解説でしょう。あとは違うところは、楊貴妃と阿倍仲麻呂が対話するシーンでRADWIMPSの挿入歌が流れることで、インターナショナル版にはこれはありません(エンドロールの主題歌のみ)。タイトルの文字とエンドロールも日本独自のものですが、インターナショナル版だと最初に出る俳優名が黄軒(ホアン・シュアン)で、日本国内版は染谷将太だったので、こういう違いがあります。メインタイトルのバックは同じです。日本側としては染谷将太が最初じゃないといやだったんでしょうね。まあ、映画見ると染谷の空海の方が黄の白楽天よりやや主役かな、という感じしますが(まあ、本当の主役は猫だし)。
インターナショナル版は日本人同士の会話は本人の日本語で、染谷と阿部寛の中国語が吹替えです。ただし、口の動きが中国語になっているように、特に染谷は相当勉強したようです。染谷役の中国人声優さんが有名な人らしいのですが、阿部寛役の声優を決めるのに50人くらいオーディションしたそうで、どうりで雰囲気ぴったりの声です。
試写のハシゴはドイツのファティ・アキン監督の「女は二度決断する」とドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」。
「女は二度決断する」は主演のダイアン・クルーガーが初めて母国語のドイツ語で演技してカンヌ映画祭主演女優賞を受賞。アキン監督の映画、そんなにたくさん見ているわけではないですが、これまでに見たのはどれもほのぼのとしていたのに、これはドイツのネオナチによる移民へのテロを扱っているので暗い。しかも最後が救いがない。警察の移民への偏見や、ヒロインの実母と義母(夫の母)のひどい態度など、心がささくれだつようなシーンの連続。テロでヒロインの夫と息子を殺した犯人が捕まり裁判になるも証拠不十分で無罪、という救いのない展開で、そのあとがまた救いがないのですが、描写に少し疑問を感じるところもあります。あれだけのテロでほかに被害者はいなかったのか? 目撃者はヒロインだけなのか? 無罪になるのはちょっと単純すぎる気もします。そして、そのあとの展開もこれでいいのかという疑問が残ります。
「フジコ・ヘミングの時間」は、若い頃にピアニストとして認められそうになったときに聴力を失い、以後、ピアノ教師として生活してきたフジコが60代なかばでテレビで紹介されたのがきっかけで大ブレイク、20年近くたった今も人気ピアニストとして活躍している彼女の人生や家族、そして現在の生活を紹介するもの。正直、ドキュメンタリーとしてあまり面白くないです。フジコの演奏はすばらしいけれど、その演奏が細切れで、しかも演奏にナレーションをかぶせるという、彼女の演奏を聴かせる作りになっていない。14歳のときの絵日記とか、ファンには喜ばれるのかもしれないけど、彼女の演奏の魅力にもっと迫ってほしかった。作っている人があまりそういうところに興味がないのかな、と思ってしまう。彼女の演奏法は指をあまり曲げずに弾くタイプで、私の好きなサンソン・フランソワと同じタイプで、音もそういった演奏法をするピアニストの魅力にあふれています。でも、映画ではそういう音楽的な切り口はいっさいなくて、こういう紹介のされ方ばかりだから一部からテレビで有名になっただけみたいなことを言われるのかな、と思ってしまうという、残念な出来栄えです。
「空海」は前日に中国語版日本語字幕が24日から上映されると知りましたが、木曜の分をすでに予約してあったので見に行きました。
吹替え版はこれが4度目で、最初の週はどこも大箱で上映していたけれど次の週からどんどん小箱にされていて、2回目と3回目(2週目)は1回目とは別のシネコンがまだ大箱だったのでそこへ行き、3週目はそこも小箱になったので、またまた別のシネコンを探してそこを予約(4回目)。もう、これはほんとに大きいスクリーンで見ないとだめです。
中国語版もこの時期だと小箱になってしまうかもしれないから、吹替えでもとにかく大箱のところへ行っておけてよかった。
私の場合、「空海」は、
1 吹替えしかやらないのか、じゃあ、見るのやめた。
2 猫映画? じゃ、見よう。
3 その世界にはまる。
4 ネットで中国語版を見る。
5 中国語の雰囲気がわかったので、それを頭に入れて吹替え版をリピート。
という推移ですね。あとはもう映画館で中国語版を見るのが楽しみ。
さて、中国語版日本語字幕ですが、字幕版ではなくインターナショナル版となっているのは、日本語吹替え版がインターナショナル版とは違う、日本国内版だからです。
インターナショナルの反対はドメスティックっていうんですが、国内版のことです。
他の例では「ブレードランナー」が初公開されたとき、アメリカ国内版とインターナショナル版の両方が作られ、日本ではインターナショナル版が公開されました。どこが違うかというと、当時はアメリカは残酷なシーンへの規制がきびしく、他の国はそうでなかったので、インターナショナル版の方には国内版にない残酷シーンがあるのです(今は日本も含め、世界的にきびしい)。
「空海」は日本国内版は132分、インターナショナル版は129分となっていますが、この3分は最初の歴史解説でしょう。あとは違うところは、楊貴妃と阿倍仲麻呂が対話するシーンでRADWIMPSの挿入歌が流れることで、インターナショナル版にはこれはありません(エンドロールの主題歌のみ)。タイトルの文字とエンドロールも日本独自のものですが、インターナショナル版だと最初に出る俳優名が黄軒(ホアン・シュアン)で、日本国内版は染谷将太だったので、こういう違いがあります。メインタイトルのバックは同じです。日本側としては染谷将太が最初じゃないといやだったんでしょうね。まあ、映画見ると染谷の空海の方が黄の白楽天よりやや主役かな、という感じしますが(まあ、本当の主役は猫だし)。
インターナショナル版は日本人同士の会話は本人の日本語で、染谷と阿部寛の中国語が吹替えです。ただし、口の動きが中国語になっているように、特に染谷は相当勉強したようです。染谷役の中国人声優さんが有名な人らしいのですが、阿部寛役の声優を決めるのに50人くらいオーディションしたそうで、どうりで雰囲気ぴったりの声です。
試写のハシゴはドイツのファティ・アキン監督の「女は二度決断する」とドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」。
「女は二度決断する」は主演のダイアン・クルーガーが初めて母国語のドイツ語で演技してカンヌ映画祭主演女優賞を受賞。アキン監督の映画、そんなにたくさん見ているわけではないですが、これまでに見たのはどれもほのぼのとしていたのに、これはドイツのネオナチによる移民へのテロを扱っているので暗い。しかも最後が救いがない。警察の移民への偏見や、ヒロインの実母と義母(夫の母)のひどい態度など、心がささくれだつようなシーンの連続。テロでヒロインの夫と息子を殺した犯人が捕まり裁判になるも証拠不十分で無罪、という救いのない展開で、そのあとがまた救いがないのですが、描写に少し疑問を感じるところもあります。あれだけのテロでほかに被害者はいなかったのか? 目撃者はヒロインだけなのか? 無罪になるのはちょっと単純すぎる気もします。そして、そのあとの展開もこれでいいのかという疑問が残ります。
「フジコ・ヘミングの時間」は、若い頃にピアニストとして認められそうになったときに聴力を失い、以後、ピアノ教師として生活してきたフジコが60代なかばでテレビで紹介されたのがきっかけで大ブレイク、20年近くたった今も人気ピアニストとして活躍している彼女の人生や家族、そして現在の生活を紹介するもの。正直、ドキュメンタリーとしてあまり面白くないです。フジコの演奏はすばらしいけれど、その演奏が細切れで、しかも演奏にナレーションをかぶせるという、彼女の演奏を聴かせる作りになっていない。14歳のときの絵日記とか、ファンには喜ばれるのかもしれないけど、彼女の演奏の魅力にもっと迫ってほしかった。作っている人があまりそういうところに興味がないのかな、と思ってしまう。彼女の演奏法は指をあまり曲げずに弾くタイプで、私の好きなサンソン・フランソワと同じタイプで、音もそういった演奏法をするピアニストの魅力にあふれています。でも、映画ではそういう音楽的な切り口はいっさいなくて、こういう紹介のされ方ばかりだから一部からテレビで有名になっただけみたいなことを言われるのかな、と思ってしまうという、残念な出来栄えです。
2018年3月15日木曜日
「空海」(妖猫傳)中国語版が日本公開!
インターナショナル版の上映が決定!
3月24日(土)より全国17都市・19劇場にて、インターナショナル版(中国語音声/日本語字幕版)の上映が決定しました! ~上映劇場一覧~【東京】TOHOシネマズ六本木ヒルズ/TOHOシネマズ新宿
【神奈川】横浜ブルク13/TOHOシネマズ川崎
【千葉】TOHOシネマズららぽーと船橋
【埼玉】MOVIXさいたま
【新潟】ユナイテッド・シネマ新潟
【静岡】TOHOシネマズららぽーと磐田
【北海道】札幌シネマフロンティア
【宮城】TOHOシネマズ仙台
【愛知】ミッドランドスクエアシネマ
【富山】TOHOシネマズ高岡
【大阪】TOHOシネマズ梅田
【京都】TOHOシネマズ二条
【兵庫】OSシネマズミント神戸
【広島】広島バルト11
【香川】イオンシネマ綾川
【福岡】T・ジョイ博多
【熊本】TOHOシネマズはません
是非、劇場でご覧ください!
上記、公式サイトからのコピペです。
実は明日、吹替え版4回目行くんだけどね。
中国語版も2回は行っちゃいそう。
2018年3月13日火曜日
ふちねこを里子に出す。
去年は出遅れて3個しか集まらなかったベローチェのふちねこ。今年は初日から積極的にコーヒー飲んで集めていますが、1セット目はなんとかコンプリートしたものの、2セット目が最後の1つがなかなか手に入らない。その最後の1つは1セット目のときも苦労した種類。
で、3月15日まではもらったふちねこ2つを持っていくと好みのふちねこ1つと交換してくれるので、やむなく3個集まった2種類を放出。
猫を里子に出したような気分。
さよなら、2匹のふちねこ、というわけで写真を撮っておきました(同じ種類が手元にあるのだけど)。右がイカ耳、左がおなかなめ。
かわりにもらったのは赤い首輪をしたとびおりという猫。写真は撮っていません。
一番近いベローチェと自宅の間に野鳥がいる広い公園があるので、そこに寄ってから行きました。
ソメイヨシノではないけど桜が咲いていた。
梅も紅白咲いていましたが、ホワイトバランスが変なところに設定されてしまい、紅梅がこんな色に。
カワセミだと思う。上野動物園にもカワセミはいたけれど、やはり野生がよい。
川から小魚をとってきて食べている。野生だ。
で、3月15日まではもらったふちねこ2つを持っていくと好みのふちねこ1つと交換してくれるので、やむなく3個集まった2種類を放出。
猫を里子に出したような気分。
さよなら、2匹のふちねこ、というわけで写真を撮っておきました(同じ種類が手元にあるのだけど)。右がイカ耳、左がおなかなめ。
かわりにもらったのは赤い首輪をしたとびおりという猫。写真は撮っていません。
一番近いベローチェと自宅の間に野鳥がいる広い公園があるので、そこに寄ってから行きました。
ソメイヨシノではないけど桜が咲いていた。
梅も紅白咲いていましたが、ホワイトバランスが変なところに設定されてしまい、紅梅がこんな色に。
カワセミだと思う。上野動物園にもカワセミはいたけれど、やはり野生がよい。
川から小魚をとってきて食べている。野生だ。
「ファントム・スレッド」
アカデミー賞の候補にもなっていたポール・トーマス・アンダーソン監督の新作「ファントム・スレッド」。古風な映画、という噂は聞いていましたが、要するに、次の2点で表せる映画。
1 これってモラハラ映画でないの? 主人公の男女2人は気が強いからいいけど、配偶者などからモラハラ受けてトラウマになっている人にはお勧めできない。
2 元ネタは「レベッカ」と「ジェーン・エア」。どちらもジョーン・フォンテーン主演で映画化されていて、監督がフォンテーンについて言及している。
1950年代のロンドン。貴族や王族のドレスをデザインする仕立て屋レイノルズ(ダニエル・デイ・ルイス)は立ち寄ったレストランで働くウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)に出会う。その場でアルマをナンパし、夕食を共にし、自宅に招いてドレスを着せたり採寸したりする。
レイノルズにとってはアルマは仕立て屋としての霊感に役立つミューズだったわけですが、でもね、普通に考えて、いきなりナンパされて行っちゃって大丈夫なのかな、と思ってしまいます。相手が有名な仕立て屋とわかってるならともかく。現実だったらヤバイよ、ヤバイ。
全体にストーリーは現実とは少々かけ離れた内容なので、まあいいのかもしれませんが。
アルマはしだいにレイノルズを愛するようになるのですが、レイノルズは自分のライフスタイルを神経質なまでに守りたい男で、それが少しでも乱されると耐えられないタイプ。なので、彼を愛するアルマが2人だけのディナーをセッティングしても、それはレイノルズには耐えられない。そんな状況なわけだから、しつように愛を押し付けるアルマはなんだかストーカー女みたいだし、レイノルズも彼女の介入が嫌なら追い出せばいいのにそれはできない。ある種、共依存のような関係で、互いに自分のやり方を押し付けるような、相手を支配しようとするような関係になる。
これは本当に支配の物語で、特にストーカー女のアルマが自分のライフスタイルを守りたいレイノルズをなんとしてでも支配下に置こうとする話、なんですね。
前半、アルマが大きな音をたてて食事をしているのにレイノルズが腹を立てるシーンがありますが、後半、アルマが支配的になると、彼女はわざと大きな音を立てたりする。相手のいやがることをわざとやるという、モラハラです。
自分のライフスタイルを守りたいためにアルマにきつく当たるレイノルズの態度もモラハラかもしれませんが、この映画ではアルマのストーカーぶりやモラハラぶりが際立つ。普通、ストーカーやモラハラは男が加害者で女が被害者の場合が多いのですが、映画ではどうも女にそういう役割を振る傾向があって、個人的にはそこは引っかかるところです。男の都合でものごとが見られている、という感じを強く受けます。
それはともかく、この映画は明らかにダフネ・デュ・モーリアの小説とそれを映画化したヒッチコックの映画「レベッカ」のパロディ(?)です。
レイノルズはマンダレイの主人、アルマはその新妻(小説では語り手「私」で、名前がない)、レイノルズの姉シリル(レスリー・マンヴィル)が怖い家政婦、そして亡き妻レベッカに相当するのはレイノルズの母。
「レベッカ」の新妻は何も知らない善良な女性で、結婚してマンダレイの屋敷に来てから亡き妻レベッカのことを知り、原作では夫がレベッカを殺したことを知って(映画では事故になっていた)、それでも夫と秘密を共有しながら生きていく、という話ですが、アルマはそんな善良な女性ではなく、母の髪の毛を上着の芯に入れて生きているレイノルズを支配することで最終的にレイノルズとの愛を確かなものにする、という話。人物の構成は「レベッカ」と対になるけれど、「レベッカ」のヒロインとは違って、アルマは夫を支配することで人間関係を乗り切っていく。
この、夫を支配することで乗り切っていく、というのがシャーロット・ブロンテの小説で何度も映画化されている「ジェーン・エア」です。この小説は「レベッカ」の元ネタという説もあります。
「ジェーン・エア」は裕福なロチェスターの家に家庭教師として来たジェーンがロチェスターと恋に落ち、結婚しようとしたときに彼に妻がいることが発覚(妻は発狂して屋根裏部屋に閉じ込められている)。結婚はとりやめになり、それでも愛人になってほしいというロチェスターを断って、ジェーンは旅に出る。その後、ロチェスターの屋敷が火事になり、妻は焼死、彼女を救おうとしたロチェスターは身障者になってしまう。それを知ったジェーンはロチェスターのもとに戻り、彼と結婚するのですが、ここでロチェスターとジェーンの立場が逆転するわけです。最初はロチェスターの方がジェーンを支配できる立場だったのが、最後はジェーンがロチェスターを支配する立場になる。もちろん、ジェーンは支配的な女性ではなく、「レベッカ」のヒロイン同様善良な女性ですが、男に支配されない自立した女であり、ロチェスターより強い立場になって初めて彼を受け入れる、というふうになっているのです(これは「ジェーン・エア」論ではよく言われている)。
そう考えると、「ファントム・スレッド」は人物関係は「レベッカ」、結末は「ジェーン・エア」で、この2作はヒロインが善良だけど、「ファントム・スレッド」はヒロインがストーカー的でモラハラで、という意地悪な見方になっているわけです。
「レベッカ:も「ジェーン・エア」も作者は女性。それを男のアンダーソンが男の見方で描いた女の話。だからナンパにアルマが簡単についていくし、男性の方が多いはずのストーカーやモラハラを女のアルマがする、というふうになっているのだな。
女は怖い、と言いたい男にはそれなりにいい映画かもしれないけど、女の立場からするといろいろ突っ込みたいところのある映画。
1 これってモラハラ映画でないの? 主人公の男女2人は気が強いからいいけど、配偶者などからモラハラ受けてトラウマになっている人にはお勧めできない。
2 元ネタは「レベッカ」と「ジェーン・エア」。どちらもジョーン・フォンテーン主演で映画化されていて、監督がフォンテーンについて言及している。
1950年代のロンドン。貴族や王族のドレスをデザインする仕立て屋レイノルズ(ダニエル・デイ・ルイス)は立ち寄ったレストランで働くウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)に出会う。その場でアルマをナンパし、夕食を共にし、自宅に招いてドレスを着せたり採寸したりする。
レイノルズにとってはアルマは仕立て屋としての霊感に役立つミューズだったわけですが、でもね、普通に考えて、いきなりナンパされて行っちゃって大丈夫なのかな、と思ってしまいます。相手が有名な仕立て屋とわかってるならともかく。現実だったらヤバイよ、ヤバイ。
全体にストーリーは現実とは少々かけ離れた内容なので、まあいいのかもしれませんが。
アルマはしだいにレイノルズを愛するようになるのですが、レイノルズは自分のライフスタイルを神経質なまでに守りたい男で、それが少しでも乱されると耐えられないタイプ。なので、彼を愛するアルマが2人だけのディナーをセッティングしても、それはレイノルズには耐えられない。そんな状況なわけだから、しつように愛を押し付けるアルマはなんだかストーカー女みたいだし、レイノルズも彼女の介入が嫌なら追い出せばいいのにそれはできない。ある種、共依存のような関係で、互いに自分のやり方を押し付けるような、相手を支配しようとするような関係になる。
これは本当に支配の物語で、特にストーカー女のアルマが自分のライフスタイルを守りたいレイノルズをなんとしてでも支配下に置こうとする話、なんですね。
前半、アルマが大きな音をたてて食事をしているのにレイノルズが腹を立てるシーンがありますが、後半、アルマが支配的になると、彼女はわざと大きな音を立てたりする。相手のいやがることをわざとやるという、モラハラです。
自分のライフスタイルを守りたいためにアルマにきつく当たるレイノルズの態度もモラハラかもしれませんが、この映画ではアルマのストーカーぶりやモラハラぶりが際立つ。普通、ストーカーやモラハラは男が加害者で女が被害者の場合が多いのですが、映画ではどうも女にそういう役割を振る傾向があって、個人的にはそこは引っかかるところです。男の都合でものごとが見られている、という感じを強く受けます。
それはともかく、この映画は明らかにダフネ・デュ・モーリアの小説とそれを映画化したヒッチコックの映画「レベッカ」のパロディ(?)です。
レイノルズはマンダレイの主人、アルマはその新妻(小説では語り手「私」で、名前がない)、レイノルズの姉シリル(レスリー・マンヴィル)が怖い家政婦、そして亡き妻レベッカに相当するのはレイノルズの母。
「レベッカ」の新妻は何も知らない善良な女性で、結婚してマンダレイの屋敷に来てから亡き妻レベッカのことを知り、原作では夫がレベッカを殺したことを知って(映画では事故になっていた)、それでも夫と秘密を共有しながら生きていく、という話ですが、アルマはそんな善良な女性ではなく、母の髪の毛を上着の芯に入れて生きているレイノルズを支配することで最終的にレイノルズとの愛を確かなものにする、という話。人物の構成は「レベッカ」と対になるけれど、「レベッカ」のヒロインとは違って、アルマは夫を支配することで人間関係を乗り切っていく。
この、夫を支配することで乗り切っていく、というのがシャーロット・ブロンテの小説で何度も映画化されている「ジェーン・エア」です。この小説は「レベッカ」の元ネタという説もあります。
「ジェーン・エア」は裕福なロチェスターの家に家庭教師として来たジェーンがロチェスターと恋に落ち、結婚しようとしたときに彼に妻がいることが発覚(妻は発狂して屋根裏部屋に閉じ込められている)。結婚はとりやめになり、それでも愛人になってほしいというロチェスターを断って、ジェーンは旅に出る。その後、ロチェスターの屋敷が火事になり、妻は焼死、彼女を救おうとしたロチェスターは身障者になってしまう。それを知ったジェーンはロチェスターのもとに戻り、彼と結婚するのですが、ここでロチェスターとジェーンの立場が逆転するわけです。最初はロチェスターの方がジェーンを支配できる立場だったのが、最後はジェーンがロチェスターを支配する立場になる。もちろん、ジェーンは支配的な女性ではなく、「レベッカ」のヒロイン同様善良な女性ですが、男に支配されない自立した女であり、ロチェスターより強い立場になって初めて彼を受け入れる、というふうになっているのです(これは「ジェーン・エア」論ではよく言われている)。
そう考えると、「ファントム・スレッド」は人物関係は「レベッカ」、結末は「ジェーン・エア」で、この2作はヒロインが善良だけど、「ファントム・スレッド」はヒロインがストーカー的でモラハラで、という意地悪な見方になっているわけです。
「レベッカ:も「ジェーン・エア」も作者は女性。それを男のアンダーソンが男の見方で描いた女の話。だからナンパにアルマが簡単についていくし、男性の方が多いはずのストーカーやモラハラを女のアルマがする、というふうになっているのだな。
女は怖い、と言いたい男にはそれなりにいい映画かもしれないけど、女の立場からするといろいろ突っ込みたいところのある映画。
2018年3月10日土曜日
雨の動物園
木曜は1日中雨で、上野動物園のパンダ母子観覧整理券が最後まで残っていたようで、翌金曜日も朝から雨で昼になってもやみそうにない。これは今日も整理券残ってそう、と思って出かけ、午後1時半に着くと、3時10分の整理券をゲット。この日も最後まで残っていて、たまたま動物園の前を通った人がまだあると知って入ってくる感じ。
傘をさしながらの観覧だが、まずはいつでも見られるお父さんパンダ、リーリー。この日は木に登ったりとよく動いていた。写真に雨が写っている。
母子観覧まで1時間半あるので、前回見なかった場所へ。ここはノクターナル・アニマルズ(夜行性動物)のいる夜の森。コアリクイの子供らしい。寝てる。
コウモリ。
クマの森へ。ヒグマ。ほかにツキノワグマがいた。
前回も見た猿山。猿の体重計。
母子観覧の時間が近づき、この頃には雨もあがる。もう一度リーリーを。食事中。舌を出している。
ドアップ。今回の写真はどれもトリミングしてない。
リーリーはいろいろな動作や表情を見せるので、「役者だなあ」とお客さん。
いよいよシンシンとシャンシャンの母子観覧。これは前回の写真で(トリミングしている)、シンシンとシャンシャンが運動場に出ていたので、運動場の前を4区分にしてそこを少しずつ移動。どこからも見えたし、シャンシャンがこのあといろいろ動くので面白かった。
が、この日はシンシンが運動場の右端にいるだけ。運動場を2区分に分け、そのあとのシャンシャンのいる部屋が3区分目になる。
シャンシャンは寝てる時間が多いらしく、このときは起きて少し動いていたが、すぐ寝る。
運動場の隣の部屋。シャンシャンは寝ている。
が、ズームしてみると、時々目を開けている。白い毛が汚れているのはお母さんがなめるから。
行っても寝てばかり、とがっかりするお客さんも多いようで、前回の私は本当に運がよかったんだなあと思った。でも、寝る子は育つ。
そのあとは西園へ。ハシビロコウという鳥が1羽、3月1日に死んでしまったらしい。残りの3羽のうち2羽がいる。左橋と右端奥。
3羽目は上と反対側の広い庭にいた。
上野は花見の準備。まだ咲いている桜の木はわずか。
3月13日からは西園の池之端門と弁天門から入った人は整理券を受け取れないので注意してください。正門から入ってすぐが整理券配布場所になるようです。後ろから来る人はだめってこと。
傘をさしながらの観覧だが、まずはいつでも見られるお父さんパンダ、リーリー。この日は木に登ったりとよく動いていた。写真に雨が写っている。
母子観覧まで1時間半あるので、前回見なかった場所へ。ここはノクターナル・アニマルズ(夜行性動物)のいる夜の森。コアリクイの子供らしい。寝てる。
コウモリ。
クマの森へ。ヒグマ。ほかにツキノワグマがいた。
前回も見た猿山。猿の体重計。
母子観覧の時間が近づき、この頃には雨もあがる。もう一度リーリーを。食事中。舌を出している。
ドアップ。今回の写真はどれもトリミングしてない。
リーリーはいろいろな動作や表情を見せるので、「役者だなあ」とお客さん。
いよいよシンシンとシャンシャンの母子観覧。これは前回の写真で(トリミングしている)、シンシンとシャンシャンが運動場に出ていたので、運動場の前を4区分にしてそこを少しずつ移動。どこからも見えたし、シャンシャンがこのあといろいろ動くので面白かった。
が、この日はシンシンが運動場の右端にいるだけ。運動場を2区分に分け、そのあとのシャンシャンのいる部屋が3区分目になる。
シャンシャンは寝てる時間が多いらしく、このときは起きて少し動いていたが、すぐ寝る。
運動場の隣の部屋。シャンシャンは寝ている。
が、ズームしてみると、時々目を開けている。白い毛が汚れているのはお母さんがなめるから。
行っても寝てばかり、とがっかりするお客さんも多いようで、前回の私は本当に運がよかったんだなあと思った。でも、寝る子は育つ。
そのあとは西園へ。ハシビロコウという鳥が1羽、3月1日に死んでしまったらしい。残りの3羽のうち2羽がいる。左橋と右端奥。
3羽目は上と反対側の広い庭にいた。
上野は花見の準備。まだ咲いている桜の木はわずか。
3月13日からは西園の池之端門と弁天門から入った人は整理券を受け取れないので注意してください。正門から入ってすぐが整理券配布場所になるようです。後ろから来る人はだめってこと。
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